第6道
三月三日の朝〈シズク〉は最終航路に入った。
ミヤとレイは操舵室にいる。前夜タチバナからの通信で確認された深淵核の所在地、クガの書類で確定していた座標、漂泊団のネットワークが伝えた5勢力の動きすべてが朝の航路図の上に重なっている。
ミヤは舵を握る。レイは観測機器の前で航路を補助する。〈シズク〉の機関の唸りが船体に伝わる。普段より少し高い出力で動いている。最終航路は普段の航路より速い。それでもまだ完全な全速ではない。深淵核の近くに到達するまで機関の力は温存する必要がある。
太平洋中央から南西へ。深淵核の所在地はこれまで五勢力のどの船も近づかなかった海域だ。海図には「不可侵領域」と記されているだけで詳細な水深も生物相もほとんど記録がない。クガの書類だけがその海域の詳細を含んでいる。
「深層航路の禁止ルートから入る」
ミヤはレイに告げる。
「最も浅い深層航路の入口まで五日。そこから禁止ルートで深淵核の所在地の真上まで二日。合計七日だ」
レイは頷く。
「封印派の三百人と解放派の百五十人が同じ深層航路の入口を目指している。五日後に同じ場所で交差する」
レイの声は静かだ。
「私たちが先に到達する必要がある」
ミヤはそう続けた。
封印派と解放派の合計四百五十人の戦闘員が、装置の前で武力衝突を起こすことは、装置への刺激として最悪の事態になる。ハヤの手稿によれば装置は刺激を受けると活性化が加速する。武力衝突の規模次第で、第二大反復の到達が一気に早まる可能性がある。二人が先に装置に到達して対話を試みる時間を、武力衝突の前に確保しなければならない。
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朝が昼に変わり、昼が夕方に変わった。〈シズク〉は南西への航路を進み続けている。
レイは観測機器の前を離れてミヤの隣に立つ。
「ミヤ」
レイが言う。
ミヤは舵を握ったままレイの方を見ない。視線は前方の海に向けている。
「俺たちが向かっているのは、装置だけじゃない」
レイは続ける。
「俺たちが向かっているのは、過去の継承者たち全員の願いの集積だ。フユが片割れを喪った後の七十年の沈黙シナとカゲが書きかけのまま装置に呑まれた絶望、ハヤが千年以上前に手稿を残した期待シリンが五十年呼びかけ手を続けた持続。全部が俺たちの後ろにある」
ミヤは前方の海を見続ける。
「俺たちの後ろにあるものを、俺たちは装置の前に持っていく」
レイの声は静かだ。
ミヤは舵を握る手の力を確かめる。
「過去の継承者たちは、装置と対話する方法に辿り着かなかった」
ミヤは続ける。
「フユは対の片割れを喪って一人になった。装置に向かえないままだった」
ミヤはさらに続ける。
「シナとカゲは装置に向かった。しかし対話の方法を知らないまま呑まれた。シリンは対が成立せず、呼びかけ手として代々の継承者を見守るしかなかった」
ミヤは前方の海を見続ける。
「私たちには、ハヤの手稿がある。対話の機構が分かっている。対が揃っている。観測する者と聴く者が同じ場所に立っている。これは過去の世代になかった条件だ」
「俺たちが彼らの未完の願いを完成させる」
レイがそう言う。
ミヤは初めてレイの方を見る。
レイの目はミヤを見ていない。前方の海を見ている。同じ方向を二人が見ている。
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夕方になって〈シズク〉は航路の中継地点に到達した。
ミヤは機関の出力を最小限に下げる。船体は慣性で進む。海面は穏やかだ。風はほとんどない。波の音だけが船底の下で続いている。
ミヤは操舵室の椅子に座る。レイは隣の椅子に座る。二人とも長い航海の最初の一日の疲労が体に出ている。それでも休息は短い。明日の朝も同じ航路を進む必要がある。
「五つの道」
