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論文の音

# 第18話 論文の音


九月五日の夜ミヤは海上都市〈シエラ〉の解放派集会場に潜入した。


集会場は旧文明遺跡の改造ビルの一階だ。三階建ての石造りで外壁には古いツタが絡んでいる。一階は公開図書館だが月二回の集会の夜は椅子を並べた集会場として使われる。


ミヤは観測員の作業着を脱いでシエラの一般市民が着る簡素な麻の服を羽織っている。観測ノートも持ってきていない。今夜は観測者としてではなく、観察者として潜入する必要があった。


集会の存在は八月十日にクロイス港の街路で拾ったビラで知った。レイから渡された情報網経由で集会の正確な場所と日付を確認した。


ミヤは入口で五百ロカの参加費を払う。受付の若い女が「初めて?」と訊いたがミヤは小さく頷くだけで通過する。受付の女もそれ以上は訊かない。解放派の集会は誰でも入れる仕組みになっている。


集会場の中は熱気がある。


五十人ほどの聴衆がすでに席に着いている。年齢層は若い。二十代から三十代前半が中心だ。皆、何かを書き込めるノートか紙片を手に持っている。研究者と活動家の混在らしい。


汗の匂いと煙草の匂いと印刷したばかりの紙のインクの匂いが混じる。集会場の壁の蛍光灯が低く唸っている。


ミヤは後方の席を選ぶ。観察に適した位置だ。


演壇の上には数人が座っている。


中央に座る痩せた男が代表のヤクモらしい。三十八歳になる。整った服を着ているが豪奢ではない。隣にもう一人、四十代の男が座っている。元管理庁の分析官ハラだ。


演壇の脇に若い女が立っている。二十八歳前後で整った身なりにメガネをかけている。アサだ。


ミヤはアサの姿をレイ経由の情報で覚えていた。段階解放派の傍系の若手研究者になる。


時刻は午後七時。集会が始まる。


---


ヤクモが立ち上がる。


聴衆の話し声が止む。


「皆さん」


ヤクモが演説を始める。声は冷静だ。論理的に組み立てられた声音になる。


「真実を知ることは権利だ」


「我々は、市民としてこの海洋世界で何が起きているかを知る権利を持っている」


「管理庁はデータを市民から隠している」


ヤクモの声には抑揚が少ない。しかし論理は鋭い。聴衆の中から紙にペンを走らせる音が聞こえる。


「沈黙海域の拡張は事実だ」


ヤクモは続ける。


「太平洋全域で観測員ネットワークが、その異常を確認している。漂泊団の観測員独立観測者、深海ステーションの研究員──皆同じ数字を見ている」


ミヤは自分のことを思い出す。自分の観測ノートにもその数字が並んでいる。タチバナ経由で旧文明の書物の「反復」を見た。クガ経由で「深淵核」の名前を聞いた。三つの入口、三つの観測、同じ現象を指している。


