静まる海
十二月十四日の朝ミヤは〈シズク〉でクロイス近郊の漁業地に着いた。
オルタから南西に向かって十日ほど航海してきた。途中で二つの漁業地を通り過ぎている。最初の漁業地でも次の漁業地でも同じことが起こっていた。ここが三つ目だ。
朝の空は薄い灰色だ。十二月の南太平洋は冬の入り口にある。北からの風が水面を撫でている。波頭が低く、白いものはほとんど立たない。〈シズク〉の船体に当たる波の音も、夏よりずっと低い。船が桟橋に近づくと、港の匂いがいつもより薄いことに気づく。塩の匂いはあるが、魚の匂いがほとんどない。普段ならば港の手前数百メートルから魚の匂いが届く。今朝はそれがない。
レイはオルタで一度別れた。ハヤの手稿の解読の協力者をレイなりの伝手で探すという。タチバナ以外に手稿のことを話せる相手は限られている。ミヤは観測員として漁業地の異常を確認しに来た。手稿は布袋に包んだまま〈シズク〉の船室の引き出しに収めてある。
朝の漁師たちが網を引き揚げる時間帯だ。普段ならばこの時間は港の桟橋が忙しい。漁師の掛け声、魚の重みで揺れる桶、計量の音が重なる。塩漬けの桶の蓋を叩く音、若い漁師の罵声、競り市の番頭の声がそれに混ざる。それらすべてが普段の朝の桟橋の音だ。
今朝は違う。
桟橋には漁船が三隻だけ繋がれている。普段の半分以下だ。漁師たちは集まっていない。三隻の漁船はどれも桟橋に固定されたまま動いていない。船底の塗装が剥がれかけている船もある。長く海に出ていない船の姿だ。
一人だけ、桟橋の端で網を直している老人がいる。
ミヤは〈シズク〉を空いた桟橋に着ける。舫いを縛ってから岸に上がる。桟橋の木の板は冷たく濡れている。歩くと一歩ごとに、湿気を含んだ木の軋む音が低く響く。
老人はミヤを見ない。網の破れに集中している。網には魚が一匹もかかっていない。老人の指は太く、皮膚が厚い。長年、塩水と網に晒されてきた漁師の指だ。指は一定の速さで動き続ける。動かなければ寒い、というように。
「不漁ですか」
ミヤは訊く。観測員としての聞き方ではなく、ただの旅人として訊く。
老人は手を止める。顔を上げてミヤを見る。日焼けした顔に深い皺がある。
「三週間何も獲れない」
老人は短く答える。
「他の船は」
ミヤは訊く。
「出ても無駄だと言って別の漁場に動いた」
老人はまた網に視線を戻す。
「あなたは」
「俺はこの港から動かない」
老人は言う。
「動いて何になる」
ミヤは桟橋に立ち止まる。海面を見る。冬の海は灰色だ。普段ならばこの時期は群れる魚の影が水面下に見えるはずだ。今朝は何も動いていない。
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ミヤは〈シズク〉に戻って計測器を出す。海面の温度を測る。水温は例年通りだ。塩分濃度も問題ない。表層の溶存酸素量も正常範囲だ。
数値は正常だ。それなのに魚がいない。
ミヤは計測器のログを取る。三つ目の漁業地でも同じ結果だ。すべての数値が正常で生物だけが消えている。
これが沈黙海域の境界の内側で起きている事象だ。海水のすべての数値は正常のまま、生物だけが消えていく。境界の外側では普段通りの海だ。境界の中と外の差は計測機器では捉えられない。漁師の網だけがその差を教える。
ミヤは観測員としてデータを記録する。同時にミヤは漂泊団の出身として、別のことを考えている。漂泊団の食料は半分以上が漁業に依存する。漁業が崩れれば、漂泊団の生活が崩れる。漂泊団だけではない。海上都市の住民も深海ステーションの住民も太平洋に生きるすべての人間が海の生物に依存している。
老人は網を直し続けている。
ミヤは桟橋から港の方に歩く。港の市場は通常の半分の活気だ。魚を売る屋台は二つしかない。並んでいる魚は小さく種類も限られている。普段ならば桶に山積みになっている赤身の魚も底物の白身の魚もほとんど見えない。値段の札は前回ミヤがクロイスに来た時の二倍以上だ。
買い物客の表情も違う。値段を見て、買うのを諦める者が多い。一人の女性が小さな魚を一匹だけ買い、子供を連れて去る。子供は何も言わない。子供の足取りも遅い。栄養が足りていない子供の歩き方だ。ミヤはそれを観測員の目で見てしまう。観測員の目で見たくないものを見てしまう。
市場の奥の方では空になった陳列台が並んでいる。普段ならば干物の店がある場所だ。今日は店主すらいない。隣の屋台の主人が空の台を見ないように顔を背けている。香辛料を売る別の屋台では値段を上げざるを得ない事情を客に説明している老婦人の声が聞こえる。客は黙って首を振って去っていく。
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ミヤは市場を抜けて港の北端の波止場に向かう。
波止場の先にカグラの船「波音号」が停泊している。波音号の手前に別の漂泊団の船が停まっている。マストの飾りでミヤはそれが誰の船かを認識する。トオの船団の船だ。
