沈黙の祈り
# 第17話 沈黙の祈り
八月二十五日の夕方レイは封印派修道院の裏口に近づいた。
ステーション下層の通路はいつものレイのルートとは違う。普段は密航ルートか、廃機械室周辺の岩盤の隙間を移動する。今夜は修道院の見習い用通用口を使う。情報収集のための侵入だ。
シエラ・ディープの封印派修道院は深層教団の本院になる。岩盤に掘られた半地下構造で四階層を持つ。公式登録は「歴史保存施設」だが実態は深層教団の中枢だ。
修道院の周りには警備の修道戦士が立っている。武力封印派の所属だ。靴底に金属の補強が入っていて、足音が硬い。レイの共鳴感知でも識別できる。
レイは正面を避けて裏手へ回る。裏手の通用口は見習いの修道士たちの出入り口だ。警備は緩い。レイは布で巻いた靴底で歩き、自分の足音を最小限に抑える。
通用口は半開きだった。中から薄い光が漏れている。蝋燭の光だ。
レイは扉の隙間に身を滑り込ませる。
修道院の中は外より暗い。地下の半地下構造で自然光は届かない。光源は蝋燭だけになる。一定の間隔で壁に設置されている。
蝋の匂いがする。それから香煙の匂い。修道院特有の匂いだ。レイは深く息を吸わずに浅い呼吸で進む。
廊下を進むと奥から詠唱が聞こえてきた。
夕方の儀式の時間だ。「沈黙の歌」と呼ばれる詠唱が一日三回行われる。今が二回目の時間に当たる。
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詠唱は低い。複数の声が重なってほとんど一つの音になっている。歌詞は古い封印派の儀式語で書かれている。レイには断片しか分からない。
「沈黙……眠れる者……」
そのフレーズだけが聴き取れる。
レイは廊下を進む。修道士たちは儀式空間に集中している。誰もレイの足音に気づかない。
詠唱の音がレイの中で奇妙に響き始める。
普段、レイは他人の声に共鳴感知を働かせない。意識的に抑えている。しかし詠唱の音はレイの聴覚を勝手に動かす。
詠唱の中に何かが入っている。
音そのものではない。音と音の間にある、別の何かだ。
レイは足を止めて壁に寄りかかる。
石壁は冷たい。地下の冷気が背中越しに伝わってくる。蝋燭の熱が顔の側にあって、二つの温度がレイの体を挟む。
詠唱の中身に意識を向ける。
歌の言葉の意味ではない。歌そのものの目的が伝わってくる。
これは鎮魂歌だ。
過去に消えた者たちへの追悼の歌になる。
レイの中で何かが繋がる。共鳴者──封印派が「目覚めの引き金」として恐れる者たち──の中に過去に消えた者がいる。彼らへの鎮魂がこの歌の本来の機能だ。
平和封印派は祈りで「目覚めを抑制」しようとしている。それが彼らの公式の説明だ。しかし、その祈りの中には別の意味も含まれている。彼らもまた過去の犠牲者を覚えているのだ。
レイはそれを理解する。
歌の解読は理屈ではない。共鳴感知でレイは歌の感情を直接受け取る。封印派の祈りの中に悲しみと諦観が共存している。
レイは壁から身を離す。
廊下の角を曲がる。
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角の向こうに人影が立っていた。
レイは身を硬くする。
しかし人影は警報を鳴らさない。動かずにレイを見ている。
古老の主祭ウチだ。
ウチは八十歳になる。皺の深い顔と白い髪、灰色の修道服が薄明かりに浮かぶ。手は皺が深く、指の節は曲がっている。しかし目は鋭い。
「お前かと思ったよ」
ウチは小さく言う。
レイは答えない。
「五年前から待っていた」
ウチは続ける。
「いつか来るとエンが言っていたから」
レイの呼吸が止まる。
エンの名前だ。
五年前のエンの消失以来、誰もエンの名前を口にする者はいなかった。レイは沈黙してきたし、深海ステーションの住人もエンを忘れていった。
しかし、ウチがその名前を口にした。
「五年前エンがお前を託していった」
ウチは静かに言う。
「ヌミの目を避けて」
ヌミは武力封印派の主祭だ。共鳴者狩りを主導している人物になる。
レイは黙ったままウチを見る。ウチも武器を持っていない。ただ立っているだけだ。
「エンはここに最後に来た」
ウチは言う。
「私と、ハオラ様にお前のことを託していった」
「託した」
レイはようやく声を出す。喉が乾いていて、声がかすれる。
「何を」
ウチは答えない。
代わりにレイをまっすぐに見る。皺の中の鋭い目がレイの何かを確認している。
「エンは生きているのですか」
レイは訊く。
ウチは目を伏せる。
