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夜の海

# 第19話 夜の海


九月十五日の夕方ミヤとレイは〈シズク〉で海上に出た。


シエラ・ディープの公式潜航艇でレイを海上に運ぶには手続きが多く危険だ。ミヤは別の方法を選んだ。漂泊団の補給船の便を借りて〈シズク〉をシエラ・ディープの上空海域まで運びそこからレイを密かに乗せた。手筈は前日のうちに整えていた。


太平洋中部の海域は穏やかだ。波は低く風も弱い。九月の夜は気温が下がり始めるがまだ甲板に立つ程度には耐えられる。


レイは甲板に立っている。


ミヤは操舵室からレイの背中を見る。レイは深海ステーション下層から海上に出るのは久しぶりらしい。レイ自身が口にしたわけではない。しかし、レイの肩の動きと海を見る姿勢からミヤはそれを読み取る。


深海ステーションで暮らしてきた者は海面を恐れる者と海面に憧れる者がいる。レイはどちらでもないように見える。ただ見ている。


「風が塩を運ぶ」


ミヤはレイに小さく声をかける。


レイは振り返らずに頷く。


ミヤはそれ以上は言わない。観測員として、相手の沈黙を尊重する習慣がある。


夕焼けが水平線に残っている。橙色から赤、そして藍色への移ろい。十年以上、ミヤがほぼ毎日見てきた海上の夕焼けだ。今夜は隣にレイがいる。


ミヤは機関の出力を最小に下げる。〈シズク〉はゆっくりと漂流に近い状態に入る。観測ポイントではないが二人で話す場所としてミヤはこの位置を選んだ。


---


夜になる。


星が出る。無数の星だ。


ミヤとレイは観測デッキに並んで立つ。デッキの木は塩で擦れていて、足の裏に湿気の感触が伝わる。


「深海では空がない」


レイが小さく言う。


ミヤは頷く。


「お前は深海で生まれた」


ミヤは訊く。


「そうだ」


レイは答える。


沈黙が落ちる。沈黙だが気まずさはない。むしろ二人とも沈黙の中で何かを聴いているような時間だ。


ミヤは下に降りる。


居住区の小さな電熱器でコーヒーを淹れる。〈シズク〉の備品の中でもコーヒー豆だけは漂泊団の交易品から特別に分けてもらっている。シエラ・ディープの空気で慣れたレイにもコーヒーは飲める飲み物のはずだ。


ミヤは二つのカップを持って観測デッキに戻る。


レイは星を見ている。


ミヤがカップを差し出すとレイは小さく受け取る。


二人は並んで星を見ながらコーヒーを飲む。


コーヒーは苦い。そして温かい。海上の夜の冷気の中でカップの熱が掌から手首へと伝わる。


カグラの言葉がミヤの脳裏に残っている。


「あの男がお前を見ていた」


八月十五日の波音号でカグラが言った言葉だ。レイのことを指していたかどうか、ミヤはまだ確認していない。確認すればミヤとレイの間に新しい何かが入る。今夜はそれをまだ尋ねない。


ミヤはカップの中のコーヒーをゆっくり飲む。


---


夜が深まる。


星の位置が見えるほどに動いている。


ミヤはデッキに座る。レイも隣に座る。


ミヤはコーヒーカップを両手で握ったまましばらく沈黙する。


それから小さく言う。


「海星座号という漂泊団の母船があった」


レイは答えない。


「私の家族が乗っていた」


ミヤは続ける。


「十年前その船が海に沈んだ」


レイはまだ答えない。ただミヤの隣で星を見ている。


「私だけが生き残った」


ミヤは言う。


「カグラが、私を救助した。十九歳の私を漂泊団の波音号に連れていった」


ミヤはコーヒーを一口飲む。


「父は、観測員だった。母は漂泊団の歌い手だった。弟は七歳下だった」


ミヤの声は淡々としている。十年間、誰にも話したことのない出来事だ。タチバナにもクガにもフキにもカグラにもミヤは家族のことを詳しくは話していない。漂泊団の人々は知っているが口にしない。


