観測者の墓
一月八日の朝ミヤは旧式廃ステーション〈ノクト・ディープ〉の入口で潜航艇から降りた。
前回の合流から半月、ミヤとレイは別行動を取っている。レイはハリス・ディープに向かった。レイなりの経路でカゲの最終地点を再訪する。ミヤはここに来た。シナの最終地点だ。
二人で来ようかとも話したが、レイは「俺が視えるものとお前が視えるものは別の場所にある」と言った。観測する女と聴く男はそれぞれの軌跡を別の場所で辿る必要があった。
〈ノクト・ディープ〉は二十年前に廃止されている。水深四千五百メートル、シエラ・ディープから南東に約三百海里の海域にある。旧文明製の与圧設備が老朽化したという公式記録で廃止された。実態はそうではない。父の観測ノートとカグラから渡された海星座号航海日誌をミヤが照合した結果、廃止の真の理由は別にある。
ミヤは降下中、潜航艇の中で何度も計器を確認した。深度計の数字が増えていく。三千メートルから三千五百メートルへと進み、四千メートルを超えて四千五百メートルに達する。水圧計の針も同じように動く。耳の奥が押される感覚がある。気圧調整は適切に行われているがそれでもこの深さに到達する時の身体感覚は十年の観測員経験では慣れない。
水深四千五百メートルに到達した瞬間、外の水は完全に黒い。発光生物の気配もない。沈黙海域の境界の内側だ。生物が消えた水域に潜航艇だけが浮かんでいる。
四十年前、シナがここで何かを観測していた。
シナの消失の後、管理庁はこの区画への立ち入りを段階的に制限していった。二十年前の「老朽化による廃止」はその最終段階だ。今は誰も来ない。深層航路の自動接続も切断されている。ミヤは漂泊団の旧ルートで潜航艇を持ち込んだ。
入口の扉は半開きだ。錆びた金属の表面に潮の結晶が浮いている。
ミヤは扉に手を伸ばす。
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ステーションの内部は完全な暗闇だ。
ミヤは携帯の発光灯を点ける。薄い円錐形の光が廊下の壁を撫でる。床には埃と腐食した塗装の破片が積もっている。空気は淀んでいて、金属と古い油の匂いがする。
廃止から二十年、人の足跡はない。
ミヤは父のノートの図面を頼りに歩く。父はシナの痕跡を追ってこのステーションの平面図を入手していた。図面の隅に父の筆跡で小さく「研究室・北西区画・三階」と書かれている。父はここまで来たかもしれない。あるいは、ここまで来る前に海星座号が事故に遭ったかもしれない。
ミヤは廊下を進む。
階段に着く。手すりは錆びている。ミヤは手すりに触れずに階段を上る。一段ずつ、足音が深く反響する。三階に出る。
北西区画の入口に古い金属の扉がある。札は剥がれている。剥がれた跡に「S」の一文字が辛うじて読み取れる。
シナの観測機の側面にも同じ「S」のラベルがあった。三か月前にミヤがシエラ・ディープの放棄観測室で触れたあのラベルだ。あれと同じ「S」がここにもある。
ミヤは扉に手をかける。
扉は音もなく開いた。蝶番に油が残っていたらしい。あるいは、誰かが最近油を差したか。後者の可能性をミヤは頭の片隅に置く。
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研究室の中は思っていたよりも整っている。
机が一つ、椅子が一つ、書架が一つある。壁際には観測機器が三台並んでいる。すべてに薄い埃が積もっている。しかし配置は四十年前のままに見える。誰かが触れて動かした形跡はない。
書架には数十冊の書物が並んでいる。背表紙の色はすべて褪せているが、本の配置は規則的だ。シナの整理の癖が背表紙の並びに残っている。観測員の几帳面さが四十年経った今でもこの部屋に残っている。
机の右手前に小さな茶碗が置かれている。茶碗の底には乾いた茶葉の跡が薄く付いている。シナが最後にここで茶を飲んだ後、誰も洗わなかった。茶碗もまた四十年前のままだ。
ミヤは机に近づく。
机の上に観測ノートが一冊開いて置かれている。革表紙、変色した紙、見慣れた観測員のノートだ。父のノートと同じ形式の罫線が引かれている。
ミヤは発光灯を机の上に置く。
ノートを覗き込む。シナの筆跡が並ぶ。父より角張った字だ。日付は四十年前の数字で書かれている。ページの上半分には沈黙海域の境界の拡張速度の図表がある。父が同じ徴候を追って描いた図表とよく似た構造だ。
ページの下半分は理論的な記述になっている。