「もう分からない」
ウチは小さく答える。
「最後に会ってから五年が経つ」
レイの中で何かが揺れる。エンの安否はレイがこの五年間、考え続けてきた問いだ。答えを持つ者がいるとすれば、最後にエンに会った者だ。ウチがその一人になる。
しかしウチも「分からない」と答える。
「ハオラ様に会いなさい」
ウチは言う。
「お前を待っていた」
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ウチがレイを修道院の最深部に案内する。
廊下は奥に進むほど狭くなる。蝋燭の数も減る。香煙の匂いはより濃くなる。
最深部に「沈黙の間」と呼ばれる儀式空間がある。その手前にハオラの間があった。
ウチが扉を開ける。
ハオラ大主祭が一人で蝋燭の前に座っていた。
灰色の衣を纏い、白い髪と深い諦観の目をしている。七十二歳になる。レイはハオラの顔を初めて見る。しかし顔に見覚えがあるような気がする。
「お前を覚えているよ」
ハオラが静かに言う。
レイの呼吸がもう一度止まる。
「子供の頃、エンがお前を抱いてここに来た」
ハオラは続ける。
「私はお前を覚えている」
レイの記憶の中にはハオラの顔はない。五年前のエンの消失以前のレイの記憶はほとんど断片しか残っていない。子供の頃のことは特に薄い。
しかしハオラの言葉には嘘がない。レイの共鳴感知がそれを伝える。
レイは何も言わない。
「お前は何を聴いているか」
ハオラが訊く。
「沈黙の歌」
レイは答える。
「鎮魂歌だと聴き取りました」
ハオラがゆっくり頷く。
「その通りだ」
ハオラは目を細める。
「お前は聴く側の者だ。エンが、託したのはその能力の意味を、お前自身が見つけることだ」
「能力の意味」
レイは繰り返す。
ハオラは答えない。代わりに別のことを言う。
「ヌミの派閥は、お前を処分しようとしている」
レイは身構える。しかし驚きはない。武力封印派の追跡はレイの日常になっている。
「私はそれを止めようとしてきた」
ハオラは続ける。
「しかしもう止められない」
「いつから」
レイは訊く。
「お前ともう一人の女が近づいてから」
ハオラはレイの目を見る。
「ヌミは両方を狙うだろう」
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レイの中でミヤの顔が浮かぶ。
観測者のミヤだ。あの夜シエラ・ディープの放棄区画で出会った女になる。
「沈黙を、汚すな」
ハオラが静かに言う。
「お前たちが、深淵核に触れるなら私はお前たちを止めなければならない」
ハオラは目を伏せる。
「しかしヌミとは違う方法で」
レイはハオラの「違う方法」の意味を考える。武力ではない方法らしい。平和封印派の信条に基づく方法だ。それが何かはまだ分からない。
「ハオラ様、エンは何を私に託したのですか」
レイは訊く。
ハオラは答えない。
代わりにレイをまっすぐに見る。
その目の奥に何かを言おうとして、最終的に飲み込んだ気配があった。
「お前が自分で見つけなさい」
ハオラは静かに言う。
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。
硬い足音が床を踏む。靴底に金属の補強が入っている。修道戦士の足音だ。
ホグ修道戦士隊長になる。三十八歳。武力封印派の追跡実行責任者だ。
ウチがレイの肩に手を置く。皺の深い手の感触が布越しに伝わる。
「裏口から出なさい」
ウチは小声で言う。
レイは頷く。
ハオラの方を一度見る。ハオラはもう蝋燭を見ている。レイのことはもう見ていない。
レイはハオラの間を出る。
ウチが先に立って、別の通路に案内する。修道院の裏手に通じる秘密の通路だ。見習いの修道士たちも知らない通路らしい。
通路は狭い。レイの肩が両側の石壁に触れそうになる。蝋燭はない。完全な暗闇だ。ウチが先を歩く。皺の深い手で壁を辿りながら進む。
しばらく進むと通路の終わりに小さな扉が現れた。
ウチが扉を開ける。
外は深海ステーションの下層の通路だ。レイがいつも使う、廃機械室周辺の通路に通じている。
「もうここに来てはいけない」
ウチは静かに言う。
「次に来る時は、ハオラ様も私ももうお前を守れない」
レイは頷く。
ウチが扉を閉める。
レイは通路を歩き始める。
修道院の方からまだ詠唱が聞こえてくる。低い、長い、複数の声が重なった音だ。
ハオラの言葉がレイの中で響く。
「沈黙を、汚すな」
詠唱は続いていた。




