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解放派の急進

三月九日の正午過ぎ潜航艇は保守用側道を進み続けていた。


側道に入ってから十時間が経つ。封印派の四隻はとうに先行して見えない。側道は本道より細く、潜航艇の上部が天井すれすれを進む区画が続く。水深は三千八百メートルを越えた。装置の所在地まではあと四海里と少しだ。


レイは目を閉じたまま助手席にいる。睡眠はとっていない。共鳴感知のフィルターを外したまま深淵核への波を聴き続けている。レイの呼吸は浅い。ミヤはレイの横顔を一度見てからまた計器に視線を戻す。


水温計が小さく変化する。普段の深海の水温は一定だが装置の所在地に近づくにつれてわずかに上昇している。〇・三度の変化だ。計器がなければ気づかない範囲だがミヤの十年の観測員経験では明確な異常になる。


ミヤは指で水温計の数字を二度確認する。誤計測の可能性も考えるが、近くの圧力計と塩分計の数値はすべて整合している。装置が水質に影響を与えている。深淵核の存在が周囲の物理量を歪めている。父の観測ノートにも同様の記録があった。父は四十年前のシナの消失の前後に、似た水温変化を観測している。父の記録と今の数値が三十年の時を超えて一致する。


「もう一つ聴こえる」


レイが小さく言う。


ミヤは身構える。


「封印派ではない。北東から、別の集団が来る。航行音が違う。集会船級の中型船が三隻、それより小さな観測艇が複数。十数人規模の人員」


ミヤは即座に理解する。


「解放派」


ミヤは小さく言う。


「アサの部隊だ。先日、漂泊団のネットワーク経由で受け取った時点では北東の深層航路の入口から進軍を始めていた。封印派より少人数だが、結束が強い」


レイは頷く。


「集会船の唸りに祈りはない。代わりに、何か別の旋律がある。詠唱に近い。解放派の集会で歌われる『海の歌』だ」


---


ミヤは航路図を頭の中で広げる。


解放派の北東ルートは本道とも禁止ルートとも違う、第三の経路を使っている。旧文明期に海底資源の調査用に掘られたトンネル群の一部だ。管理庁の管轄外で漂泊団でも完全には把握していない。アサの部隊はそのトンネルを使って装置に接近している。封印派と同じ目的地、同じ装置、しかし別の論理で動いている。


問題は第三の経路とミヤとレイが今いる保守用側道がどこかで交差しているかどうかだ。父の地図には記されていない。父の世代の漂泊団は解放派の経路を完全には知らなかった。


「交差点が前方にある」


レイが言う。


「五海里先。アサの集団もそこに向かっている。私たちの方が先に到着する。三十分の差だ」


ミヤは判断する。


交差点を避けて迂回する時間はない。装置への到達時刻が大幅に遅れる。封印派の四隻が装置の所在地で待ち構えている今、時間の余裕はほぼゼロだ。交差点を通過するしかない。


「通る」


ミヤは決める。


「交差点を最低速度で通過する。サーチライトは消したまま。解放派が到着する前に抜ける」


レイは目を閉じたまま頷く。レイの口元がわずかに動く。


「アサの声が無線の中にある」


レイは小さく言う。


「解放派の通信が、共鳴感知の波と重なって、断片的に届く。アサは『対が来ている』と言っている。集団の中で誰かが私たちの接近を感じたらしい」


ミヤは息を呑む。


解放派にも共鳴感知者がいる。レイほど鋭くはないが対の接近を察する程度の感度を持つ者がいる。アサはそれを通じてミヤとレイの存在を把握している。


---


潜航艇は交差点に近づく。


交差点は旧文明期の保守用円形ホールだ。直径約三十メートル、高さ十メートル。複数の側道がここで交わり、一つは深淵核の方角、一つは解放派の第三経路、もう一つは閉鎖された旧文明区画に通じている。


