禁書
十二月三日の昼ミヤとレイは〈シズク〉でオルタの港に着いた。
港の冬の風は乾いている。オルタは旧アジア大陸沿岸の海上都市で、冬の風は大陸方向から来る。塩の匂いに、わずかに土の匂いが混じる。
ミヤは舫いを縛ってから振り返る。レイは岸壁の階段の途中で立ち止まり、何かを聴くように顔を傾けている。
「行こう」
ミヤが言うとレイは小さく頷いて階段を上りはじめる。
二人がオルタに来るのは三度目だ。前回は七月の終わり。タチバナから「反復」という言葉を初めて聴いた日だ。あれから五か月が過ぎている。
街の中央に二十階建ての白い塔がそびえている。読み師連の最高塔だ。前回までは塔の正面玄関を使った。今回は違う。タチバナが事前に指定してきた経路がある。
東側の通用口の手前で若い解読者が二人を待っている。前回ミヤを迎えたのとは別の男だ。若く、まだ二十代の半ばに見える。
「タチバナ研究員からの伝言です」
若い解読者は紙片を差し出す。
「地下三階の第七資料室へ」
ミヤは紙片を受け取る。タチバナの筆跡で階層と部屋番号だけが書かれている。説明はない。
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塔の内部の石造りの廊下を二人は進む。前回までは塔の正面ロビーから二階のタチバナ研究室へ向かった。今回は逆方向だ。冷たい空気が壁を伝う。階段は地下へと続いている。
二人は階段を降りる。一階分ごとに踊り場があり扉が並んでいる。地下一階の扉には「閲覧室」の札がある。地下二階は「保管書庫」。地下三階の扉には札がない。階段の手すりは古い金属でミヤの掌に冷たさが伝わる。
地下三階の廊下に出ると、人気が途絶える。空気の質が変わる。湿気が増し、紙とインクの匂いに土と石の匂いが混じる。塔の上層の乾いた書庫の空気とは違う種類の空気だ。長い時間、地下に閉じ込められてきた空気の濃度がある。
ミヤは廊下を歩く。レイの足音が後ろに付いてくる。レイは布で巻いた靴底ではなく前回と同じ街用の革靴をはいている。革靴は石床の上で硬い音を立てる。レイはその音を気にしていない。地下三階には誰もいない。
「第七資料室」
ミヤは小さく呟く。
廊下の奥に両開きの古い扉がある。扉の前にタチバナが立っている。白いひげと痩せた長身、古い眼鏡をかけている。インクで染まった指先で扉の取手に触れている。
「来たな」
タチバナは短く言う。それからミヤとレイを順に見る。レイを見る目が七月の時よりも長い。
「入りなさい」
タチバナは扉を開ける。
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第七資料室の中は思っていたよりも広い。
古い書架が四列、奥まで並んでいる。書架には革表紙の書物がぎっしりと並ぶ。背表紙の厚みも色もまちまちで、整理の規則が外からは見えない。中央に長机があり、机の上には何冊かの書物が開かれた状態で置かれている。
天井から薄い人工光が降りている。光源は古い旧文明製の発光管らしく、わずかに揺らいでいる。光の届かない書架の奥は薄暗い。
「ここは読み師連の正規の書庫ではない」
タチバナは机のそばで立ち止まる。
「私が長年、別の名目で集めた書物だ。組織の記録には載らない」
ミヤは書架を見渡す。革表紙の中には背に見たことのない記号が刻まれているものもある。レイは黙って書架の一角に視線を向けている。
「お前が見ているのは旧文明語の文書だ」
タチバナはレイに言う。
「お前が何を感じているかは私には分からない」
レイは何も答えない。
タチバナは机の引き出しを開ける。引き出しの中から革表紙の薄い手稿を取り出す。手稿の表紙は深い赤茶色で金属の留め金がついている。
「これだ」
タチバナは手稿を机の中央に置く。
「私はこれを四十年解読しようとしてきた」
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タチバナは手稿の留め金を外す。金属の留め金は古いが、油が差されているのか、音もなく外れる。表紙をゆっくりと開く。
中の紙は変色していて薄い茶色だ。文字はミヤがこれまで見たどの旧文明語とも違う。記号と文字が混ざっている。一部の段落には別の手で書き加えられた注釈がある。注釈はタチバナの筆跡だ。四十年の解読の試みがそのまま余白に積み重なっている。
