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絶望の継承

一月八日の午後レイはハリス・ディープの密航ルートで下層に降りた。


ミヤとは半月前に〈シズク〉の船室で別れた。ミヤは〈ノクト・ディープ〉へ。レイはここへ。観測する女と聴く男はそれぞれの軌跡を別の場所で辿る必要があった。


レイがハリス・ディープ廃区画B-3に来るのはこれが二度目だ。前回は三か月前、ミヤと二人で来た。シリンの紙片の伝言に従ってこの部屋に入り、机に手を置いてカゲの最期の数日を断片的に聴いた。あの時は十分ではない。レイは半分を聴きもう半分は聴き残している。


今日は一人で来た。


ミヤがいないことには理由がある。前回ミヤが扉の近くで見守っていた時もレイは膝が震えた。今日カゲの感情を完全に流し込むのなら、レイの身体はもっと深く崩れる。ミヤを目撃者にする必要はない。これは継承者同士の対面だ。レイとカゲの、一対一の対面だ。


下層の廊下を歩く。前回と同じ通路だ。湿気の匂い、剥がれた塗装、消えかかった蛍光灯の琥珀色がレイを通り過ぎていく。


ハリス・ディープの下層は他の深海ステーションの下層と空気が違う。管理庁本部の直下という立地のためか、廃区画でも警備の名残が空気の隅に残っている。誰もいないが、誰かが時々巡回している気配だけは消えない。


レイの足音は布で巻いた靴底のおかげで音もなく続く。レイは一定のペースで歩く。急がない、遅すぎない。万が一誰かに目撃された時に怪しまれない歩幅だ。


廃区画B-3の入口に着く。


四十年閉ざされていた扉だ。前回はシリンが何らかの方法で開けていた。今日も鍵はかかっていない。レイが押すと扉はゆっくり動く。


レイは部屋に入る。


---


部屋の中は前回と同じだ。


机が一つ、椅子が二つ、奥に空の棚がある。机の上に何もない。誰かがここに住んでいた痕跡だけが空気の重みとして残っている。


レイは扉を閉める。


今日は誰も見ていない。


レイは部屋の真ん中に立つ。一度目を閉じる。呼吸を整える。共鳴感知の能力を抑える普段のフィルターを今日は段階的に外していく。これはレイがこれまで他の場所では一度もしたことのない試みだ。普段はフィルターを完全に外せば、外界の感情に呑まれる危険がある。


しかしこの部屋は四十年閉ざされていた。流入してくる感情はカゲのものだけだ。他の人間の感情は混ざらない。フィルターを外す対象が一人しかいない。


レイはフィルターを外す。


最初は薄い。前回と同じだ。輪郭だけの感情が部屋の四方から流入してくる。レイは耳を傾ける。普段は聴かないように努めている部分まで意識を開く。


カゲの感情が一気に深まる。


レイの膝に力が入らなくなる。


レイは椅子に座る。四十年前カゲが座っていた椅子だ。座る瞬間、椅子の木の冷たさが布越しに伝わる。同時にカゲの感情がレイの身体の中に流れ込む。


机に両手を置く。


---


カゲの最期がレイの中で再構成されはじめる。


前回は絶望が最初に届いた。シナが呑まれる瞬間、カゲが手を伸ばす場面、距離が遠かったこと。今日もそこから始まる。しかし今日のレイはそれをもう一度受け止める。前回より深く受け止める。


シナが装置に呑まれた瞬間のカゲの絶望がレイの身体の中で完全に再生される。


レイの胸が締め付けられる。物理的な痛みに近い。呼吸が浅くなる。視界がぼやける。机に置いた両手の指がわずかに震える。共鳴感知のフィルターを完全に外した今、レイの身体は四十年前のカゲの感情の容器になっている。


シナが消えた。

カゲは目の前でそれを見ていた。

手は届かなかった。

カゲは自分も同じ場所で消えることを覚悟していた。

しかし装置はカゲを呑まなかった。

カゲだけが生き残った。


それがカゲの最初の絶望だった。


絶望の質は深い。レイがこれまで他者の感情として聴いてきたどの絶望よりも深い。普通の絶望には終わりがある。怒りに転じるか、諦めに変わるか、時間が薄めるか。しかしカゲの絶望はそのいずれでもなかった。終わらない絶望、続くしかない絶望、しかし続くことに意味を見出さなければならない絶望だった。


