海星座の真実
十一月十五日の朝〈シズク〉が波音号に接舷した。
レイは別行動でシエラ・ディープへ戻った。フユの島から二人で太平洋を移動した後、ミヤはカグラに会うために波音号へ向かいレイは武力封印派の動きを共鳴感知で追うためにシエラに残った。二人ともお互いの行き先を承知している。連絡は漂泊団の通信網経由で取る予定だ。
ミヤは桟橋から波音号の甲板に飛び移る。漂泊団の若い船乗りがロープを受け取って巻き付ける。十年以上、何度繰り返してきた接舷手順だ。
甲板の中央にカグラが立っていた。
春集から四ヶ月、波音号での再会から二ヶ月。カグラの左目の革帯は変わらない。右目はまっすぐミヤを見ている。
「来たな」
カグラは短く言う。
抱擁はない。今朝のカグラは身体接触をしない。ミヤを迎える距離が二ヶ月前と違う。何かを決めた目だ。
「船室へ」
カグラはそれだけ言って、甲板を歩き始める。
ミヤはカグラについていく。
波音号の中の通路はミヤが子供の頃から知っている。木の床は塩で擦れて滑らかになっている。壁の塗装も同じ場所が剥がれている。漂泊団の母船はあえて修繕しすぎない。住まう者の記憶の連続性を保つためだ。
カグラの船室は最上層にある。扉を開けるとミヤが子供の頃よく訪ねた部屋が現れる。木の机と椅子が二つ、壁に古い航海日誌の革表紙が並んだ棚があり、窓の外に海が広がる。
二ヶ月前と何も変わっていない。
しかし机の上に一冊の本が出ている。前回はなかった本だ。革表紙の古い航海日誌で表紙の色が褪せている。
ミヤはそれに気づく。しかし口にしない。
カグラが二つの椅子を机を挟んで配置する。
「座れ」
ミヤは座る。
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朝食が二人分、別の漂泊団員によって運ばれてくる。
干し魚と豆の汁、漂泊団の朝の食事だ。ミヤが子供の頃から食べてきた味だ。漂泊団の食事は地域や船によってわずかに違うが波音号の干し魚はミヤの記憶の中の味と同じだ。
二人は黙って食べる。
カグラは食事中に話さない。漂泊団の習慣だ。食事の時間は身体に栄養を送る時間で頭を使う時間ではない。子供の頃のミヤもその習慣を教わった。
食べ終わってカグラがお茶を淹れる。漂泊団の渋い茶、苦みが強い種類だ。ミヤは碗を両手で包む。フユが昨日と一昨日に同じ動作をしていた。ミヤは今、自分でもその動作をしている。
「最近何を見てきた」
カグラがようやく訊く。
質問は曖昧だ。具体的に答えることもできるし、抽象的に答えることもできる。カグラはミヤがどこまで言葉にしたいかを試している。
ミヤは少し考える。
具体的な事実をすべて語ることはできない。タチバナの書物の三角形四つの印、クガが告げた深淵核の名前、フユの七十年前の記憶、シナとカゲの痕跡、自分とレイの能力の発現が語ればすべて一日では終わらない。
ミヤは一つの名前だけを口にする。
「シナ」
カグラの右目がわずかに細まる。
それから長い沈黙が降りる。
茶の湯気が碗から立っている。カグラはミヤから視線を逸らさない。
「お前は辿り着いたか」
カグラは小さく言う。
ミヤは頷く。
カグラは目を伏せる。それから机の上の革表紙の本に手をかける。
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カグラは革表紙の本を開く。
「これは海星座号の航海日誌だ」
カグラは静かに言う。
「十年前の事故の数か月前から、事故の直前までの記録だ」
ミヤの呼吸が止まる。
海星座号の航海日誌は事故の時に船と共に海に沈んだはずだった。漂泊団の公式記録では「失われた」と扱われている。十年間、ミヤはそう信じてきた。
カグラがそれを持っていた。
「お前の父が私に預けたものだ」
カグラは続ける。
「事故の二週間前、お前の父が私の船を訪ねてきた。そしてこの航海日誌のコピーを、私に渡した。『何かがあった時これを保管してくれ』と言った」
ミヤは机の上の本を見る。
革表紙は古いしかし船と共に沈んだ本ではない。父が事前に作ったコピーだ。父は何かを予感していた。だから事故の二週間前にコピーをカグラに預けた。
「父は何を予感していたのですか」
ミヤは訊く。
カグラは机の上の本のページをめくる。父の字が並んでいる。観測員の几帳面な字だ。ミヤの字と似ている。ミヤは父から観測員の字を受け継いだ。
カグラは特定のページを指す。
ミヤはそれを読む。
父の最後の数か月の観測記録だ。沈黙海域の境界の位置、加速の数値、そして方角を示す座標が並ぶ。ミヤは座標を見て、息を呑む。
シナのノートに書かれていた座標とほぼ同じ位置だ。
「父はシナの痕跡を追っていた」
カグラが静かに言う。
「四十年前に消えた観測者の痕跡を、十年前のお前の父が辿っていた。私は当時、それが何かを知らなかった。ただお前の父が何かに追われているような目をしていたのを覚えている」
