庁の決断
十一月二十五日の朝クガは管理庁本部に出勤した。
ハリスの霧はまだ薄い。八月の夜の濃霧と違い、十一月の朝の霧は街灯の光を滲ませる程度だ。クガは制服の襟を整えてから管理庁本部の白い建物の正面玄関をくぐった。
警備員が二人立っている。クガを見て、軽く頷く。クガは頷きを返さない。管理庁の規律では上司以外への挨拶は不要だ。クガはその規律を最低限守っている。
正面ロビーの磨かれた金属の床を歩く。靴底の音が天井の高い空間に反響する。クガの執務室は四階だ。階段ではなくエレベータを使う。階段は規律違反ではないが上層階の職員はエレベータを使う慣習がある。
四階の廊下を進む。両側の壁は鏡のように磨かれていてクガの輪郭が映る。クガは映る自分を見ない。管理庁の制服を着た自分の姿は五年前にクガが管理庁に入った時から見飽きている。
執務室の扉を開ける。
机の上に書類の山がある。昨夜のうちに上司の秘書官が置いたものらしい。今朝のクガが処理する案件のリストだ。沈黙海域に関する観測員ネットワークの内部報告書、深層航路の通信記録の解析、それから封印派の動きに関する分析メモが積まれている。
クガが机に座る前に机の上の電話が鳴る。
ナカイ部門長からの内線だ。
「九時。私の部屋へ」
ナカイの声は短い。それだけで電話は切れる。
クガは時計を見る。八時五十二分。あと八分。
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クガはナカイ部門長の部屋の扉をノックした。
「入れ」
ナカイの声が中から返ってくる。
クガは扉を開ける。
ナカイの部屋はクガの執務室の二倍の広さだ。机の向こうにナカイが座っている。五十代の冷静な男だ。白髪混じりの短い髪に無表情が貼り付いている。管理庁の保守派の中心人物でクガの直接の上司になる。
ナカイは机の上の書類を見ている。クガが入っても顔を上げない。
「座れ」
ナカイは短く言う。
クガは机の前の椅子に座る。
ナカイがようやく顔を上げる。
「観測員ミヤの名簿の取り扱いを変更する」
ナカイは事務的に言う。
クガの内面で何かが固まる。しかし表情は変えない。
「要注意リストから排除リストに移す」
ナカイが続ける。
クガはナカイの目を見る。ナカイの目は冷たい。怒りも憎しみもない。ただ業務上の判断としてミヤを「排除対象」として扱うと告げている。
「理由は」
クガは訊く。事務的な質問の形で。
「複数の海上都市での非公式接触。漂泊団内の情報網経由での観測員ネットワークの拡大。読み師連との接触。解放派の集会への潜入。複数の証拠が積み上がっている」
ナカイは書類のリストを指す。クガには見えない位置だがナカイの言葉はすべて事実だ。クガは内部統計でその動きを追ってきた。ただしクガはそれらの記録を「分析中」として、上層部への報告を遅らせ続けてきた。今朝その遅延が限界に達した、ということだ。
「具体的な指示は」
クガは訊く。
ナカイは答えない。
クガは知っている。ナカイは具体的な指示を出さない。「排除」の方法は執行する側の判断に任される。観測員資格の停止、深層航路の利用禁止、最悪の場合は身柄拘束まで含まれる。どれを選ぶかはクガの「分析」次第になる。
「以上だ」
ナカイは書類に視線を戻す。
クガは席を立つ。
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執務室に戻る。
クガは机の前で動かない。椅子に座らずに机を見下ろしている。
書類の山が朝と同じ位置にある。しかしクガにとってその山の意味は朝と違う。今、クガは「観測員ミヤの排除」を執行する立場にある。クガの「分析」次第でミヤの観測員としての生命が決まる。
クガは椅子に座る。
しばらく目を閉じる。
ミヤの顔が浮かぶ。
五年前のことだ。ミヤは二十三歳で独立観測者になったばかりだった。クガはまだ管理庁に入っていない。二人は同じ漂泊団系の集まりで何度か顔を合わせた。ミヤは寡黙で観測ノートを抱えて隅に座っていることが多い。クガは当時ミヤの観測の几帳面さに惹かれた。
ある夕方二人で港の端のベンチに座った。ミヤがノートに何かを書いている。クガはミヤの隣で海を見ていた。何時間もお互いに無言だ。それでも気まずくない時間が続く。
その後、クガは管理庁に入ると決めた。ミヤは反対しない。ミヤも独立観測者として漂泊団を離れた。二人は別々の道を選んだ。
それから五年、クガは管理庁の中でミヤの名前を伏せ続けてきた。要注意リストから外すことはできない。しかし、リスト内での扱いを軽く保つことはできる。一日一日、伏せ続けてきた。