「これはハヤと呼ばれる人物の手稿だ」
タチバナは説明する。
「旧文明の最後の世代の科学者だ。少なくとも千年以上前の人物だ」
ミヤは手稿に視線を落とす。表面の文字を目で追っても意味は取れない。しかし紙の質感は確かに千年の重みを感じさせる。乾いた繊維、薄い手触り、辛うじて残るインクの濃淡が指先の感覚に残る。
「ハヤ」
ミヤは小さく繰り返す。
「読み師連の中でもハヤの名前を知る者は数名しかいない」
タチバナはページをめくる。
「組織の上層はこの手稿の存在を知らない。ハヤの手稿は四十年前に私の最初の弟子が持ち込んだ」
ミヤはタチバナの顔を見る。四十年前の弟子といえばシナだ。
「シナさんが」
ミヤは確認する。
タチバナは頷く。眼鏡の奥の目がわずかに揺れる。
「シナはこの手稿を太平洋のある場所で発見した。私はそれを預かった。シナが消えた後だ」
レイは机の脇に立っている。手稿には触れない。しかしレイの目は手稿の特定のページに固定されている。
タチバナは手稿の中ほどのページを開く。そこには他より大きく書かれた一行がある。タチバナの注釈がその下に小さく付いている。
「この一行だけは私は解読した」
タチバナは指で示す。
「『お前たちは選べる』」
タチバナの指がわずかに震える。
「この一行だけだ。残りはまだ解読できない。しかしこの一行はハヤが千年以上前に書いた言葉だ。千年以上前から誰かに向けて書かれた言葉だ」
ミヤは手稿の文字を見る。意味は分からない。それでも紙の重みは確かに伝わってくる。千年の時間を越えて誰かが誰かに何かを残そうとした、その意志の重みが、文字の形にまだ宿っている気がする。
レイが初めて口を開く。
「これは」
レイは言う。
「誰かを呼んでいる」
タチバナはレイを見る。長い沈黙の後でタチバナは頷く。眼鏡の奥の目から、白いひげの脇まで、わずかに表情が動く。それはタチバナが普段見せない種類の表情だ。安堵に近い、しかし安堵ではない、四十年待ち続けた者だけが見せる表情だった。
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「シナとカゲはこれを解読できなかった」
タチバナは手稿の表紙をゆっくりと閉じる。
「フユの世代も知らなかった。それ以前の継承者たちがこれに辿り着いたかどうかも私は知らない」
タチバナはミヤとレイを順に見る。
「お前たちはここに来た」
タチバナは言う。
「お前たちはシナと違って二人で来た。観測する者と聴く者が同時にここに立っている」
ミヤは手稿の表紙に視線を落とす。深い赤茶色の革に薄い光が反射している。指で触れるのがなぜかためらわれる。
「これは」
タチバナは手稿を机の中央に押し出す。
「お前たちへの、ものだ」
タチバナの白いひげがわずかに震えている。
ミヤは手稿に手を伸ばす。革表紙の冷たさが指先に伝わる。手稿は思っていたよりも軽い。しかし千年の時間の重みが確かにその軽さの中にある。
レイがミヤの隣に立つ。レイも手稿に手を伸ばす。二人の指が手稿の表紙の上でわずかに触れる。
「持っていきなさい」
タチバナは言う。
「ただしこれを読み解く時間はもう長くない」
地下三階の廊下の奥で誰かの足音が一度だけ響く。すぐに消える。ミヤは廊下の方向を見る。誰もいない。レイも同じ方向を見て、何かを聴くように顔を傾けてから、視線を戻す。
タチバナは廊下の方を見ない。足音には気づいているはずだが、表情を変えない。古い眼鏡を外す。眼鏡を机の上に置く。インクで染まった指で目元を一度だけ拭う。
「行きなさい」
タチバナは手稿から手を引く。
ミヤは手稿を持ち上げる。レイが書架から下ろした古い布袋を差し出す。ミヤは手稿を布袋に包む。
二人は机の前でタチバナに一度だけ頭を下げる。
タチバナは何も言わない。
二人は第七資料室を出る。
廊下に出てからミヤは振り返らない。レイも振り返らない。階段を上りはじめる。
布袋の中の手稿の重みがミヤの腕に確かに伝わる。千年以上前から誰かに向けて書かれた言葉が、今、ミヤの腕の中にある。
ミヤは小さく息を吐く。
階段を上る足音だけが石の壁に反響している。




