禁地へ
三月八日の早朝〈シズク〉は深層航路の入口の上空海域に到達した。
オルタを出てから三十日、深淵核との対話を決意した夜から五日。〈シズク〉は最終航路を全速近くで走り続けた。ミヤは舵を握りレイは観測機器の前で航路を補助し、二人とも睡眠を最小限に削った。五日間の連続航行で〈シズク〉の機関は限界に近い。船体の振動が普段より大きい。配管のどこかで小さな漏れの音が始まっている。
ミヤの身体は疲労が芯まで届いている。指の感覚が普段より遅い。耳の中に常時、機関の唸りの残響がある。それでもミヤは舵を離さない。離せば〈シズク〉が航路から外れる。
レイはミヤの隣で目を閉じている。五日間ほとんど目を開けていない。共鳴感知のフィルターを完全に外したままレイは深淵核に向かう航路の前方を聴き続けている。装置の位置が近づくにつれてレイが聴く何かの量も増えている。
海面は静かだ。三月の風は弱い。海の色は朝の薄い光の中で藍色から灰色に変わる時間帯にある。
水平線の手前に小さな黒い点が見える。
深層航路の入口の浮標だ。
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ミヤは機関の出力を下げる。〈シズク〉は慣性で浮標に近づく。
浮標は古い旧文明製の鋳鉄で表面は腐食している。直径約三メートルの円柱形が海面に半分浮いている。上部に小さな信号灯が点滅していたはずだが今朝は灯が消えている。管理庁の正規ルートでは灯が常時点灯している。消えているということはここは正規ルートではない。
ミヤは航路図を確認する。父の観測ノートの巻末に手書きで写された、漂泊団系の旧地図がある。深層航路の禁止ルートの入口の位置が漂泊団だけが伝えてきた経路で記されている。ミヤの指がその座標を辿る。今〈シズク〉がいる位置と一致する。
「合っている」
ミヤは小さく言う。
レイが目を開ける。
「クガの手引きが効いた」
レイは小さく言う。
ミヤは頷く。三日前、漂泊団のネットワーク経由でクガから最後の通信が届いた。「南西の浮標の信号灯を三月八日の朝に切る。それまでに到着しろ」と書かれていた。クガは管理庁の内部からある分析官の協力でこの浮標の自動点灯系統を停止させた。停止した浮標は管理庁の警備艦の航路から外れる。警備艦は別の浮標の周辺を巡回する。〈シズク〉が浮標に近づいてもしばらくは気づかれない。
クガの手引きが〈シズク〉が禁地に入る時間を作っている。
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ミヤは潜航艇の準備を始める。
〈シズク〉の船尾に小さな個人用の潜航艇が固定されている。普段は使わない緊急用の装備だ。〈シズク〉本体はここから先の水圧に耐えられない。二人は潜航艇に乗り換える必要がある。
レイは潜航艇に必要な装備を運ぶ。ハヤの手稿の写し、タチバナの解読ノートの写し、父の観測ノート、フユの証言の要約、シリンの紙片、クガの書類、海星座号の航海日誌が机の上に並んでいる。机の上の七つの資料を布袋に入れて、潜航艇の中の小さな収納に押し込む。
「これだけ持っていく」
レイが言う。
ミヤは頷く。
二人は〈シズク〉に最後の確認をする。錨を下ろし、機関を最小限の維持運転にする。〈シズク〉は二人が戻るまでここで待つ。あるいは戻らない場合はそのまま漂流する。漂泊団のネットワークが偶然見つけて引き上げるか、あるいは沈黙海域の境界に呑まれていく。
ミヤは舵室を見回す。十年間ミヤが観測員として使い続けた舵室だ。最後の景色になるかもしれない。観測ノートの空欄、塩で固まった窓枠、父が残した古い羅針盤、ミヤが触れ続けた舵の革が並んでいる。それぞれの細部に十年の指の痕跡が残っている。ミヤは一つひとつに視線を置いてから、扉に向かう。
レイは何も言わない。
二人は潜航艇に乗り込む。
ハッチを閉める。
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潜航艇は降下を始める。
水深百メートル、二百メートル、五百メートル。水圧計の数字が増える。耳の奥に詰まりの感覚がある。ミヤは唾を飲み込んで圧力を調整する。
