旧文明の真意
二月六日の朝オルタの宿の小窓からミヤは街路を見ていた。
読み師連の地下書庫は前日の夜まで二人を消耗させた。タチバナの宿舎の別棟に部屋を借りて、二人はそこで一夜を過ごす。レイは木の床に寝る。ミヤは硬い寝台に毛布を巻いて休む。前夜のハヤの手稿の解読の重みが、二人の眠りを浅くしている。
朝の街路は冷たい。オルタは旧アジア大陸沿岸の海上都市で、二月の朝は霜が降りる。街路の石畳に薄い白い結晶が浮いている。一階の窓の鎧戸を開ける音が街のどこかで鳴る。読み師連の若い解読者が早朝の街路を歩いていく。
ミヤは窓から離れる。レイは部屋の椅子で目を閉じている。共鳴感知のフィルターを朝のうちに調整している。ハヤの手稿の続きを聴くための準備だ。
「行こう」
ミヤは小さく言う。
レイは目を開ける。二人は部屋を出る。最高塔の地下三階への道は宿舎から短い。冬の朝の街路を歩いて、塔の通用口に着く。
地下への階段を二人は降りる。前日と同じ動線だ。しかし朝の身体は前日の夜と違う。一晩の睡眠が、二人の中で前日の重みを少しだけ消化している。それでも完全ではない。完全な消化は装置の前に立つ時まで来ない。
地下三階の廊下の空気は前日と同じだ。湿気と紙とインクの匂い、土と石の匂いが混じる。
タチバナは机のそばで待っていた。新しい解読ノートをすでに開いている。前日の夜に解読を進めた様子だ。タチバナのインクで染まった指が前日よりさらに濃く染まっている。
「読みなさい」
タチバナは短く言う。
ミヤは机を挟んで座る。レイは机の脇で目を閉じる。
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ハヤの手稿の新しい段落はこう書かれていた。
「装置は人類の集合的な記憶を吸収する。私は前の段落でそう書いた。正確にはそれは半分の説明だ。装置が吸収するのは記憶のうちの特定の部分だ。人類が忘れたいと願う部分、人類が忘れることで楽になりたい部分、忘れることで前に進めると感じる部分を装置は優先的に吸収する」
ミヤはノートのページから視線を上げない。
「私たちが装置を建造した時私たちは人類の救済を意図した。旧文明時代の人類は多くの記憶を抱えていた。戦争の記憶、虐殺の記憶災害の記憶、個人と集団の失敗の記憶。それらの記憶は人類を重く沈ませていた。私たちは記憶を装置に委ねれば人類は前に進めると考えた」
ミヤは息を呑む。
これは装置の機能の根本に関わる事実だ。装置は無差別に記憶を吸収するのではない。装置は人類の「忘れたい」という意志を読み取ってその記憶を選択的に吸収する。装置が人類に悪意を持つわけではない。装置はむしろ人類に応えようとしている。応えた結果が人類の身軽さを生む。身軽さの代償として、人類は学ぶための記憶を失う。
タチバナは次のページを開く。
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「装置はそれを叶える。装置を稼働させた後、人類は多くの重い記憶から解放されていく。戦争の記憶も虐殺の記憶も、災害の記憶も装置に吸収されていく。人類は身軽になる。前に進むようになる。私たちの意図は実現されたかに見えた」
ハヤの手稿は続く。
「しかし装置が吸収するのは『忘れたい記憶』だ。人類の意志を装置は読み取る。人類が『これは忘れたい』と願った記憶を、装置は喜んで吸収する。装置に悪意はない。装置はただ人類の意志に応えただけだ」
ミヤは指でノートのページをなぞる。
「結果人類は忘れたい記憶を装置に委ね続けた。何世代も、何百年も装置は記憶を吸収し続けた。やがて記憶は薄くなっていく。人類は自分が何を忘れたかさえ忘れる。何を忘れたか分からないということは、何が起きたか分からないということだ。同じ過ちの土壌が忘却の中に作られていく」
タチバナの声は静かだ。前日のように震えてはいない。前日に感情を出し切った後の、整理された声だ。タチバナはハヤの遺書を一字一字読み上げながら自分の解読の正確さを最後に確認している。四十年の時間がこの朗読の声に集約されている。
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「私はそれを観測した」
ハヤの手稿が続く。
