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再びシリン

一月十八日の早朝〈シズク〉は深い霧の中にいた。


ミヤとレイが合流したのは三日前だ。ミヤは〈ノクト・ディープ〉のシナの最終研究室からレイはハリス・ディープ廃区画B-3のカゲの場所からそれぞれ別の重みを背負って戻ってきた。


三日間、二人は太平洋中央の特定の海域に〈シズク〉を停留させている。シリンからの紙片の伝言があったからだ。「合流したらその座標で待て」とだけ書かれている。座標は緯度経度ともに小数点以下まで指定されている。〈シズク〉はその座標に正確に錨を下ろした。


待つ三日間、海は静かだった。風がほとんどない。波もない。沈黙海域の境界の内側ではないが境界に近い海域だ。気配が薄い。


四日目の朝霧が出た。


霧は普通の海霧ではない。視界が完全に閉ざされる種類の濃霧だ。〈シズク〉の周囲十メートル先がもう見えない。霧の粒が大きく、肌に触れると湿気として残る。塩の匂いがほとんどしない。普段の海霧と違うこの一点でもミヤは観測員として違和感を覚える。


ミヤは観測デッキの欄干に立っている。湿気で欄干の金属は冷たくなっている。手のひらに触れる金属の冷たさが霧の中の静寂と対比をなしている。レイは少し離れた場所で目を閉じている。レイは霧の中に何かを聴いている。


「来る」


レイが小さく言う。


ミヤは欄干から離れる。


霧の向こうから足音はしない。しかし、霧の質がわずかに動く。誰かが近づいている。


---


霧の中から人影が現れる。


小さい。痩せている。顔は布で覆われていて、輪郭しか見えない。布は灰色で薄い。船に乗ってきた様子はない。霧の中を歩いてきたかのように人影は〈シズク〉の甲板の上に立っている。


ミヤは観測員として一瞬で判断する。この人物がどうやってここに来たかは観測員の論理では説明できない。〈シズク〉は海上にある。陸地は数百海里離れている。船で来たのなら〈シズク〉の側面に船をつける音がするはずだ。それがなかった。


シリンだ。


レイがミヤの方を見て、小さく頷く。レイは五年前にシリンと会ったことがある。レイの確認は事実だ。


「呼びかけ手は共鳴で来る」


レイがミヤに小さく言う。


「船に乗らない。陸地から歩かない。共鳴の波の中を移動する。五年前にエンが消えた夜、シリンが俺の前に現れた時も同じだった。家の扉は閉まっている。窓も閉まっている。気づいたら、シリンが部屋の中央に立っていた」


ミヤはレイの言葉を聞き取る。観測員の論理では説明できない移動の方法を共鳴者であるレイの感知でだけ確認できる。シリンが「形を持たない」ことの一部はここにある。物理的な空間の制約からシリンは部分的に外れている。フユが言っていた「共鳴の代償による老化の遅れ」と同じ系列の現象だ。呼びかけ手として五十年生きてきたシリンの、五十年の代償の姿だ。


「お前がもう一人だな」


シリンの声が布の下から聞こえる。澄んだ中性的な声だ。性別は判別できない。年齢も判別できない。声だけが識別の手がかりだ。


シリンはミヤを見ている。布の下の目はミヤに向いていると分かる。


「お前はレイの対だ」


シリンは続ける。


ミヤは何も答えない。シリンはミヤの応答を求めていない。シリンは事実を述べているだけだ。


シリンは甲板の中央に立っている。動かない。〈シズク〉の揺れに合わせてわずかに身体が動く。それ以外の動きはない。


---


「シナの場所に行ったな」


シリンはミヤに向かって言う。


「カゲの場所にも行ったな」


レイに向かって言う。


二人は何も答えない。シリンは答えを必要としていない。シリンは過去の事実をなぞっているだけだ。


「二人とも生きて戻ってきた。二人とも壊れていない。それは、いいことだ」


シリンの声が一段低くなる。


「過去の二人の中には、シナの場所やカゲの場所に行って戻ってこられなかった者もいる」


ミヤはその言葉を聞き取る。「過去の二人」── ミヤとレイの前にもシナとカゲ以前の継承者が自分たちの先の継承者の最終地点を訪ねた者がいる。


「フユは行きませんでした」


ミヤは確認する。


「フユの世代の前の二人の最終地点に、フユは行けなかった。彼女の対が、先に消えたからだ」


シリンの声には責める色がない。事実を述べている。


「お前たちは、対が揃った」


シリンは続ける。


「だからシナとカゲの場所に二人で行けた。フユの世代よりお前たちは一歩、先に進んでいる」


---


シリンは甲板の中央に座る。


座る動作は静かだ。布の下の身体がほとんど音もなく床に下りる。ミヤとレイもシリンの近くに座る。三人で甲板の上、霧の中、〈シズク〉の揺れに合わせてわずかに身体が動く。


