複数の過去
シリンが霧の中に消えた翌朝〈シズク〉の甲板に紙片が落ちていた。
ミヤは紙片を拾う。シリンの筆跡だ。霧の中でシリンが座っていた場所のちょうど中央にあった。前日には何もなかった場所だ。シリンがいつそれを置いたのかは分からない。
紙片には三つの座標が書かれている。緯度経度それぞれ小数点以下まで指定されている。座標の横にそれぞれ短い文字が添えてある。最初の座標には「島」、二番目には「廃灯台」、三番目には「廃ステーション」。
シリンの声がミヤの耳の奥でまだ響いている。「もう一度、彼らも、そう言った」。シリンは「彼ら」が誰かを語らなかった。紙片の三つの座標がその答えになるのかもしれない。
レイが甲板に上がってくる。ミヤは紙片を見せる。レイは紙片を読んでから一度頷く。
「行く」
レイは短く言う。
ミヤも頷く。
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最初の座標は太平洋中央のはるか北東、緯度経度から推測すると小さな無人島だ。〈シズク〉で五日間航海する距離になる。ミヤは舵を握りレイは観測機器の前で航路を補助する。
五日間の航海の間、二人はほとんど話さない。シリンの言葉と紙片だけが二人の中に残っている。ミヤは舵室で航路を確認しながら、シリンの「最後の試み」という言葉が頭の中で響き続けるのを聴く。レイは観測機器の前で目を閉じている時間が増える。前方の海から、シリンが指した三つの座標から、何か共鳴の波が届きはじめているのかもしれない。
五日目の朝紙片の座標の海域に着く。
そこに島はなかった。
正確にはかつて島だった場所がある。海面のすぐ下に岩が見える。三千年前の地上が海に沈んだ時ほとんどの陸地が水没した。この場所もその一つだ。完全に水没していない、半分だけ残った岩礁になる。
海面は静かだ。〈シズク〉の船体が立てる小さな波だけが、岩礁の周りで揺れている。生物の気配がない。沈黙海域の境界ではないが境界に近い海域のようだ。鳥もいない。魚の跳ねる音もない。観測員のミヤにとってこの種類の海は珍しくない。しかし通常の海域とは違う重みがここにはある。
ミヤは〈シズク〉を岩礁の脇に近づける。
レイが目を閉じる。
しばらく沈黙が続いた。波の音だけが船底の下で続いている。
レイが目を開ける。
「ここにいた」
レイは小さく言う。
「対が二人。私たちより前の世代。名前は届かない。残っているのは、二人がここに立った、という事実だけだ」
ミヤは岩礁を見る。岩の上に何か建物の基礎の跡らしき形状がわずかに残っている。観測の拠点だったのかもしれない。水没する前はここに小さな観測施設があったかもしれない。
過去継承者の対のうちの一組がここで深淵核の徴候を観測していた。そして消えた。シリンの言葉によれば、二人とも消えた組だ。
ミヤは紙片の二番目の座標に目を移す。
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二番目の座標は南東に三日間航海した先だった。
廃灯台がそこにある。旧文明時代の航路標識だ。海面から二十メートルほどの高さで岩礁の上に立っている。塔の表面は腐食している。光源はもう存在しない。
ミヤとレイは灯台の側面を上る。古い金属の梯子が灯台の外側についている。錆びているがまだ重みを支える。
灯台の最上階に小さな部屋がある。光源の機材があった場所だ。今は機材は撤去されている。床に古い椅子と机だけが残っている。
レイは部屋の中央に立つ。目を閉じる。
ミヤは扉の脇に立って待つ。
レイの呼吸が深くなる。共鳴感知が反応している。
「ここにも対がいた。私たちより前の世代だ」
レイが言う。
「観測する女と聴く男。シナとカゲより前、フユより後の世代になる。シリンが告げたが、対の聴く男が早くに病で倒れた。観測する女は深淵核に向かう前に独りになった」
ミヤは息を呑む。フユと似た構造だ。対が成立したが片方が早くに失われた。
「観測する女は灯台に住んだ。深淵核に向かう代わりに、ここから海を観測し続けた。記録は残っていない。観測する女自身が記録を残さなかった」
レイの声は静かだ。共鳴感知で受け取った断片をミヤに伝えている。
「観測する女は、ここで死んだ。三十年後に。誰にも看取られずに」