外の景色は窓越しに変わっていく。表層の青、藍色、そして深い暗闇に沈んでいく。水深千メートルを越えると窓の外は完全な黒だ。潜航艇のサーチライトが前方を細い円錐形に照らす。
レイは目を閉じている。レイの呼吸が深い。
「下から何かが聴こえてくる」
レイが小さく言う。
「深淵核の波が、深層航路を伝って上ってきている。波が強い。装置が私たちの接近を感じている可能性がある」
ミヤは操縦桿を握る手の力を変えない。装置が二人を感じているかどうかは対話の前提条件として重要だが今この瞬間の操縦には関係ない。今は潜航艇を禁止ルートの正確な位置に降ろす必要がある。
水深二千メートル。
潜航艇は深層航路の入口に到達する。
入口は旧文明製の与圧トンネルの開口部だ。直径約二十メートルの円形の入口が深海の岩盤に刻まれている。通常の深層航路の入口とほぼ同じ構造だが入口の上部に古い管理庁の封印の標識が貼られている。「立入禁止」の旧文明語の文字が二百年前から色を失わないまま残っている。
ミヤは潜航艇を入口の正面に位置取る。
「入る」
ミヤは言う。
レイは目を閉じたまま、頷く。
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潜航艇は禁止ルートのトンネルに入った。
トンネルの内部は通常の深層航路と空気の質が違う。共鳴感知のないミヤにもそれが何となく分かる。空気の重みが違う、というのが一番近い表現だ。旧文明製の与圧トンネルは長年使われ続けて、管理庁の保守が入っている場所と入っていない場所がある。禁止ルートは後者だ。二百年以上、人が入っていない区画になる。
潜航艇のサーチライトがトンネルの壁を照らす。古い金属の壁、塗装が完全に剥がれた表面、深海生物の付着の跡が連なる。誰の手も入っていない時間が壁の質感に固まっている。
ミヤは操縦桿で潜航艇をトンネルの中央に進める。
「過去の継承者たちもこの同じ道を通った」
ミヤは小さく呟く。
「四十年前にシナとカゲが。七十年前にフユと、彼女の聴く男が。それ以前にも複数の対が同じ道を通った。みんな深淵核に向かい、戻らなかった」
レイは目を閉じたまま聴いている。
「私たちは戻ることを目指す」
ミヤは続ける。
「ハヤの手稿の通りに対話を試みる。失敗すれば、過去の継承者たちと同じ結末になる。成功すれば、戻る道が開ける」
ミヤは前方の暗闇を見続ける。サーチライトが照らす先には何もない。トンネルの直線が水平に伸びるだけだ。
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水深三千メートル。トンネルは下り傾斜に変わる。
潜航艇は緩やかに下降する。前方の暗闇がさらに深くなる。サーチライトの光が暗闇に吸い込まれて短くなる。窓に映る潜航艇の姿は、外の黒さに完全に背を向けて、自分の輪郭だけを夜の鏡のように返す。ミヤは自分の顔がガラスに薄く映るのを見る。十年前の海星座号の事故で家族を失った時の顔、ハリスの霧の中でクガと再会した時の顔、シエラ・ディープの廃区画でレイと出会った時の顔──そのすべての顔が、今のミヤの顔の奥に薄く重なっている。ミヤは目を逸らさない。
レイが目を開ける。
「波が強い」
レイは小さく言う。
「装置の応答が始まっている。私たちの接近を、装置は明確に感じている」
ミヤはサーチライトのレバーに手をかける。
「灯りを消す」
ミヤは決めた。
サーチライトの光は装置に向かう信号にもなる。光を消せば、装置からの応答も少しは弱くなるかもしれない。それは推測だがハヤの手稿に書かれていた装置の機構から推察できる。
ミヤはレバーを下げる。サーチライトが消える。
潜航艇の中も外も完全な暗闇になる。窓の外は黒い。内部の計器類の小さな光だけがミヤとレイの顔をぼんやりと照らす。
「ここから先は、誰も、知らない」
ミヤは小さく呟く。
過去の継承者たちはここまで来た。しかしその先は記録されていない。シナもカゲもフユの聴く男も装置に近づいてから装置に呑まれるまでの時間に何があったかを誰も伝えていない。記録のない領域にミヤとレイは今、潜航艇を進めている。
レイがミヤの隣で頷く。
二人は潜航艇の暗闇の中で装置の方角に向かってゆっくりと下降を続ける。




