最初の徴候
# 第20話 最初の徴候
九月二十五日の午後ミヤとレイは再びシエラ・ディープの下層に降りた。
前回の訪問は六月の終わりだった。あの夜ミヤは廊下の奥の人影を追って下層に踏み込み、放棄区画の観測室でレイと出会った。今日は二人で意図的に同じ観測室を目指している。
レイが先導する。布で巻いた靴底が廊下の薄暗い床を音もなく進む。ミヤは数歩後ろを続く。観測員の歩き方ではない、もう少し慎重な歩幅になる。
下層の通路は六月と変わらない。剥がれた塗装と湿気を含んだ空気と半分以上が切れた蛍光灯の琥珀色が廊下に重なる。〈シエラ・ディープ〉の古い区画は時間がほとんど動かない場所だ。
「ここから先誰も来ない」
レイが小さく言う。
「俺が何度か確かめた」
ミヤは頷く。
レイはこの三か月の間、何度かこの観測室を訪れていたらしい。ミヤと出会った後、レイは一人でここに戻って、何かを確かめていた。具体的に何を確かめていたかをレイは言わない。しかし今日二人で来ることを決めた時レイは「準備ができている」とだけ言った。
廊下の角を曲がる。
下りる階段が現れる。古い金属の階段、塗装が剥がれ、手すりに錆が浮いている。前回と同じ階段だ。
レイが先に降りる。ミヤも続く。
下層に踏み込む。
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放棄区画の廊下を進むと半開きの扉が現れた。
三か月前と同じ扉だ。誰かが最近開けた、というあの時のミヤの直感は後でレイの侵入だったと判明した。今日その扉が二人を待っている。
ミヤは扉の前で立ち止まる。
「入る」
レイが小さく言う。
ミヤは頷く。
扉をゆっくり押し開ける。
部屋の中は薄暗い。窓はない。天井の照明は切れている。廊下から差し込むわずかな光だけが部屋の輪郭を浮かび上がらせる。
部屋の中には古い観測機器が並んでいる。ソナー解析装置、潮流計、気圧記録機、それから共鳴測定の装置に似た大型機器が二つ。三か月前と何も変わっていない。
ミヤは部屋に踏み込む。
レイは扉の近くに立つ。今日は観察者としてミヤの動きを見守る位置を取る。
ミヤは大型機器に近づく。
機器の一つに「S」のラベルが貼ってある。アルファベットの「S」。三か月前にミヤが見たのと同じラベルだ。
ミヤは「S」を見つめる。
三か月前、ミヤはこのラベルを見つけて、機器に触れた。触れた瞬間、視界の端に女性の手が浮かんだ。細長い指と観測者特有のペンだこと左手薬指の細い銀の指輪が視界の端に並んだ。あの幻視がミヤの能力の最初の徴候だった。
あれから三か月、ミヤは観測艇〈シズク〉で何度も夢に同じ手を見た。タチバナの「反復」、クガの「深淵核」、カグラの「歌」──三つの入口がミヤの中で繋がりはじめ、夢の頻度が増えていった。
そして今日ミヤは意図的にここに戻ってきた。
「お前はこれを視るのか」
レイが扉の近くから訊く。
ミヤは答える。
「視る」
「俺が聴く」
レイは短く言う。
あの夜二人がそれぞれの能力を初めて言葉にした時の合言葉だ。今日それが実行される。
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ミヤは指で機器に触れる。
金属の表面は冷たい。三か月前と同じ感触だ。しかし今日ミヤの中で起こることは三か月前とは違う。
触れた瞬間、頭の中で響きが起きる。
三か月前よりも強い。物理的な音ではなく、頭の中で何かが振動する感覚に近い。共鳴のような、しかし共鳴とは違う何かが起きている。
ミヤは指を離さない。
視界の端に何かが浮かぶ。
最初は手だ。三か月前と同じ、細長い指の女性の手が現れる。しかし今日は手だけではない。
手の動きを追うとその先に腕があり、肩があり、後ろ姿がある。
細い背中だ。観測者特有の前傾姿勢でペンを走らせる動作が続く。ノートに何かを書いている。
ミヤは触れ続ける。
視界の中の後ろ姿がわずかに動く。書く動作を止める。
手がペンを置く。
そしてその手の主がゆっくり振り返る。
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一瞬顔の輪郭が見える。