ミヤは小さく呟く。
レイはミヤを見る。
「五大勢力が主張する五つの道だ。管理庁は装置を支配する。封印派は装置を破壊する。解放派は装置を解放する。読み師連は装置を研究する。漂泊団は装置から逃げる」
ミヤは指で五つの道を空中に数える。
「どれも、装置と対立する道だ。装置を物として扱う道だ。私たちが装置の上に立つか装置の下に立つか、装置から離れるか。どれも装置と対等な関係ではない」
レイは頷く。
「第六の道は、対立しない道だ。装置を物として扱わない道だ。装置に告げる装置の応答を待つ、装置と関係を結び直す。これは五つの道のどれにも含まれていなかった選択だ」
ミヤはそう続けた。
「ハヤは千年以上前に、この道を構想した。しかしハヤは自分でそれを試せなかった。同僚に阻まれたか対が揃わなかったか、あるいは時期が早すぎたか。理由は手稿に書かれていない。しかしハヤは手稿に道を残した。未来の継承者の対がいつかこの道を試せるようにと」
「俺たちがその対だ」
レイは小さく言う。
ミヤは中継地点の操舵室の小さな窓から海を見る。海面は夕方の光を反射している。光が橙色から赤色へと変化していく。一日が終わろうとしている。明日の朝も同じ航路が続く。七日後に二人は深淵核の前に立っている。それまでの七日間に、ミヤとレイの中で「対話の準備」が完成する必要がある。準備は内面の作業だ。航海の動作と並行して、二人は内側で第六の道を確認し続けることになる。
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夜になった。
ミヤとレイは観測デッキに上がる。〈シズク〉は中継地点で停留している。夜の海は静かだ。月が出ている。三月の月は薄い。それでも昨夜より明るい。海面に細い光の道が伸びている。
二人は欄干に手をかけて、夜の海を見る。
ミヤは欄干を握る指の感覚を確かめる。冷たい金属の感触が指に伝わる。十年間ミヤが観測員として欄干に手をかけてきた動作と同じ動作だ。観測員として始まり、今、観測員として何かを観に行こうとしている。
「私は」
ミヤが言葉を選ぶ。
「観測者だ。これまでも、これからも。装置の前でも私は観測者でいたい」
レイは頷く。
「俺は聴く。これまでも、これからも。装置の前でも俺は聴き手でいたい」
二人は同じ方向を見ている。
「観測する者が視て聴く者が聴く」
ミヤはフユから引き継いだ合言葉を呟く。
「そして二人で装置に告げる」
レイがそう続けた。
ミヤは欄干から手を離す。レイの方を見る。レイもミヤの方を見る。
「私たちは、深淵核と、話す」
二人は同じ言葉を同じ瞬間に言った。
声が重なる。〈シズク〉の甲板の上に二人の声が重なって響く。それは決意の言葉ではない。決意はもう二人の中で固まっている。これは確認の言葉だ。第六の道に踏み込む対の確認の言葉だ。
過去の継承者たちは、誰も対の二人で同時にこの言葉を言ったことがなかった。フユは対の片割れを喪った後で一人で何かを呟いたかもしれない。シナとカゲは装置に向かう途中で何かを誓ったかもしれない。しかし「装置と話す」という選択をした対は、これまで誰もいなかった。ミヤとレイが最初の対だ。
夜の海の月の光が二人の上に静かに降っている。
明日〈シズク〉は深層航路の入口に向かって動き出す。封印派と解放派が同じ入口を目指している。管理庁の正規部隊もいずれ追ってくる。それらすべてに先んじて、ミヤとレイの〈シズク〉が入口に到達する必要がある。
そして二人は深淵核の前へ向かう。装置の前に立った時、もう五勢力は背後にある。装置と対の継承者だけが、対面することになる。それが第六の道の入口だ。
夜の海の月の光が、〈シズク〉の甲板に静かに降っている。三月の薄い月光の下で、二人の決意が固まる。明日からの七日間が、ミヤとレイの旅の最後の七日になる。