ミヤは潜航艇を交差点の中央に進める。深淵核方向の出口に向けて、最低速度で滑り抜ける。サーチライトは消えている。計器の小さな光だけがミヤとレイの顔を照らす。


交差点の対角線上、解放派の第三経路の入口にぼんやりとした光が見えた。


「来ている」


ミヤは小さく言う。


「予定より早い。十五分前後の差で交差点に着く」


レイが目を開ける。


レイはミヤを見る。レイの目には驚きはない。代わりに何かを聴き取ろうとする集中がある。


「無線が開かれた」


レイは言う。


「アサの声だ。私たちの潜航艇に向けて」


ミヤは無線受信機の音量を上げる。雑音の中から女性の声が浮かぶ。半年前にミヤがシエラの集会で聴いた声と同じだ。しかし張りが違う。確信が深い。


「観測する女、聴く男。あなた方の接近を私たちは感じている」


声は言う。


「私はアサ。解放派の研究者です。装置に向かう道で、対と出会うことを願っていた」


---


ミヤは無線を握る。返事をするかどうか迷う。


しかし沈黙のままでは交差点で接触する可能性がある。応答して通過の意思を示す方が安全だ。ミヤはマイクのスイッチを入れる。


「アサ。私たちは通過するだけだ。装置に向かう」


ミヤは短く言う。


「あなた方の経路を妨げる意図はない」


無線の向こうからアサが小さく息を吸う音が届く。


「装置に到達してどうするのですか」


アサが問う。


「あなた方は、装置を破壊するのではない。封印派ではないことは、共鳴感知で分かる。では何をするのですか」


ミヤは答えない。ハヤの手稿のことも対話の道のことも解放派には伝えていない。伝えれば解放派は別の論理で利用しようとするかもしれない。


「対話をする」


レイがミヤの隣で言う。マイクは握っていない。しかしレイの声が無線に乗っていることをミヤは知る。共鳴感知の波が無線の電波と微かに同期している。


「装置と対話する。それが第六の道だ」


アサの返事は数秒遅れて返ってくる。


「対話。私はその言葉を半年前から自分に問い続けていました。装置との対話が可能なら、装置を破壊する必要も装置を開放する必要もない。ただ、聴き合うだけで足りる。私はその可能性に震えています」


ミヤはアサの声に揺れを聴く。半年前にシエラの集会で聴いたアサとは違う。あの時のアサは確信のための演説をしていた。今のアサは確信を疑う場所にいる。


「しかし私の部隊は私の判断を待たない」


アサは続ける。


「解放派の論理は『装置の力を一般市民に開放する』ことだ。装置と対話する道は、解放派の論理に含まれない。私一人の判断では、部隊の進軍を止められない」


---


潜航艇は交差点を通過する。


深淵核方向の出口に入る。側道はここから再び細くなる。装置の所在地までの残りの距離は四海里。


レイが目を閉じる。アサの声を最後まで聴こうとしている。


「あなた方が対話に成功したら、私たちにも教えてください」


アサの声が遠ざかりながら言う。


「対話の中で、何が起きたか。装置が何を言ったか。私は知りたい。解放派の論理ではなく、一人の人間として知りたい」


無線が途切れる。


ミヤはマイクから手を離す。潜航艇は側道の細い区画を進む。水深は四千メートルを越える。深淵核の所在地が近い。


レイは再び目を開けてミヤを見る。


「アサは揺れている」


レイは言う。


「半年前の確信は、もうない。しかし新しい確信も、まだない。アサの中で二つの論理が同時に存在している」


ミヤは頷く。


封印派は別の救済の論理を持っている。解放派も別の救済の論理を持っている。ミヤとレイの「対話」の道はその二つのどちらでもない。第三の論理だ。しかしその第三の論理が正しい保証はない。封印派の論理も解放派の論理もそれぞれに筋が通っている。


ミヤは自分の中に小さな揺れを感じる。


装置と対話することが本当に正しいのか。装置を破壊した方があるいは開放した方が人類にとって良い結果になるのではないか。十年の観測員経験はそれを判断する材料にはならない。父の観測ノートにも答えはない。ハヤの手稿にも答えは半分しかない。


アサの声が頭の中に残っている。「対話の中で、何が起きたか。装置が何を言ったか」という問い。アサは確信を疑う場所にいる。ミヤも今、同じ場所にいる。ハヤは「対話を試みる方法」を残したがその結果がどうなるかは書き残せなかった。ハヤの世代の二人も結果に到達する前に消失した。ミヤとレイは結果が見えないまま、その先を選ぶ。


レイがミヤの方を振り向く。レイは再び目を閉じているが顔の向きは正確にミヤを捉えている。レイには共鳴感知でミヤの揺れが見えている。


「揺れていい」


レイは小さく言う。


「揺れているのは私も同じだ。揺れない継承者は装置に呑まれた。揺れる対だけが、第六の道を歩ける」


しかしミヤは潜航艇を進める手を止めない。


「私たちは、選び続ける」


ミヤは小さく言う。


「揺れながら、それでも選び続ける。装置に到達するまで、何度でも選び直す」


レイは目を閉じたまま、ゆっくりと深く頷く。レイの呼吸が少しだけ深くなる。


潜航艇は側道の暗闇の中を、深淵核の眠る方角に向かって、ゆっくりと進み続ける。

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