「装置の活性化は加速度的に進行する。前回の発現から四十年から五十年で次の発現周期に達すると推定される」
ミヤは息を呑む。
シナは四十年前に「次の発現周期」を予測していた。その「次」がミヤとレイの世代だ。シナの予測は当たっていた。
ノートをめくる。次のページは半分しか書かれていない。文章の途中で筆跡が止まる。
「観測する者が深淵核に向かう時、観測する者は装置との対話を選べる可能性がある。ただし対話の方法は──」
そこで切れている。
シナはこの文章を書き終わっていない。書き終わる前に何かを決めたか、あるいは書き終わる時間がなかったかだ。
ミヤは次のページを開く。白紙だ。その次のページも白紙が続く。シナの記述はここで終わっている。
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ミヤはノートに手を伸ばす。
指先がシナの最後のページに触れる。
触れた瞬間、視界の端に動きが浮かぶ。
最初は薄い影だ。徐々に輪郭が固まる。四十年前のこの部屋が、ミヤの視界の中で重なって浮かぶ。四十年前のシナがこの机の前に座っている。痩せた背中で観測者特有の前傾姿勢を取っている。シナの手がペンを動かす。一定の速さでペンが紙の上を進む。シナの呼吸も一定だ。観測員が集中している時の呼吸だ。
ミヤは自分の身体が机のそばに立っていることを意識している。同時に、視界の中の四十年前のシナをはっきりと視ている。共鳴感知の能力が今日は強い。深層航路を経由していないこの場所では、ミヤの「視る」能力が直接の物理接触から発動している。
シナの手が半分書いたところで止まる。シナはペンを置く。
シナの視線が机の上の何かを見る。ミヤの視界には何が映っているかは分からない。しかしシナの表情から、それが「答え」のようなものだと分かる。シナはペンを取らない。立ち上がる。
シナはノートを閉じない。開いたままの状態で机に残す。後から誰かが読むかもしれないという可能性をシナは残した。
シナは部屋を出る。
ミヤの視界の中でシナの姿が扉の向こうに消える。
ミヤは指をノートから離す。
視界が現在に戻る。机の上に半開きのノートがあり、椅子と壁の機器も同じ場所にある。すべてが四十年前のままだ。シナが去った時の配置のままで二十年の廃止期間も四十年の時の流れも、この部屋を動かさなかった。
ミヤは椅子に座る。シナが座っていた椅子だ。
座った瞬間、ミヤの中に一つの理解が浮かぶ。
シナは「呑まれた」のではない。シナは自分で深淵核に向かうことを選んだ。書きかけのノートを残して、自分の意志で立ち上がって、扉を出た。失敗するかもしれないと知りながら。
書きかけの一文の続きを、シナはノートではなく自分の身体で確かめに行った。
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ミヤは机に両手を置く。
シナの座っていた椅子と、シナが残したノートと、シナが書きかけた一文がミヤの周りに四十年前のまま残っている。
ミヤは小さく息を吐く。
ミヤは観測員だ。シナと同じ職業の人間だ。シナと同じノートを持って、シナと同じ図表を描いている。シナと同じ徴候を追って、シナと同じ机にいま座っている。
シナは書きかけのノートを残して、自分の意志で立ち上がった。
ミヤも書きかけのノートを持っている。ミヤの父が残した白紙の最終ページがある。
ミヤはシナの最後の選択を理解した。同じ立場、同じ問い、同じ書きかけのノートを前にしたとき、ミヤも同じ選択をするかもしれない。それが理解だ。
「彼女は、私と、同じだった」
ミヤはそう呟いた。
ステーションの空気は動かない。発光灯の光が机の上の半開きのノートを照らし続けている。
ミヤは指でノートのページを撫でる。シナの筆跡が指先の下にある。ミヤは自分のペンを取らない。シナの書きかけの一文に何かを書き足すことはしない。それはシナの一文だ。シナが書きかけて止めた一文だ。
ミヤは発光灯を取って立ち上がる。
椅子を元の位置に戻す。ノートは開いたままにしておく。
ミヤは部屋を出る。
扉を閉める。扉の蝶番が音もなく動く。
廊下を歩く。階段を降りる。入口に出る。潜航艇に乗り込む。
水深四千五百メートルの黒い水の中を、ミヤの潜航艇が浮上していく。
ミヤは操縦席で計器を見ている。深度計の数字が小さくなっていく。
シナの書きかけの一文がミヤの中に残っている。
「対話の方法は──」
その続きを、ミヤも見つけに行くことになる。




