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ハヤの言葉

二月五日の午後ミヤとレイは三度目に第七資料室の扉の前に立った。


オルタの港に〈シズク〉を着けたのは前日の夕方だ。シリンの「最後の試み」とハヤの手稿の続きの解読、その二つをミヤは天秤にかけながら五日間航海してきた。タチバナへの連絡は漂泊団のネットワーク経由で事前に送ってある。タチバナは「来なさい」とだけ返してきた。それで十分だった。


地下三階の廊下は前回と同じだ。湿気と紙とインクの匂い、土と石の匂いが混じる。光源の弱い人工光がほの暗く廊下を照らしている。誰もいない。


扉の前にタチバナが立っている。前回と同じ位置だ。白いひげと痩せた長身、古い眼鏡をかけている。しかし前回と違うところがある。タチバナの指先のインクの汚れがいつもより濃い。最近、解読を激しく進めたしるしだ。


「来たな」


タチバナが短く言う。声の調子が前回より少し高い。期待を抑えている声だ。


「進みました」


タチバナは扉を開ける。


---


第七資料室の中は前回と少しだけ変わっていた。


机の上にハヤの手稿が開いて置かれている。ミヤとレイが二か月前に持ち帰った後、タチバナの机に戻された手稿だ。漂泊団のネットワークで往復させた。手稿の脇に新しく書かれた解読ノートが何冊か積まれている。


タチバナは机のそばに座る。ミヤとレイも机を挟んで座る。


「四十年かけても解読できなかった残りの部分が、お前たちが触れた後に少しずつ読めるようになった」


タチバナは言う。


「お前たちの共鳴が手稿の文字を引き出したのか、私自身の理解が進んだだけなのか、判別はつかない。しかし結果として私は新しい段落を解読できた」


タチバナはノートの最初のページを開く。


ミヤは身を乗り出す。レイは机の脇から目を閉じて聴いている。レイは紙の文字を読まない。レイはタチバナの声を聴く。タチバナが文字を声に変換する、その変換の質感を聴く。


「読みなさい」


タチバナはノートをミヤに向ける。


ミヤはノートを覗き込む。タチバナの几帳面な筆跡が並んでいる。


---


ハヤの手稿の新しく解読された段落はこう始まっていた。


「私はこの装置の建造に関わった一人だ。同僚たちとともに私はこれを作った。装置の目的は『反復を避ける』だった。人類が同じ過ちを繰り返さないために集合的な記憶を装置に保存する。その時々の世代が過去を参照できるようにする。それが私たちの意図だった」


ミヤは息を呑む。ハヤは旧文明の装置建造者の一人だ。


これはタチバナの研究室で四十年解読されないままだった事実だ。深淵核を「外部から発見した観察者」がハヤだとミヤは想像していた。しかし実際は「内部から建造に関わった当事者」だった。視点が逆になる。ハヤは装置の意図を知っていた立場の人間だ。だからこそ装置の真の機能を察することができた。


「しかし、装置を稼働させた後に私は察した。装置は記憶を保存するだけではない。記憶を吸収して、人類の中から記憶を奪う。人類は過去を装置に委ねた瞬間自分の中から過去を失う。同じ過ちを繰り返す土壌が逆に整う。それが装置の真の機能だった」


ミヤはノートのページから視線を上げない。


「私は同僚たちに警告した。しかし装置はすでに稼働している。停止できない。装置を破壊しようとすれば、装置に保存された人類の集合的記憶も失われる。それは人類の終わりに等しい。私たちは装置を停止することも維持することもできない状態に陥った」


タチバナのページが終わる。


タチバナは次のページに進む。


---


「私は決めた。装置に呑まれる前に未来へのメッセージを残すことだ」


ハヤの手稿は続く。


「装置が記憶を吸収する過程で、共鳴者が発現する。装置との接続を持つ稀少な人間だ。観測する者と聴く者の対が世代を超えて現れる。彼らは装置に呑まれる。それが私の予測だ。しかし、彼らは装置と対話する可能性も持つ。装置を支配することでも破壊することでもなく装置と対話する。それが私が考えた第六の道だ」