レイの頬を涙が伝う。レイの涙ではない。四十年前のカゲが流せなかった涙が今、レイの身体を借りて流れる。


レイは涙を拭わない。


カゲの感情の流入が続く。


---


シナが消えた後、カゲは独りでこの廃区画に戻った。


レイは今その同じ椅子に座っている。カゲもこの椅子に座ったはずだ。同じ机の前でシナが残した「もう一度確かめなければ」を反芻していた。


カゲは何日もここに座っていた。食事を取らない日が続いた。眠りも浅い。考え続ける。


考え続けた末にカゲは決めた。


自分はもう確かめられない。シナと共に深淵核に向かったあの時点でカゲ自身も既に「終わって」いた。装置に呑まれなかったのは偶然だ。あるいは装置が今は要らないと判断しただけだ。いずれにしてもカゲの観測者としての時間は終わっていた。


しかし、シナが追っていたものを誰かが確かめる必要がある。


カゲは自分の感情をこの部屋に残した。共鳴者なら、いずれ誰かがこの感情を聴く。聴いて、自分たちの代でもう一度確かめてくれる。


それがカゲの最後の祈りだった。


ここまでは前回ミヤと来た時に聴いた。


しかし、今日のレイはその先まで聴く。


カゲの最後の祈りの裏側、絶望の底に残された感情がもう一つある。


それは希望だ。


---


レイは涙を拭わないまま、椅子の上で姿勢を保つ。


希望、と呼ぶには静かすぎる感情だ。期待でもない。願いに近いしかし願いよりも具体的な何かだ。カゲは確信していた。「次の誰か」が必ず来る。その「次の誰か」は、シナとカゲが失敗した場所で別の選択をする可能性がある。同じ道を歩くかもしれないが同じ結末になるとは限らない。


カゲがその確信を持つに至った経緯はレイにも分からない。シナと深淵核に向かう前のカゲは絶望の中にいた。しかし装置の前で何かが変わった。シナが呑まれる瞬間カゲが見たものは、レイには断片的にしか伝わらない。それでも、その断片の中に「次は別の結末がありうる」という確信の核が残されていた。


カゲの最後の感情はそういう確信だった。


「次は、できる」


レイの中でその言葉が形を結ぶ。カゲの声ではない。カゲが言葉にしたわけでもない。しかしカゲの感情の中核にあったものを言葉にすればそれがその一文になる。


レイの呼吸が少しずつ整いはじめる。


膝の震えが止まる。


涙はまだ流れている。しかし涙の質が変わっている。最初は絶望の涙だった。今は何か違うものが混ざっている。安堵に近いしかし安堵ではない、四十年前のカゲがついに誰かに届いたことの、確認のような感情だ。


レイは机の上に置いた両手をゆっくりと動かす。指を握る。手のひらの熱を確認する。


レイは生きている。

カゲは四十年前に終わっている。

しかしカゲの祈りはレイの中に届いた。


---


レイは椅子から立ち上がる。


立ち上がる動作は重い。長く座りすぎた身体に血が戻る感覚がある。レイは数歩、机から離れる。振り返って机を見る。


机の上に四十年前のカゲが何も残さなかった。書類もノートも手紙も文字一つない。カゲが残したのは感情だけだ。形のない、四十年経って今やっとレイに届いた感情だけだ。


しかしそれで十分だ。


レイは机に向かって、小さく頭を下げる。観測員の挨拶ではない。漂泊団の挨拶でもない。共鳴者が共鳴者に対して行う、レイだけの挨拶だ。


「カゲは、私たちに、託した」


レイは小さく言った。


部屋の中の四十年の静寂がほんのわずか、緩む。空気の重みが少しだけ軽くなる。カゲの感情が部屋の四方からレイの身体の中へ完全に移った。部屋にはもう何も残っていない。


レイは部屋を出る。


扉を閉める。今度はゆっくりとしっかりと閉める。


廊下を歩く。


ハリス・ディープの密航ルートをレイは引き返す。途中で潜航艇に乗り換える。海面に向かって浮上する。


潜航艇の中でレイは操縦席に座っている。窓の外は黒い水だ。深度計の数字が小さくなっていく。レイの呼吸はもう整っている。しかし身体の中にはカゲの感情の残響がまだ広がっている。それは消えない。消す必要もない。レイがカゲの感情を引き継いだという事実が、レイの身体の一部になっている。


レイの頬の涙はまだ乾かない。しかしレイは涙を拭わない。


カゲの祈りがレイの中で響き続けている。


次は、できる。

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