「私の話をしよう」


シリンが言う。


「私が二十五歳の頃の話だ。今から五十年前になる」


ミヤは指で計算する。シリンが二十五歳の頃は西暦二九七〇年頃にあたる。フユが装置に向かったのが七十年前で二九四九年だ。その二十年後にシリンが共鳴覚醒したことになる。


「私の中に声が届きはじめた。フユの世代と同じだ。私は観測する女として発現した」


シリンの声は淡々としている。自分の過去を語る時の特別な調子がない。


「私の対の聴く男は現れなかった」


シリンは続ける。


「私はその時代に聴く男を探していた」


シリンの語りが続く。


「五年探した。見つからない。対が成立しないまま、私は三十歳になった」


ミヤは息を呑む。対が成立しない継承者がいる、ということをミヤは知らなかった。フユとシナとミヤ自身、すべて対が成立した世代しか知らない。


「対が成立しない継承者は、深淵核に向かえない。一人では装置に近づけない。私は呼びかけ手になる道を選んだ」


シリンの声には後悔がない。それも事実だ。五十年経った今、後悔の感情はすでに薄れているのか、あるいは最初から後悔という感情を持たなかったのか。ミヤには判別できない。シリンの語り口は四十年の間、何度も繰り返してきた語りの調子を持っている。慣れた語り、整理された語り、必要なところだけを残した語りだ。


「フユの世代の生き残りであるフユから、私は呼びかけ手の役割を引き継いだ。次の継承者を見つけて、告げる。それだけが私にできることだった」


---


「シナとカゲは私の世代の次だ」


シリンは続ける。


「シナとカゲの世代に私が告げた」


シリンは続ける。


「二人は行った。戻らない。それは予想していた通りだった」


ミヤはシリンの言葉を聞き取る。シリンはシナとカゲの世代を見届けてきた者だ。失敗を予想していた。それでも告げる。告げないという選択肢はシリンにはない。


「私はシナとカゲの後の継承者も探した」


シリンは言う。


「四十年、私は次の対を探した。三年前にレイを見つけた。それから二年後にお前を見つけた」


シリンはミヤを見る。布の下の目がミヤに向いている。


「二人とも、対が揃っている。それは私が見続けてきた五十年の中で、フユの世代以来初めてだ」


ミヤはシリンの言葉の重みを受け止める。シリンは五十年、対が揃わない継承者を見続けてきた。シナとカゲの対は揃ったが消えた。ミヤとレイは揃って、今、生きている。


「お前たちは、対が揃った」


シリンは繰り返す。


「だから希望がある」


「希望」という言葉をシリンが使った。淡々とした声のままで。希望でも絶望でもない、ただの事実として、希望が今、ここにある、と言っている。


---


シリンは立ち上がる。座っていた時と同じく、音もなく立ち上がる。


霧は薄くなりはじめている。風が出てきた。霧が薄れる気配だ。


「彼らもそう言った」


シリンが小さく言う。


ミヤはその言葉の意味を考える。「彼ら」── シナとカゲのことか、それ以前の継承者のことか、シリン自身が継承者候補だった時に「希望がある」と告げた呼びかけ手のことか。


シリンは詳しい説明をしない。


「もう一度、彼らも、そう言った」


シリンの布が霧の中でわずかに揺れた。


シリンは甲板の縁の方へ進む。海に向かって。霧の中に身を投げるようにシリンの輪郭が薄くなっていく。


ミヤは追わない。


レイも追わない。


シリンは霧の中に消える。


霧は風で少しずつ薄れていく。〈シズク〉の周囲十メートル、二十メートルと視界が広がる。シリンが立っていた甲板の中央には何も残っていない。シリンが座っていた場所にも痕跡はない。布の繊維も湿気の跡も足跡も何も。


ミヤは欄干に手をかけて、霧の方を見る。霧の中に消えたシリンが本当にそこにいたのか、ミヤの中で揺らぎはじめる。しかし甲板の中央にはシリンの言葉だけが残っている。「対が揃った」「希望がある」「もう一度、彼らも、そう言った」── シリンの声がミヤの耳の奥でまだ続いている。


レイがミヤの隣に来る。


二人は何も話さない。シリンの言葉がまだ甲板の上に残っている。霧が完全に晴れる頃にはその言葉も薄れていくかもしれない。それでも今は二人ともシリンの言葉を耳の中で反芻している。

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