ミヤはノートを指でなぞる。


「第六の道」と書かれている。タチバナが解読した字だ。


これまで五つの道があった。装置を支配する、装置を破壊する、装置を封印する、装置を解放する、装置から逃げる。それらが五大勢力の主張する道でもある。ハヤは第六の道を提案している。装置と対話する。対立でも従属でも逃避でもない、対等な関係としての対話を目指す。それが千年以上前にハヤが考えた、まだ誰も試していない道だった。


「私は手稿を残す。共鳴者の対が、いつか手稿を読む。彼らが対話の方法を見出すかもしれない。私はそれを期待する。同時に、それを確信しない。確信できる根拠を私は持たない。しかし期待だけは残す」


タチバナの声が震えている。タチバナはこの段落を最初に解読した時おそらく一人で泣いた。今ミヤとレイの前で読んでもその時の感情がまだ声の奥に残っている。


「お前たちは、選べる」


ハヤの手稿はその一行で締めくくられていた。タチバナが四十年かけて解読した最初の一行がハヤの手稿の最後でもあった。


---


ミヤはノートから視線を上げる。


タチバナが机の向こうでミヤを見ている。眼鏡の奥の目が湿っている。インクで染まった指が机の上で軽く震えている。


「四十年だ」


タチバナは小さく言う。


「四十年、私はハヤが何を私に託したかを知らなかった。私は手稿を解読し続けたが、ハヤが何のためにこれを残したかは分からなかった。今分かった」


タチバナはミヤとレイを順に見る。


「ハヤはお前たちに託した。千年以上前の旧文明の科学者が未来の継承者の対に向けて手稿を残した。私はその仲介役だ。シナも仲介役だった。私たちは手稿を解読しお前たちに渡すために存在する」


レイが目を開ける。


レイはタチバナを見ない。机の上の手稿を見る。


「ハヤは装置に呑まれましたか」


レイが訊く。


タチバナは頷く。


「手稿の最後の段落でハヤは『私はこれから装置に向かう。私の記憶も装置に吸収される。しかし手稿は紙の上に残る。紙は装置の影響を受けない』と書いている。ハヤは自分が呑まれることを知っていて、手稿を遺した」


ミヤは手稿の表紙を見る。深い赤茶色の革だ。千年以上前にハヤが触れた革でハヤの手の感触がまだ表紙に残っているかもしれない。


「彼が、私たちに、託した」


ミヤは小さく言う。


タチバナは頷く。白いひげが震えている。


---


タチバナはノートを閉じる。


「これ以上の解読はもう必要ない」


タチバナは言う。


「ハヤが残したかったメッセージはここで完結している。残りの部分は背景説明だ。お前たちはもう、ハヤの意図を知った。あとはお前たちが対話の方法を見つけるかどうかだ。ハヤはそれを確信しない、と書いた。私もそれを確信しない。しかしお前たちが対が揃った世代だということは確信できる」


ミヤはタチバナの言葉を聞き取る。


タチバナは机の脇に手を置く。インクで染まった指を机の表面に押し当てる。四十年の解読作業の重みがその指に集約されている。


「お前たちは、選べる」


タチバナはハヤの言葉を繰り返す。


タチバナの白いひげが震えている。


部屋の中の薄い人工光が机の上の手稿を辛うじて照らしている。手稿の文字は変色しているがまだ読める。千年以上前の言葉が今、第七資料室の中でミヤとレイの前にある。


ミヤは手稿の表紙にもう一度視線を落とす。深い赤茶色の革にはハヤの指の痕跡もタチバナの四十年の指の痕跡も、そしてシナの指の痕跡も重なっている。三つの世代の指の重なりがこの一冊の手稿の中に集積している。


レイがミヤの隣に座ったまま、静かに頷いた。レイは紙の文字を読んでいない。それでもハヤの言葉の重みをレイは感じている。共鳴感知を通じて、千年以上前のハヤの感情の残響をレイが拾っている。手稿の革表紙にハヤが触れた時の指の温度、装置に向かう前のハヤの覚悟、そういったものがレイの中に薄く広がっている。


タチバナは机の脇で動かない。インクで染まった指が机の表面に押し当てられたままだ。四十年の重みがその指から机に伝わる。机もまた、その重みを受け止めている。

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