カグラはページをめくる。
最後のページに父の字で短い文章が書かれている。
「海星座号は、明日、北東の座標へ向かう。沈黙海域の境界の最深部に近い地点だ。ここに何かがある。私の観測の結論だ」
そして日付が記されている。事故の前日だ。
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ミヤは航海日誌から目を上げる。
カグラは目を伏せている。
「海星座号は、シナの最後の場所に向かおうとしていた」
カグラは続ける。
「お前の父は、シナの痕跡を辿って、その方角まで来ていた。母船を動かしてもう少し近づこうとした夜事故が起きた」
「事故の原因は」
ミヤは訊く。
「公式の記録では機関の故障だ。しかし現場の漂泊団員の証言には別の話が混じっていた。母船の周辺で海が異常な動きをしたという証言だ」
カグラの右目がミヤを見る。
「四十年前にシナとカゲが消えた場所は、装置が何かを残した場所だ。装置の影響は、その後も続いている。お前の父は知らずにその影響圏内に入った。それで母船が呑まれた」
ミヤは机の上の本を見続ける。
父はシナを追っていた。シナの痕跡を辿ろうとしていた。父自身は何のためにそれを追っていたかを記録に残していない。しかし父も観測員だ。ミヤと同じ職業の人間になる。父も「見落とすまい」と数字を記録した。
そしてその数字の先に装置の影響圏が待っていた。
父は知らずに家族と母船を巻き込んでしまった。
ミヤの母も弟も巻き込まれた。直接の標的ではない。父の観測の結果として、家族はそこに居合わせた。
ミヤの目に涙が浮かぶ。
十年間、ミヤは「なぜ家族だけが死んで、自分だけが生き残ったか」を問い続けてきた。その問いには答えがなかった。今、別の問いに変わる。
「父が観測していなければ、家族は死ななかったか」
ミヤはそれを口にしない。
しかし考えている。
カグラがミヤを見る。
そして椅子から立ち上がりミヤに近づく。
両腕でミヤを抱き寄せる。十九歳のミヤを海星座号事故の現場から救助した時と同じ姿勢で。
ミヤはしばらく泣く。
カグラは何も言わない。ただ抱きしめている。漂泊団の母親が子供に対してする、最も古い動作だ。カグラは漂泊団の老人でミヤは漂泊団の孤児だ。十年前から二人の関係はそういう形だった。
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夕方二人は甲板に出る。
朝のカグラの距離は午後には縮まっていた。ミヤがカグラの隣に立つことをカグラは拒まない。
海の夕焼けが水平線にある。橙色から赤、そして藍色への移ろい。波音号の周りには他の漂泊団の小船が散らばっている。漂泊団の月例集会が近い。
カグラは手すりに寄りかかる。右目で夕焼けを見ている。
「お前は、それでも、観測者であり続けるか」
カグラが訊く。
ミヤは即答しない。
父の観測が家族を巻き込んだ事実を知った今、ミヤが観測員であり続けるかどうかは根本的な問いになる。観測することは知らずに何かを巻き込むことかもしれない。父はそれを知らずに死んだ。ミヤは今、それを知っている。
知った上で観測を続けるか。
ミヤは夕焼けを見る。
十年前の事故の場面が頭の中で再生される。母の手と弟の声と父の背中と警告灯の点滅が浮かぶ。そして三ヶ月前にカグラが告げた「海面の少し離れた場所から見ていた誰か」── レイが潜航艇から見ていた光景が重なる。
ミヤは家族を失った。しかしレイと出会った。レイは家族の事故の場で海面の上にいる。十年前の同じ場所にミヤとレイは別の位置でいた。
それは反復の一つの形だ。
過去の継承者たちは皆、消えた。フユだけが生き残る。フユは七十年、独りで生きている。ミヤは家族を失って十年、観測員として生きてきた。レイは養育者を失って五年、隠れて生きている。
三人とも似た形で「残った者」だ。
ミヤはカグラの方を見ない。夕焼けを見続ける。
「観測することを止めません」
ミヤは言う。
「父が観測していたものを私は別の角度から見ています。止めれば、父の観測も無駄になります。父もシナもカゲも、フユも過去の継承者たちが残したものが無駄になります」
カグラはミヤを見ている。
「私は観測員であり続けます」
ミヤは続ける。
「しかし父と同じ道は歩きません。私にはレイがいます。レイには私がいます。二人で見る景色は父が一人で見ていた景色とは違うはずです」
カグラの右目がわずかに細まる。
夕焼けの最後の光がカグラの革帯に当たる。
カグラはそれ以上の問いを発しない。
しかしカグラの右目はミヤを見続ける。
答えへの同意ではない、確認の視線だ。十年前にミヤを救助した時からカグラは何度もこの視線でミヤを見てきた。ミヤの選択を尊重する、しかし結果は引き受けろ、という視線だ。
ミヤはその視線を受ける。
水平線の夕焼けが藍色に変わっていく。