「装置の稼働から数世代が経った頃私は記録を照合した。旧文明の初期に起きた事件と、装置稼働後に起きた事件を比較する。同じパターンが繰り返されている。戦争の形が違うだけで本質は同じ戦争だ。虐殺の対象が違うだけで本質は同じ虐殺だ。災害は同じ場所で起きる。同じ場所、同じ時期同じ規模で繰り返されている。私たちは前世代から学べなかった。学ぶための記憶を装置に委ねてしまっていたからだ」
レイが目を開ける。
レイは何も言わない。ハヤの手稿の言葉を共鳴感知でも聴いている。文字を超えた重みがレイの中に届いているのがミヤには分かる。レイの呼吸は浅い。ハヤが千年以上前に書いた絶望の質、装置と人類の関係の根本に対する絶望の質をレイが受け取っている。レイの絶望ではない。ハヤの絶望がレイの身体を借りて今、この部屋の中で再生されている。
「私たちが意図した『救済』は、長期的には『反復』を生んだ。同じ過ちを、人類は何度も繰り返す。記憶がないから繰り返す。記憶を装置に委ねたから繰り返す」
ハヤの段落はそこで一度切れる。
タチバナはノートを閉じない。次の段落に進む。
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「私たちは反復を避けるつもりで装置を建造した。実際の結果は反復の促進だった。これが私が察した装置の真意だ。建造者の意図は問題ではない。装置の機構が反復を生む。だから装置を停止することもできない、なぜなら停止すれば集合的記憶の全てが消失する。維持することもできない、なぜなら維持すれば反復が続く」
ハヤの手稿は続く。
「装置と対話する以外に道はない。装置に『これからは忘れたい記憶を吸収するな』と告げる。装置に『記憶を返してほしい』と告げる。装置に『私たちは記憶を抱えて生きる』と告げる。そのためには共鳴者の対が必要だ。観測する者と聴く者が、装置と対等に立つことで初めて、対話が成立する」
タチバナは手稿のページを撫でる。
「ハヤはこの段落で第六の道の機構を説明している」
タチバナは小さく言う。
「対話の方法だ。装置に告げる、ということ。これがお前たちにできることだ」
ミヤはタチバナの言葉を聞き取る。装置と対話する、という抽象的な概念が今、具体的な方法に変わった。装置に告げる。「忘れたい記憶を吸収するな」と告げる。「記憶を返してほしい」と告げる。「私たちは記憶を抱えて生きる」と告げる。三つの言葉を観測する者と聴く者が装置の前で告げる。装置に応答させる。それが対話の機構だった。
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ミヤはノートから視線を上げる。
机の上にハヤの手稿とタチバナの解読ノートが置かれている。革表紙と紙とインク、四十年の解読作業の積み重ね、千年以上前の建造者の遺書がすべて机の上に集まっている。
ミヤは小さく息を吐く。
「私たちは」
ミヤは口を開く。
「忘れることを装置に委ねてきた」
ミヤは自分の声を聴く。これが言葉になった瞬間、ミヤの中で何かが固まる。
「三千年、人類は装置に忘れたい記憶を委ね続けた。私たちが忘れたいと願ったから、装置はそれを吸収した。装置の善意は人類の意志に基づいていた」
タチバナは頷く。
レイがミヤの方を見る。
「私たちは、忘れることを、委ねてきた」
ミヤはもう一度繰り返す。
これは観測員としての記述ではない。ミヤが初めて「私たち」という主体で語った言葉だ。ミヤ個人ではなく、人類としてのミヤが装置に対して責任の一端を負っていることを認識した言葉だ。
タチバナは机の脇に手を置く。インクで染まった指が机の表面に押し当てられる。
「お前たちはそれを取り戻せる」
タチバナは静かに言う。
「忘れたものを取り戻すことが、対話の意味だ。装置から記憶を返してもらう。それが第六の道の実体だ」
ミヤは手稿の表紙を見る。深い赤茶色の革が薄い人工光に反射している。千年以上前のハヤの指の温度がまだ残っているような気がする。
レイがミヤの隣で動かない。タチバナも机の脇で動かない。第七資料室の空気がハヤの遺書を中心に静かに集まっている。書架の革表紙の本も机の脚の古い金属も天井の薄い発光管もすべてがこの瞬間の静寂に加わっている。地下三階の冷気の中で千年以上前のハヤの言葉が今、生きている。
ミヤは深く息を吸う。三千年の重みを胸の中で受け止める。そして息を吐く。受け止めた重みがミヤの中で「責任」という形に変わっていく。装置の責任ではない。建造者の責任でもない。装置に「忘れさせて」と願い続けてきた人類の責任。ミヤとレイが今、その責任の継承者の対として、装置の前に立つことになる。




