封印派の波
三月九日の深夜潜航艇は禁止ルートのトンネルを進み続けていた。
サーチライトは消したままだ。計器の小さな光だけがミヤとレイの顔を照らす。トンネルの内部は完全な暗闇だがミヤの目は暗闇に慣れている。水圧計、深度計、機関の出力計の数字が暗闇の中で薄く光って読める。
水深は三千五百メートルを越えている。トンネルは緩やかな下り傾斜を続ける。潜航艇の機関は最小限の出力で動いている。物理的な速度は遅い。一時間に約二海里の進行だ。深淵核の所在地まではあと十海里、五時間の航行になる。
ミヤの耳には機関の唸りと自分の呼吸の音だけが届く。潜航艇内の空気は与圧されて乾いている。鼻の奥に機関の油の匂いが薄くにじむ。ミヤは無意識に呼吸の間隔を伸ばす。深海で物音を立てないように身体が自然と動く。
レイが目を閉じたまま、急に背筋を伸ばす。
「来る」
レイが言う。
ミヤは身構える。レイの「来る」が何を意味するかは一月のシリン来訪の時に学んでいる。共鳴感知が遠くから何かを聴いた合図だ。今回はその何かが二人に向かってくる。
「後方から複数」
レイは続ける。
「潜航艇が四隻。武装している。修道戦士の祈りの旋律が聴こえる。封印派だ」
ミヤは計器を見直す。後方の感知計には何の反応もない。修道戦士の潜航艇は管理庁の正規ルートを通っていない。漂泊団の旧経路から禁止ルートに入ってきたらしい。封印派は装置の所在地への独自の経路を長年研究してきていた。
「距離はどれくらい」
ミヤは訊く。
「五海里。一時間半で追いつく」
レイの計算は共鳴感知の精度を含めての推定だ。誤差は数分以内になる。
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ミヤは選択肢を考える。
ここで停止して身を隠す方法は深海の禁止ルートではほぼ不可能だ。トンネルは直線で岩盤の凹凸はあるが武装した修道戦士の潜航艇の感知計に潜航艇一隻を完全に隠すことはできない。
加速して前方へ逃げる方法も難しい。深淵核の所在地に近づくほど装置の応答が強くなる。前方に進めば装置の影響圏に深く入り、潜航艇の機関が乱れる可能性がある。封印派の潜航艇も同じ影響を受けるはずだが彼らは集団なのでお互いを支援できる。二人だけの潜航艇には支援がない。
第三の選択肢が一つある。
トンネルの天井近くに古い保守用の側道がある。父の観測ノートの巻末の地図には漂泊団系の経路として小さく記されていた。禁止ルートの本道から外れて側道に入り、封印派の潜航艇をやり過ごす。側道は本道より細く、深淵核の所在地への直接ルートではない。しかし一度迂回して別の角度から本道に戻れば、封印派を抜くことができる。
「側道を使う」
ミヤはレイに告げる。
「天井近くに保守用の側道がある。位置を計算する」
レイは目を閉じたまま、頷く。
ミヤは父の地図を頭の中で広げる。父はこの側道に印を付けていた。父は四十年前のシナの消失の余波から観測を始めた頃、深淵核への接近経路を漂泊団系の伝聞から集めていた。父自身は深淵核に近づくつもりはない。しかし「いつか誰かが必要とするかもしれない」と考えて、経路を地図に残した。
その「誰か」が今、父の地図を使う。
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ミヤは操縦桿を上に倒す。
潜航艇は緩やかに上昇する。水深三千四百メートル、三千三百メートル、三千二百メートル。トンネルの天井が近づく。サーチライトは消したままなので天井の輪郭は見えない。ミヤは計器の数値だけで位置を判断する。
「三千百五十メートル付近」
ミヤは小さく言う。
レイは目を閉じたまま、聴いている。
潜航艇は天井のすぐ下を進む。ミヤは指でレバーを微調整する。深度を二メートル単位で制御する。普段の航海でこれほど精密な制御を要求されることはない。指の感覚が普段より遅いが十年の観測員経験が手の動きを支える。
「右に分岐がある」
レイが言う。
「五メートル先。共鳴の波の中に空洞の輪郭が浮かぶ」
ミヤは操縦桿を右に切る。
潜航艇は本道から外れて、細い側道に滑り込む。側道の天井は本道より低い。潜航艇の上部が天井すれすれを進む。ミヤは速度をさらに下げる。トンネルの内壁に潜航艇を擦らないために両手で操縦桿を精密に動かす。
側道に入ってから三分後、本道で何かが動く気配が後方からあった。レイが顔をわずかに動かす。
「封印派が通り過ぎていく」
レイは小さく言う。
「四隻。武装した修道戦士の潜航艇。前方に向かって急いでいる。私たちが先行していると判断したらしい」
