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公開の波

三月十日の早朝オルタ書庫の地下執務室にタチバナはいた。


オルタは西の海上都市だ。太平洋の最も西側、旧アジア大陸沿岸の岩礁の上に建つ二十階建ての最高塔がオルタ書庫の本体になる。地下三階の執務室は最高塔の最深部だ。読み師連の上席研究員数名のみが入室を許される。


机の上にハヤの手稿の原本が広げられている。タチバナはインクで染まった指先で紙の縁を撫でる。手稿は薄い羊皮紙に旧文明語で書かれ、千年を越えて読み師連の地下第七資料室で保管されてきた。タチバナが四十年前にこの手稿を最初に開いた時、最初の弟子だったシナがそばにいた。シナが消えた後の四十年は、タチバナだけが解読を続けてきた時間になる。


その四十年が今日終わる。


タチバナは古い眼鏡を外して目を擦る。徹夜が三日続いている。痩せた長身が椅子に深く沈んでいる。白いひげに鉛筆の粉が薄くついている。


「最終ページの確認です」


若い男の声がする。タチバナの隣で資料を整理している若手研究員のナギだ。二十六歳、読み師連の中で最年少の解読担当だ。ナギは手稿の最終ページの写しを差し出す。


「カグラからの追加注釈と照合済みです。漂泊団系の口承伝承で『観る者と聴く者の同時開示』に該当する記述が三件確認されました。手稿の表記と整合します」


タチバナは頷く。


「最終手順は確定だ」


タチバナは小さく言う。


「『同時に観て、同時に聴く』。観測する女と聴く男が同じ瞬間に同じ深度で対話を開く。タイミングがずれれば装置は反応しない。ずれなければ装置は応答を返す」


ナギも頷く。


「公開準備は整っています。あとは送信の合図だけです」


---


タチバナは隣室の通信室へ移動する。


通信室には五台の旧文明製の通信機が並んでいる。それぞれの通信機が一つの海上都市の読み師連支部と繋がっている。ハリス・シエラ・オルタ・クロイス・ナヴァの五都市すべてに回線が伸びている。ナヴァは廃れて久しい都市だが読み師連の小さな支部だけが残っている。五つの支部に既に「封印された包」が物理的に届けられている。中身は手稿の全文の写しだ。包の暗号鍵だけが手元に残っている。


通信室にハーランがいる。ハーランは読み師連の最高解読者で六十八歳の長老格だ。タチバナより六歳上で白い髪を後ろで束ねている。組織内ではタチバナと意見が対立することが多かったがハヤの手稿の公開については最終的に合意した。


「タチバナ」


ハーランは言う。


「最終確認だ。送信したら、もう、戻せない。読み師連は管理庁の正面切っての敵になる。封印派からは『装置を世に広める異端』として標的にされる。解放派からは『独占を断つ味方』として利用される。読み師連の組織そのものが崩壊する可能性がある。それでも送るか」


タチバナはハーランを見る。タチバナの目には迷いがない。


「送る」


タチバナは答える。


「四十年、私は手稿を抱えてきた。シナが消えた時、私はこの手稿を世に出すかどうかを決められないままでいる。判断を保留して解読だけを続ける道を選んだ。判断を保留することは判断しないことではない。何もしないことが装置を眠らせ続けることに加担していた。今この瞬間対の継承者が装置に向かっている。世界の方ももう覚悟する番だ」


ハーランは小さく息を吐く。


「了解した」


ハーランは答える。


「私は最高解読者として最後の責任を取る。組織の崩壊は私が引き受ける。お前は手稿の内容に責任を取れ」


タチバナは頷く。二人は一瞬視線を合わせる。長い時間共に解読を続けてきた者同士の最後の合意がそこにある。


---


タチバナは五台の通信機の前に立つ。


最初の通信機はハリス支部に繋がる。タチバナは暗号鍵の文字列を入力する。指の動きはゆっくりだが正確だ。四十年解読を続けた指は文字の重みを覚えている。送信ボタンを押す。


二台目はシエラ支部に向けて入力する。三台目はクロイス支部、四台目はナヴァ支部、五台目はオルタ支部の順に同じ手順を繰り返す。


五台すべてに同じ暗号鍵が送られる。送信完了の表示が一台ずつ点灯する。


「送信完了」


ナギが言う。


タチバナは時計を確認する。早朝五時四十二分だ。各支部の解読者たちは既に通信機の前で待機している。暗号鍵を受信した瞬間に「封印された包」を開封し、手稿の全文を支部の市民集会場に運ぶ手筈になっている。並行して、漂泊団系の独自通信網で同じ暗号鍵が一般市民の手元の安価な受信機にも届けられる。漂泊団のネットワークはカグラが先月から準備していた。