三十代後半の女性だ。痩せた顔と観測者の目をしている。ミヤと同じような目になる。海上で長く暮らした者特有の、皮膚の乾きと塩で擦れた頬が見える。
ミヤはその顔を知らない。
しかしその顔はミヤの何かを知っているような目をしている。
女性の口が動く。何かを言っている。しかし音は聞こえない。
ミヤは視ている。
視覚ではない、別の感覚で見ている。共鳴感知でもない。レイの能力とは別の、ミヤだけの何かが働く。視ることの能力が過去の誰かの動作と表情をミヤの中に展開する。
レイが扉の近くで息を呑む音が聞こえた。
ミヤは振り向かない。指は機器に触れたままだ。しかしレイにも何かが響いているらしい。レイの共鳴感知がミヤの今の状態を聴いているのだろう。
視界の中の女性の感情がミヤに流れ込む。
焦りだ。何かを急いで確かめなければならない、という焦りが伝わる。
そして、希望が混じる。
「もう一度確かめなければ」
女性の声がミヤの中に響く。
声ではない。音もない。しかし確かに女性が言っている言葉としてミヤの中に届く。
ミヤの身体が震える。
しかし手は離さない。
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視界の中の女性がもう一度口を動かす。
何かを言っている。
ミヤは聴こうとする。しかし音はない。視覚的に唇の動きを追うがそれも完全には読み取れない。
女性の表情にわずかな悲しみが浮かぶ。
それから女性の姿が薄れ始める。
ミヤは手を離す。
視界の中の女性が完全に消える。
ミヤは息を整える。
強い疲労が押し寄せる。頭痛と耳鳴りと視界の端のチカチカが同時に襲う。体熱が上がり、額に汗が滲む。深海ステーションの安定した冷気の中でミヤだけが熱くなっている。
ミヤは機器の脇に手をつく。倒れそうになる体を支える。
そしてミヤの口から無意識に名前が出た。
「シナ」
ミヤは自分の声を聴いて、驚く。
「シナ?」
繰り返すと確かにミヤの口から「シナ」という音が出ている。聞き覚えのない名前だ。タチバナの書物にもクガの内部情報にも漂泊団の伝承にもミヤはその名前を聞いたことがない。
しかし口から自然に出た。
レイがミヤに近づく。
ミヤの腕を支える。
「お前はその名前を知っているのか」
レイが訊く。
ミヤは首を横に振る。
「知らない」
ミヤは答える。
「しかし聴こえた」
ミヤは目を閉じる。額の汗をレイが指で拭った。レイの手は冷たい。ミヤの体熱との対比でその冷たさがミヤを現実に引き戻す。
「シナ」
ミヤはもう一度小さく言う。
自分の声を自分で聴く。
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レイはミヤを支えたまま、何も言わない。
二人の間に沈黙が落ちる。観測室の薄い人工光、古い機器、「S」のラベル。すべてが三か月前と同じ位置にある。しかし二人の中の何かが変わっている。
レイはミヤの状態を聴いている。共鳴感知でミヤの内側の動揺とその奥にある何か別のもの──ミヤ自身も気づいていない何かをレイは聴いている。
しかしレイはそれを今は言葉にしない。
「お前はもう一人の観測者を視た」
レイがようやく小さく言う。
「『S』はシナの頭文字なのか」
ミヤが訊く。
レイは答えない。レイにもその答えは分からない。ただミヤの手の動きとミヤが無意識に発した名前とレイ自身が聴き取った何かを繋ぐとその仮説に行き着く。
ミヤは「S」のラベルを見る。
薄暗い光の中、ラベルの文字がわずかに浮かんで見える。
シナという名前の女性がかつてこの機器を使った。ミヤと同じような目をした、三十代後半の人物だ。ペンだこと銀の指輪とノートに何かを書く後ろ姿がミヤの中に残っている。彼女は何かを観測していた。「もう一度確かめなければ」と急いでいた。
その彼女の動作と感情が今、ミヤの中に流入した。
ミヤの能力は過去の観測者の痕跡を視る能力なのだ。三か月前は手だけ、今日は顔と声まで。三か月で能力が次の段階に進んだ。
ミヤはそれを観測員として認識する。
しかし認識した瞬間、新しい問いが開く。
シナは誰だったのか。
「シナ。…誰?」
ミヤは自分の声を聴いた。