ヤクモの演説はミヤがこの数か月で辿ってきた経路を別の角度から照らしている。


「我々は変化を恐れない」


ヤクモは締めくくる。


「真実を求める。それだけだ」


拍手が起きる。しかし熱狂ではない。知的な共感の拍手だ。


ヤクモが座る。代わりにハラが立ち上がる。


「私は十二年間管理庁にいた」


ハラは静かに言う。


「内部の隠蔽構造をここで証言する」


ハラの言葉は短い。具体的な部門名、具体的な決定の日付、具体的な担当者の名前が並ぶ。聴衆はメモを取る。


ハラの証言は約十分続いた。最後にハラはこう締めくくった。


「管理庁はもう市民の側にはいない」


聴衆は静かに頷く。


---


ヤクモが司会を再開する。


「ここから質疑応答に入ります」


聴衆の中から一人の若者が立ち上がる。二十代前半に見える。痩せた顔と、目に強い光がある。


「段階的では遅い」


若者は言う。声は鋭い。


「沈黙海域は毎日、加速している。我々が議論している間にも、境界は広がり続けている」


ヤクモは穏やかに答える。


「段階的な公開は、市民の理解を損なわないために必要だ」


「市民の理解?」


若者は遮る。


「市民が、理解する前にすべてが終わるかもしれない」


集会場の中に小さな緊張が走る。聴衆の中から数人が頷く。


ヤクモは少し沈黙してから答える。


「君はメイサ派の方かな」


「そうだ」


若者は答える。


「メイサ様は、深層航路への侵入を計画している」


集会場が一瞬静まる。


ミヤはその瞬間を観察する。


ヤクモが眉をひそめる。ハラが小さく目を逸らす。アサが演壇の脇で手を握り直した。


メイサ派の計画が解放派内部の段階派にとっても寝耳に水だった、ということだ。若者がその計画を公に漏らしたことで解放派内部の対立が表面化した。


「その話はここではしないでくれ」


ヤクモは抑えた声で言う。


しかし、もう遅い。集会場の聴衆は計画の存在を知ってしまった。


若者は誇らしげに座る。


集会場の空気が変わる。知的な共感の場が派閥対立の現実化した場に変質する。


---


集会が終わる。


聴衆が散り始める。ミヤも立ち上がって、出口へ向かう。


しかし、出口の手前で誰かがミヤの肩に触れた。


「あなた漂泊団の観測員ですね」


低い声だ。ミヤが振り返るとアサが立っていた。


ミヤは身構える。


しかしアサの目には敵意がない。観察するような目だ。


「私はアサ。研究者です」


アサは名乗る。


ミヤは名前を返さない。代わりにアサを観察する。


アサは整った身なりだ。麻のシャツ、長い黒髪を後ろで束ねている。メガネ越しの目は知的だが何かを抑えているような揺らぎがある。


「あなたの服装は、シエラの市民のものですが足の置き方が違います。観測員は、波に揺れる船の上で立つ訓練を受けている。陸地でもわずかに重心が違う」


アサは言う。


ミヤは反応しない。観察を続ける。


「あなたのデータを見せてもらえませんか」


アサは言う。


「私のデータがなぜ?」


ミヤはようやく訊く。


「あなたは、私たちと同じ問いを見ているからです」


アサは答える。


ミヤはその答えを考える。アサの言葉は具体的な事実を含んでいない。しかし、ミヤがハリスの管理庁とオルタの読み師連を経てシエラまで来ていることをアサは知っているらしい。情報網を持っている。


「私は、観測員として観測を続けているだけです」


ミヤは答える。


「それが、ヤクモ代表とは違う立場ということですね」


アサは言う。


「私は解放派ではありません」


ミヤははっきりと言う。


アサはそれを聞いてわずかに目を細めた。


「だからこそ聞きたい」


アサは続ける。


「あなたは、段階的な公開を信じますか。それとも即時の公開を信じますか」


ミヤはその問いを考える。


アサの問いは解放派内部の派閥対立を外部の観測員に投げかける形になっている。アサ自身が段階派の傍系にいながらその立場に揺れているのが分かる。


「私は観測を続けます」


ミヤは答える。


「それが私の立場です」


---


ミヤはアサに別れを告げて、出口へ向かう。


集会場を出ると夜の街路に出る。


シエラは霧の都市ではない。空気は乾いていて、星が見える。しかし湿気は含まれている。海上都市特有の塩を含んだ風がミヤの頬に当たる。


ミヤは数歩進んだ。


その時、背後からアサの声が届いた。


「真実を、求めないのか?」


ミヤは振り返らない。


しかし、足は止まる。


アサの問いは八月にハリスの霧の中でクガが投げかけた問いと響き合う。「お前は何を見ている?」── クガの問い。「真実を、求めないのか?」── アサの問い。立場の違う二人が同じ方向からミヤに問いを投げている。


ミヤは振り返らずに答える。


「真実を、求める前に私は見落とすまいと思っています」


「見落とす?」


アサが訊き返す。


ミヤは答える。


「真実よりまず現象を」


ミヤは歩き始める。


アサの声はもう届かない。集会場の入口の前でアサは何も言わずにミヤの背中を見送っている。それは振り返らなくてもミヤには分かる。


夜の街路をミヤは歩く。


シエラの街灯はハリスのような白い光ではない。黄色みを帯びた低い光だ。街灯と街灯の間の暗がりが長い。ミヤの足音だけが響く。


ミヤは思う。


ヤクモの論理、ハラの証言、メイサ派の若者の急進性、アサの揺れ──それぞれがミヤが見てきた現象の別の側面を照らしている。


しかし、ミヤはまだ誰の側にも立たない。


観測員としてミヤは現象を見続ける。立場を選ぶのは現象がすべて見えてからだ。


アサの問いがミヤの中に残る。


「真実を、求めないのか?」


ミヤは港へ向かって歩き続けた。


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