トオの船の甲板にトオが立っている。栗色の髪と健康的な体格をしている。前回ミヤが会った時よりも少し痩せている。右肩を少し上げる癖は変わっていない。
「ミヤ」
トオは桟橋からミヤを呼ぶ。
「来ると思ってた」
「どうして」
ミヤは桟橋に上がる。
「他の漁業地を回ってきた漂泊団から聞いた。観測員のミヤが各地で海を測ってるって」
トオは甲板から桟橋に降りる。距離を縮めない。前回ミヤと会った時のような、肩を叩く距離まで近づかない。漂泊団の流儀で相手の様子を見て、近づいて良い距離をゆっくりと測っている。
「俺の船団も移動を始めた」
トオは言う。
「南西に。沈黙海域の影響が及ばない場所を探してる」
「見つかるか」
「分からない」
トオは桟橋の端に座る。海を見ている。
「カグラさんは」
ミヤは訊く。
「波音号は来週北東に向かう。お前のお父さんが昔回ってた航路だ」
トオは海を見たままだ。
「カグラさんはお前を待ってる。出る前に一度顔を見せてやれ」
ミヤは頷く。
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トオは桟橋に座ったまま動かない。ミヤはトオの隣に座る。
二人の間に沈黙がある。波の音が桟橋の下で揺れる。冬の海は灰色のままだ。桟橋の木の板が冷えていて、座っている脚の付け根からじんわりと冷気が伝わってくる。
何かを話したい気はする。しかしミヤから話を切り出すのは難しい。十年以上の間、ミヤから話を切り出した記憶がない。子供の頃も十六歳の夏も海星座号の事故の後もいつもトオの方から先に話しかけた。今もそれは変わらない。
「お前は」
トオが沈黙を破る。
「観測員として何が起きているか分かるのか」
ミヤは即答しない。観測員としては何が起きているかは半分分かる。沈黙海域が境界を加速度的に広げている。深淵核が目覚めはじめている。継承者の役割がミヤとレイに回ってきている。しかしそれを言葉にする時点でトオが知らないほうがいい領域に入る。
「分かる部分と分からない部分がある」
ミヤはそう答える。
トオは頷く。
「分かる部分は止められるのか」
「分からない」
ミヤは正直に答える。
トオは小さく息を吐く。海から視線を外してミヤの顔を見る。
「ミヤ」
トオは言う。
「変わったな、お前」
ミヤはトオを見る。
「あの時の漂泊団のミヤとは違う」
トオは続ける。歯を見せない、頬だけがわずかに動く笑い方をする。
「責めてるわけじゃない。観測員になって変わるのは当然だ。ただ」
トオは一度言葉を切る。
「俺はお前が独りで何かを背負ってるように見える」
ミヤは答えない。
しかしミヤの中で何かが動く。十六歳の夏の小島の浅瀬で、水の下でトオの指がミヤの手を取った時の感触が蘇る。あの夏、ミヤとトオは一度だけ言葉にできなかった距離を持っていた。十年前の海星座号の事故の後、ミヤが心を閉ざした時、トオはずっと近くにいた。何もしない。何も求めない。ただ必要な時にそこにいた。
ミヤはトオに「ありがとう」と言ったことがない。十年経った今も、その言葉は二人の間で交わされない。トオはそれを求めない。ミヤもそれを返せない。
しかしトオは知っている。ミヤがトオに何を負っているかを、トオは知っている。だから今日、トオはミヤを止めない。
トオはそれ以上は訊かない。立ち上がる。
「俺たちの船団は明日出る。お前はお前の道を行け」
トオは桟橋から自分の船に戻る。甲板に上がる前に一度だけ振り返る。トオの右肩が、いつものようにわずかに上がる。子供の頃から変わらない癖だ。十年前も、十六歳の夏も、今日も、同じ角度で右肩が上がる。
「無茶するなよ」
トオは短く言って、甲板に消える。
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ミヤは桟橋に座ったままだ。
冬の海は相変わらず灰色だ。生物の気配がない。
トオの船団の船尾でトオの姿が見える。船を出す準備を始めている。明日の朝には港から離れる船だ。トオの船団は南西へ向かう。沈黙海域の影響が及ばない場所を、トオたちは探す。見つかるかどうか分からないままで、それでも動く。動かなければ何も変わらないことを、漂泊団は誰よりも知っている。
ミヤは小さく息を吐く。波音号の方を見る。マストの旗が冬の風に揺れている。カグラがそこにいる。来週には北東に向かう船だ。
ミヤは立ち上がる。
立ち上がった瞬間、脚の付け根の冷気がはっきりと感じられる。長く座りすぎていた。日は中天を過ぎている。日中の風が冷たさを増している。
波止場を歩く。波音号の方へ向かう。歩くたびに桟橋の木の板が低く鳴る。
トオの「変わったな、お前」がまだ耳に残っている。
トオが言わなかった言葉も、ミヤの中に残っている。「戻ってこい」「無事でいろ」「俺はここで待つ」── どれもトオは言わなかった。漂泊団の流儀では、送り出す者は送り出される者に約束をさせない。トオはミヤに約束をさせなかった。それが十六歳の夏から続く、二人の流儀だ。
水面下では何も動いていない。冬の海は静まったままだ。