しかし今夜ミヤはレイに話している。


理由はミヤ自身、明確には分からない。ただレイに話したかった、ということだけがある。


「事故の原因は分からなかった」


ミヤは続ける。


「機関の故障、と公式には記録された。しかし、現場の漂泊団の証言には別の話が混じっていた」


ミヤはカップを握る指の力が強くなるのを感じる。


「父は、何かを観測していたらしい。観測の記録がノートに残っている。最後のページは、白紙のまま終わっている」


ミヤはそこで言葉を切る。


レイは何も言わない。


しかし、ミヤはレイが聴いているのを感じる。共鳴感知ではない、もっと普通の意味で聴いている。


ミヤはコーヒーを飲み干す。


---


レイは聴いている。


ミヤの声、ミヤの呼吸、ミヤの指がカップを握る力がそれぞれレイの中で響いている。


しかし、それだけではなかった。


ミヤが語る出来事の場所──海上、燃える船、沈む船体がレイの中で像を結ぶ。レイはそれを知っている気がする。


具体的な記憶ではない。むしろ感覚に近い記憶だ。塩水の重さ、煙の匂い、火の熱がレイの中の遠い場所から断片的に浮かんでくる。


十年前、レイは何歳だったか。


十九か二十だ。


エンの消失の五年前になる。レイがまだエンと暮らしていた頃だ。


その頃のレイの記憶はほとんど断片しか残っていない。エンの消失の衝撃でそれより前の記憶の多くがレイの中で薄れていった。共鳴感知の能力がそうさせたのか、別の理由なのかはレイ自身分からない。


しかし今、ミヤの語りを聴きながら断片の一つがレイの中で蘇り始める。


潜航艇だ。


レイは十九か二十の頃、深海ステーションから潜航艇で海上に浮上していたことがある。何の任務だったかは思い出せない。誰の指示だったかも思い出せない。エンの指示だったのかもしれない。


潜航艇の窓から海上を見たことをレイは覚えている。


そこに何かがあった。


燃える船と沈みつつある船体と海面に広がる油と煙が潜航艇の窓越しに見えた。


そして、波音号らしい別の船が現場に近づいていた。


波音号の甲板に一人の少女が乗っていた。十代後半か、十九歳くらいに見える。誰かが少女を抱えている。年配の男──カグラだろう。


レイは潜航艇の窓越しにその少女を見ていた。


なぜ見ていたかは思い出せない。


しかし、見ていた。


その記憶が今、ミヤの語りと重なる。


ミヤが「私だけが生き残った」と言う。「カグラが私を救助した」と続ける。「十九歳の私を、漂泊団の波音号に連れていった」と語る。


それはレイが見ていた少女のことだ。


レイは何も言わない。


「もう一度、聴こえた」と、レイは内側で思う。


しかし、口には出さない。


ミヤがコーヒーを飲み干す音だけが夜の海に響く。


---


夜明け前になる。


空が薄く明るくなり始める。星が一つずつ消えていく。海面はまだ暗いが東の水平線に銀色の細い線が現れる。


ミヤとレイは並んで海を見ている。


ミヤがふと小さく訊く。


「お前は海星座号を知っているか」


レイは答えない。


長い沈黙が降りる。


潮の音とわずかな機関の唸りと二人の呼吸だけが夜の海にある。


ミヤは答えを待つ。しかし、答えを強要するつもりはない。観測員としてミヤは沈黙も一つの答えだと知っている。


時間が経つ。


水平線の銀色の線がわずかに広がる。


それからレイがようやく口を開く。


「俺は聴いた」


それだけだ。


それ以上は言わない。


ミヤも詳細を尋ねない。今夜は二人ともすべてを言葉にはしない。


しかし、二人の中で何かが繋がる。


ミヤがカップを置く。


レイがミヤの方を見ない。ミヤもレイの方を見ない。二人とも東の水平線を見ている。銀色の線がさらに広がっていく。最初の光が海面に届く。


レイは目を閉じる。


「もう一度、聴こえた」と、彼は言わなかった。


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