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漂泊団の支援

三月十日の未明潜航艇は装置の所在地まで残り二海里の地点を進んでいた。


水深は四千五百メートルを越えている。側道はとうに終わり、潜航艇は本道の最終区画にいる。装置の影響圏に深く入っている。計器の数値が安定しない。水温計が〇・五度のあいだで揺れ、塩分計の表示は数秒ごとに変動する。普段の深海では考えられない不安定さだ。


ミヤは計器の前で目を狭める。


「装置が近い」


ミヤは小さく言う。


「機関の出力も乱れ始めている。回転数が定常値の九割と一割のあいだを行き来している」


レイは目を閉じたまま助手席にいる。レイの呼吸は浅いままだが表情には小さな緊張がある。共鳴感知の波が装置の所在地から強く届いている。


「装置は私たちの位置を正確に把握している」


レイは言う。


「振動の波が、私たちの潜航艇の輪郭に合わせて届いている。装置は接近する対を、距離と角度で区別している」


ミヤは頷く。装置は機械的な反応で接近者を識別している。ハヤの手稿に記された機構の通りだ。


---


無線受信機が雑音の中から短い信号を拾う。


ミヤは音量を上げる。雑音の波の隙間に規則的な短い音が三回ずつ繰り返されている。漂泊団の暗号通信だ。短音三回は「波音号より」の合図になる。


「カグラからだ」


ミヤは言う。


無線の雑音の奥から低い男の声が浮かんでくる。最初は途切れがちだが徐々に明瞭になる。


「ミヤ。トオだ。聴こえるか」


声がする。


ミヤはマイクのスイッチを入れる。


「トオ。聴こえる」


ミヤは短く返事をする。


「俺たちは外で待つ」


トオの声が言う。


「波音号と漂泊団の七隻が深層航路入口の上空海域に展開している。封印派の追加艦が南東から、解放派の集会船団が北東から、管理庁の警備艦が西から接近している。三方向の同時接近だ。俺たちが間に入ってお前たちの上空を守る」


ミヤは息を呑む。


漂泊団の七隻が三勢力の艦船と対峙している。漂泊団に武装はほぼない。物理的な戦闘では劣勢だ。しかし漂泊団は航路の知識と機動力で時間を稼ぐ。ミヤとレイが装置に到達するための時間を漂泊団が外で買っている。


「フキも来ている」


トオは付け加える。


「波音号で待機している。お前が戻ったら最初に手を貸す段取りだ。カグラの隣で水と毛布を準備している。お前が降りてくる場所も決めてある」


ミヤはフキの顔を思い浮かべる。波音号の航海士で二十代後半、カグラの右腕として動いてきた女だ。ミヤが漂泊団に保護された十年前から、実務を支えてきた仲間でもある。戻る場所が用意されている。それは前提に過ぎないが、その前提の重みが今のミヤには大きい。


「お前たちが戻ってくる海域を、ずっと開けておく」


トオは続ける。


「戻ってこい。俺はお前を待つ」


トオの声は途切れがちだがその揺れない響きはミヤの十年の記憶と一致する。クロイス近郊の銀の祭でトオがミヤに言った「あの時、覚えてるか」の声と同じ響きだ。


---


無線が一瞬途切れる。


別の声が継ぎ目から入ってくる。低く落ち着いた女の声だ。ミヤは即座にそれが誰の声か分かる。


「ミヤ」


カグラの声がする。


ミヤは無線を握り直す。


「カグラ」


ミヤは短く返事をする。喉が小さく詰まる。


「最後の通信だ。装置が近いせいで、次にお前と話せる機会はない」


カグラは言う。


「だから二つだけ伝える」


ミヤは聴く。


「一つ。ハヤの手稿の最終ページの解読が終わった。タチバナと共同で進めた。装置との対話の最終手順だ。お前たちは『同時に観て、同時に聴く』ことが必要になる。観る者と聴く者が同じ瞬間に同じ深度で対話を開く。タイミングがずれると、装置は反応を返さない。これが最終的な条件だ」


ミヤはレイの方を見る。レイは目を閉じたまましかしカグラの声を聴いている。レイの口元がわずかに動いて、了解の意を示す。


「二つ。お前への言葉だ」


カグラは続ける。一瞬の沈黙がある。


「お前は、もう、観測者ではない」


ミヤは息を止める。


数か月前、カグラはミヤに問いかけた。「お前は、それでも、観測者であり続けるか?」と。あの問いの答えをミヤは長い時間をかけて、自分の足で歩いてきた。今、カグラがその問いの返答をミヤに返している。