ミヤは灯台の窓から海を見る。海面に光が反射している。観測する女が三十年見続けた光景がそこにある。
ミヤは部屋の中の椅子に視線を移す。古い椅子の座面に薄い擦り跡がある。観測する女が三十年間、毎日座り続けた跡だ。同じ場所で、同じ姿勢で、同じ視線で過ごし続けた三十年。一人で。
ミヤはその椅子に座らない。座る権利が自分にないように感じる。代わりにミヤは扉の脇に立って、観測する女の三十年を想像する。
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三番目の座標は東に四日間航海した先だった。
深海ステーションの廃区画だ。ハリス・ディープでもシエラ・ディープでもない、もっと小さなステーションが二百年前まで稼働していた。今は完全に廃止されている。密航ルートで降下する。
廃区画の奥に小さな部屋がある。誰かが住んでいた跡がある。
レイが部屋に入る。目を閉じる。
「三組目だ」
レイが言う。
「もっと前の世代。シリンも詳しくは知らない世代だ。対の二人がここで暮らしていた。深淵核に向かう道を探した。しかし装置の所在地を知らなかった」
ミヤは部屋の壁を見る。手書きの図面が壁に直接刻まれている。深淵核を探す試行錯誤の記録だ。
「二人とも装置に辿り着けないまま、ここで老いた。最後は二人とも病で死んだ。記録は残っていないが、共鳴で痕跡が残っている」
ミヤは壁の図面を指でなぞる。手書きの線が壁の塗装の下に消えかけている。それでも刻まれた線は二百年残っている。
三組の過去継承者がいたことになる。それぞれが別の形で失敗した。装置に到達して呑まれた組、対が早くに崩れた組、装置に到達できなかった組がある。シリンが告げた三つの座標は、三つの「失敗の形」の見本でもあった。
ミヤの中で「過去」の像が広がる。シナとカゲだけが過去ではない。フユだけが過去ではない。名もなき複数の組がそれぞれの場所でそれぞれの形で消えてきた。記録は残らなかった。それでも痕跡は残っている。レイの共鳴感知だけが、その痕跡を読み取れる。記録のない歴史を、レイが代わりに読み解いている。
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廃区画から〈シズク〉に戻る潜航艇の中でレイが小さく言った。
「シリンが来る」
ミヤはレイを見る。レイは目を閉じている。共鳴感知で何かを聴いている。
潜航艇が海面に出る。〈シズク〉に乗り換える。甲板に上がる。
甲板の中央にシリンが立っている。霧はない。海は静かだ。シリンの布の灰色が朝の光に薄く照らされている。
「三組とも見たな」
シリンが言う。
ミヤとレイは答えない。シリンは確認している。
「お前たちは、最後の試みだ」
シリンの声は淡々としている。
「お前たちが失敗すれば、装置は次の世代を待たない。私もそれは知っている。だからお前たちは最後の希望ではない。最後の試みだ」
ミヤはシリンの言葉の意味を考える。希望と試みの違い。希望には未来の可能性が含まれる。試みには過去の集積だけが含まれる。シリンが選んだのは試みの方だった。
「彼らもそう言った」
シリンは繰り返す。
「私の前の呼びかけ手が、私にそう告げた。私はその呼びかけ手の最後の試みだ。私は失敗した。次の試みがお前たちだ。お前たちが最後だ」
シリンは甲板の縁の方へ進む。
「次は、ない」
シリンは小さく言う。
シリンの輪郭が朝の光の中で薄くなっていく。霧はない。それでもシリンの姿が消えていく。布の灰色が空気と同化していく。
シリンはそれきり、消えた。
甲板の中央には何も残っていない。紙片もない。痕跡もない。シリンが残したのは三つの座標と「最後の試み」の概念だけだ。三つの座標はもう辿った。「最後の試み」の概念はミヤとレイの中に残っている。
ミヤは欄干に手をかける。レイがミヤの隣に立つ。
朝の海が広がっている。風が出てきた。〈シズク〉の帆が少し動く。ミヤは方角を確認する。次に向かう場所はオルタだ。タチバナのところ、ハヤの手稿の続きの解読を聞く必要がある。「最後の試み」を「最後の選択」に変える方法を、ハヤの手稿の中に探す必要がある。
ミヤは舵室に向かう。レイは観測機器の前に向かう。〈シズク〉の機関が動きはじめる。