八月の地下倉庫でクガはミヤに会った。
ミヤの観測員のナイフを握る手がクガには見えた。観測員が自衛用に持つ小さな刃だった。ミヤはそれを使うつもりだった、もし必要なら。ミヤの目は警戒で硬くなっていた。
クガは「俺はお前を守れない」と言った。
その時のクガにはそれが事実だ。管理庁の中の派閥構造、ナカイ部門長の動き、武力封印派の追跡が重なる。守れないものを守りたいという気持ちは当時のクガの中にあった。しかし、行動には移せなかった。
今朝状況が変わった。
ナカイがミヤを排除リストに移した。クガが伏せ続けてきた防御線が崩れた。ここから先、クガが「分析」を遅らせればそれは管理庁の規律違反として記録される。クガ自身の立場が危うくなる。
そして、「分析」を遅らせなければミヤが排除される。
二つの選択肢が並ぶ。
クガは目を開ける。
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クガは机の引き出しを開ける。
引き出しの底に別の書類がある。ナカイの秘書官が机に置いた書類の山には含まれていない、クガ自身が管理してきた書類だ。
深淵核の初期記録の写し。
管理庁の中でも上層のごく一部しかアクセスできない情報だ。クガは分析官として、業務の必要上、何度か原本を見たことがある。写しを作るのは厳密には規律違反だ。しかしクガは三か月前に密かに作った。万が一のため、と自分に言い聞かせた。
その「万が一」が、今朝訪れた。
クガは写しを取り出す。
数枚の書類だ。深淵核の位置座標、初期の研究報告、装置の構造に関する旧文明語の翻訳の一部が含まれている。クガが分析官として知り得た範囲の情報だ。ミヤとレイにとっては独力では絶対に手に入らない種類の情報になる。
クガはこれを外部に持ち出せば、自分の管理庁職員としての立場は終わる。発覚すれば即時拘束、軍事法廷へ送られる。即時に発覚しなくてもいずれは追跡される。
戻ることはできない。
クガは書類を内ポケットに入れる。
別の書類を机の上に出す。今朝ナカイから渡された案件リストだ。クガはそれを丁寧に整理して、机の中央に置く。表向きにはクガが朝の業務を中断して何かを取りに行っただけ、という体裁になる。机を見ればクガが戻る予定の状態に見える。
執務室の扉が開く音がする。
同僚の若手が顔を覗かせる。
「クガ分析官、午後の会議の資料私が用意します」
若手は事務的に告げる。
「ありがとう」
クガは答える。
若手はそれだけで去る。クガの様子を観察しているような気配はなかった。
クガは執務室の中をもう一度見渡す。机と書棚、書類の山と椅子がいつも通りの位置にある。五年間、毎日見てきた風景だ。今日が最後になる。
クガは執務室を出る。
扉を閉める。
振り返らない。
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廊下を歩く。
朝と同じ動線だが向かう方向は逆だ。クガはエレベータではなく階段を使う。階段の方が上層階の他の職員に会う可能性が低い。一階に降りる。
正面ロビーを抜ける。
正面玄関の警備員が二人立っている。朝と同じ警備員だ。
「お出かけですか」
警備員の一人が訊く。
「外部分析の出張。三時間で戻る」
クガは事務的に答える。
警備員は短く頷く。クガの内ポケットの書類には気づかない。管理庁の警備員は職員の身体検査をしない。職員の信頼を前提とした規律だ。クガはその信頼を今、利用している。
クガは正面玄関を出る。
ハリスの霧は朝より少し濃くなっている。十一月の昼の霧は街灯の光を白く滲ませる。十メートル先の人影もぼやけて見える。
クガは振り返らない。
ハリス管理庁の白い建物が霧の中で輪郭をぼやけさせている。クガはそれを背中に感じる。しかし振り返らない。振り返れば、自分の決断が崩れそうな気がする。
街路を進む。
橋を一つ渡る。
霧の中で誰かの足音が後ろから聞こえる気がする。しかしそれはクガの想像だ。誰も追ってきていない。少なくとも今はまだ。
クガは橋の中央で一度立ち止まる。
「すみません、上司」
クガは小さく言う。
誰も聞いていない。霧が音を吸う。クガの声はクガ自身にしか届かない。それでもクガはそれを口にする必要があった。
ナカイ部門長への謝罪ではない。ナカイへの謝罪なら、クガはむしろ感じていない。クガが謝っているのは五年間信じてきた「管理庁の規律」そのものに対してだ。クガはそれを今、自分の判断で破った。
クガは橋を渡り切る。
ハリスの霧の中、クガは内ポケットの書類の重みを感じながらもう一つの橋へ向かって歩き続けた。