ミヤは観測者ではない。観測者でいた十年が今、終わる。


十八歳の冬、海星座号の事故から救助された日、ミヤは波音号の甲板でカグラに最初の質問をされた。「お前は何を見たい」と。ミヤは答えられなかった。代わりに小さな声で「観たい」と言った。観るは見るより深い。観ることがその日からミヤの全てになった。父の観測ノートを継承したのも、独立観測者として漂泊団を半離脱したのも、その日の小さな「観たい」の一語の延長だった。


その延長が、今、終わる。観ることが目的だった十年の前半が、対話することが目的の何かに変わる。後ろを振り返らない。前にも光はない。それでも変わる。


---


「では何者なのか」


ミヤは問う。


「対話する者だ」


カグラは答える。


「観測する女から、対話する女に変わった。お前の母も父も、観測者だった。観測者は対象を外から見続ける。お前は対象の内側に入る。装置と一緒に新しい言葉を作る。それが対話する者の道だ」


ミヤは頷く。声は出ない。


「行ってこい、ミヤ」


カグラは最後に言う。


「俺はここで待つ」


無線の声は途切れる。


雑音の中にもう一度トオの短い声が混じる。「待つ」と一言だけ言う。それも雑音に呑まれる。漂泊団の通信は装置の影響でこれ以上は届かない。


ミヤはマイクのスイッチを切る。


潜航艇の中は機関の唸りと二人の呼吸の音だけになる。


---


レイがミヤの方を振り向く。レイの目は閉じたままだ。


「カグラの言葉を聴いた」


レイは小さく言う。


「お前は、対話する者だ。私も同じだ。私たちは、もう聴く男と観測する女ではない。対話する二人だ」


レイの声には不思議な穏やかさがある。シエラ・ディープ廃区画でレイと初めて出会った時のレイの目とは違う。あの時のレイは「もう一人」を見つけた驚きを抱えていた。今のレイは、二人で何をするかを既に知っている目をしている。


「装置の波が変わった」


レイは続ける。


「私たちが対話する者の名前を引き受けたことを、装置は感じている。装置の振動の質感が、一段階深くなった。装置は私たちを待っている」


ミヤは小さく息を吐く。装置が二人を待っている。それは予兆ではなく事実だ。共鳴感知者のレイがそれを確認している。


ミヤは小さく頷く。喉から声が出ない。代わりに操縦桿を握る両手に少しだけ力を入れる。指の関節が白くなる。十年間舵を握り続けた手の感覚が今、別の手の感覚に変わろうとしている。観測する手から対話する手に。


潜航艇は本道の最終区画を進む。前方の暗闇の中に装置の所在地の輪郭が始まる。サーチライトは消したままだがミヤは何かが見える気がする。光ではない。形でもない。装置の存在そのものの密度が潜航艇の窓越しに伝わってくる。


水温は四度から五度のあいだで揺れる。本来の深海の水温より三度ほど高い。圧力計の数値もわずかに低い。装置が周囲の物理量を歪めている範囲が拡張している。ミヤは父のノートの該当ページの記述を思い出す。父は四十年前に同じ揺れを観測した。父はそこまで近づいてから引き返している。父にとって装置に到達することは目的ではない。父の目的は記録することにある。今ミヤはその記録を超える地点に立っている。父が引き返した境界を、娘が越える。


「あと一海里」


ミヤは小さく言う。


「装置の所在地に到達する。準備をする」


レイは目を閉じたまま頷く。レイの手は膝の上の位置から動かない。共鳴を受け取る姿勢のままだ。ミヤは操縦桿を握る両手の角度を微調整する。観測の手から対話の手へ、握り方の重心が少しだけ変わる。


二人は潜航艇の中で最後の沈黙の時間を共有する。漂泊団は外で待っている。封印派と解放派と管理庁の艦船は上空海域で漂泊団と対峙している。誰もが装置に向かっている。しかし装置と対話できるのは観測する手を捨てた二人だけだ。


ミヤはレイの横顔を見る。レイの目は閉じたままだ。睫毛の影が頬にかすかに落ちている。レイの呼吸は深く落ち着いている。共鳴感知のフィルターを外したまま装置の波を聴き続けている顔は、苦痛ではなく集中の顔だ。ミヤはレイの手の位置を見る。レイの右手は膝の上で軽く開かれている。共鳴を受け取る形だ。


二人で同時に観て、同時に聴く。それがハヤの手稿の最終手順だ。ミヤの観る目とレイの聴く耳が同じ瞬間に同じ深度で対話を開く。タイミングがずれれば装置は反応を返さない。ずれずに開けば、装置は何かを返す。何を返すかは記録がない。誰も書き残せなかった領域だ。


ミヤは潜航艇を進める。深淵核の眠る最後の海域へ、二人は対の呼吸を合わせながら、静かに向かう。漂泊団の声は途絶えたが、外で待つ気配だけは潜航艇の壁を抜けて二人の背中に残っている。

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