公開は段階的だが急速だ。五都市すべてで一時間以内に手稿の全文が市民に届く。市民は手稿の内容を読み師連の解読補助付きで知る。装置の真意、過去四世代の継承者の存在、対話の道、第二大反復の脅威、すべてが同時に公開される。


タチバナは送信機の前から離れない。送信が完了したとしても、各都市の支部での開封と音読が始まるまでが本当の意味での「公開」だ。途中で管理庁の通信妨害が入る可能性も残っている。妨害が入った場合に備えて、漂泊団系のネットワークを介した二次送信もカグラが手配している。一次送信が遮断されても二次送信で十分カバーできる。一次と二次の両方が同時に遮断される確率はほぼゼロだ。


「あとは波に任せる」


タチバナは小さく言う。


---


通信室の窓の外でオルタの朝が始まる。


タチバナは窓に近づく。海上都市の朝の光が二十階建ての最高塔の窓に薄く差し込む。海面は静かだ。風はほとんどない。三月の冷たい空気が窓の隙間から微かに入る。


タチバナは自分の手を見る。インクで染まった指先が今朝も変わらず黒い。四十年同じ作業を続けた指だ。手稿を解読する指、注釈を書く指、文字を世界に渡す指がここに重なっている。今日その指の四十年が終わる。


四十年前にシナがタチバナに言った言葉を思い出す。「先生は文字の人だ」と。シナは漂泊団系の若い女性で口承伝承を体に染み込ませていた。シナにとって文字は二次的なものだったが、それでもシナはタチバナの解読作業を尊重し続けた。「先生の文字がいつか誰かを助ける」と。


その「誰か」が、今日世界の市民全員になる。シナが予言したのは個人だったかもしれない。しかしタチバナはそれを集団に拡張した。手稿を世界に開く。それがシナへの最後の応答だ。


ハーランが背後から静かに言う。


「ハリス支部から最初の応答が届いた」


タチバナは振り向く。


「公開を開始した。読み師連の解読者が市民集会場で手稿の音読を始めた。集会場に集まっている市民は五百人。みな、聴いている」


タチバナは小さく頷く。


ハリスは管理庁本部の所在地だ。管理庁が公開を妨害する可能性が一番高い場所だが読み師連の支部は管理庁の管轄外で動く。妨害が来るとしても最初の数百人には届く。数百人が次の数千人に語る。手稿は文字から声へ声から記憶へ記憶から行動へ波のように広がる。


---


正午前にシエラ支部からも応答が届く。午後にはクロイス支部とナヴァ支部からも公開完了の連絡が入る。オルタ支部は地元なのでタチバナが直接確認できる。書庫の最高塔の下の広場で読み師連の若手たちが手稿の音読を始めている。広場にはオルタの市民が二百人以上集まっている。


タチバナはハーランと並んで窓から下を見下ろす。


「五都市すべてで公開が始まった」


ハーランは小さく言う。


「管理庁の妨害が動き始めている。ハリスでは警備員が集会場に入った。しかし市民の数が多すぎて、強制解散ができない。シエラでは解放派が公開を歓迎して自分たちの集会場でも音読を始めている。封印派は手稿の内容を異端と断じる声明を出した。しかし手稿の文字は、もう消せない」


タチバナは頷く。


「世界は、もう、知っている」


タチバナは小さく言う。


「装置の真意も過去継承者の系譜も、対話の道もすべて市民の手元にある。封印派が異端と断じても、解放派が利用しようとしても管理庁が隠そうとしても文字は残る。市民が手稿を読んだ事実は消えない。これで5勢力の主張の前提が崩れた」


ハーランは頷く。


「あとは深海の二人次第だ」


ハーランは小さく言う。


タチバナは目を閉じる。海上都市の朝の光が瞼の裏にぼんやりと残る。深海の暗闇の中で潜航艇を進めている二人の姿がその光の奥に浮かぶ。タチバナは二人の顔を直接知っている。レイとは四十年前のシナの面影を見つけた時に、ミヤとは書庫で「ふむ。自分で考えなさい」と告げた時に出会った。


タチバナは小さく祈る。世界の側は準備を終えた。残る一海里を二人が歩ききるように。


タチバナは目を開ける。窓の外でオルタの市民たちが手稿の音読を聴いている。声が広場から最高塔へ昇ってくる。古い旧文明語が今、市民の言葉になりつつある。

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