ミヤは潜航艇を完全に停止させる。側道の壁に近づけて、機関の出力をほぼゼロにする。封印派の潜航艇の感知計に拾われる可能性を最小限にする。
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封印派の潜航艇の音が本道を通過していく。
直接の音ではない。トンネルの壁を伝う振動だ。四隻分の機関の唸りがわずかな差で同期しない振動として伝わる。ミヤは振動の数を数える。一、二、三、四と数えていく。確かに四隻だ。
振動が遠ざかる。
レイは目を閉じたまま、修道戦士たちの祈りの旋律を聴き続けている。
「ハオラの命令だ」
レイが小さく言う。
「修道戦士たちはハオラから具体的な指示を受けている。深淵核の所在地に到達する者を全員阻止する。共鳴者の対と判明したら優先的に拘束する。拘束が困難な場合は潜航艇ごと破壊する」
ミヤは息を呑む。「拘束」ではなく「破壊」の選択肢がある。封印派にとってミヤとレイは「装置を目覚めさせている張本人」と見なされている。装置を破壊するために装置への接近者を破壊することは封印派の論理では矛盾しない。
「彼らは、私たちを、救いたいのだ」
レイが言う。
ミヤはレイの方を見る。レイの目は閉じたままだがその声には怒りも恐怖もない。事実の確認だけがある。
「ハオラは『装置を破壊することが人類を救う』と信じている。私たちを破壊することも、その救済の一部だ。ハオラに悪意はない。彼は人類を救おうとしている」
ミヤはレイの言葉を聞き取る。
封印派は敵ではない。彼らは別の救済の論理を持つ人々だ。彼らの論理ではミヤとレイを破壊することが正しい。ミヤとレイの論理では装置と対話することが正しい。二つの論理は両立しない。しかしどちらも人類を救いたいという意志を共有している。
ミヤはハオラの顔を想像してみる。会ったことのない大主祭がそこに浮かぶ。漂泊団の伝聞でしか聞いたことのない人物がぼんやりと像を結ぶ。封印派の最高指導者として三百人の修道戦士を率いる老人だ。その老人が、自分の人生をかけて、ミヤとレイを破壊しようとしている。ミヤとレイがどんな対話を試みようとしているか、ハオラは知らない。知らないままハオラは命令を出した。それも事実だ。
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側道の中で潜航艇は停止したまま、振動が完全に消えるのを待つ。
十分後、本道の振動が完全に途絶える。封印派の四隻は前方に向かって去った。装置の所在地で何かを起こすかもしれない。しかしそれは数時間先の話だ。今ここでの脅威は去った。
ミヤは機関を再起動する。潜航艇は側道を緩やかに進みはじめる。
「彼らは戻ってくる」
レイが小さく言う。
「装置の所在地で、私たちが見つからないと知った時。再び後方を捜索する。私たちが側道にいることに、いずれ気づく」
ミヤは頷く。封印派をやり過ごしたのは一時的だ。深淵核への到達と対話の試みを封印派が戻ってくる前に完了させる必要がある。時間の余裕はほとんどない。
側道は本道より遠回りだ。本道なら五時間で深淵核の所在地に到達できたが側道経由では七時間以上かかる。封印派の四隻は二時間以内に装置の所在地に到達しそこから捜索を始める。ミヤとレイは封印派より遅く到達することになる。
しかし装置との対話は封印派の到達時間とは別の論理で動く可能性がある。ハヤの手稿によれば、装置は「対が揃った継承者の接近」を特別に感知する。封印派の戦闘員の接近とは装置の反応が違うはずだ。封印派の四隻は「破壊の意志を持つ集団」として扱われ、対話の扉は閉じたままになる。対の継承者の接近にだけ反応する機構なら、それまでは沈黙の中で待ち続けるはずだ。
ミヤは父の地図をもう一度頭の中で広げる。側道は本道と並行して延び、深淵核の所在地の数海里手前で再び本道と合流する。合流点の手前で封印派の四隻の動きをレイの共鳴感知で確認する必要がある。封印派が合流点を見張っているならまた別の経路を探す。父の地図には合流点をさらに迂回する二次側道もかすかに記されている。
「もう一つの側道もある」
ミヤは小さく言う。
「合流点が封鎖されていたら、二次側道で深淵核の真下から接近する。父の地図にある」
レイは目を閉じたまま頷く。レイには見えていないが共鳴感知が地形の輪郭をぼんやりと把握している。レイはミヤの言葉を信じて、その先を待っている。
ミヤは潜航艇を進める。側道の暗闇を二人は装置の方角に向かってゆっくりと進む。




