歌の意味
# 第16話 歌の意味
八月十五日の夜ミヤは〈シズク〉で波音号に接舷した。
ハリスを出てから十日が経つ。途中で漂泊団の小型船と連絡を取り、波音号の現在位置を確認した。波音号は太平洋中部の集合地点に停泊している。漂泊団の月例の小集会のためだ。
波音号は漂泊団の母船の一つだ。ミヤがカグラの庇護下で育った船でもある。
夜の海が広がる。火の光が海面に映って銀色に揺れる。〈シズク〉の船首が波音号の側面に近づくとその銀色がミヤの視界の端を流れる。
ミヤはロープを投げる。
波音号の甲板から誰かがロープを受け取り、巻き付ける。漂泊団の標準的な接舷手順だ。十年間、何度繰り返してきたか分からない動作になる。
波音号は前回ミヤが訪れた時と変わらない。漂泊団の母船はあえて変えない。塩で擦れた塗装、所々の補修跡、舷側に並ぶロープの結び目──すべてが同じ位置にある。漂泊団の船は住まう者の記憶の連続性を保つように作られている。
ミヤは〈シズク〉から波音号の甲板に飛び移る。
甲板にはカグラが立っていた。
春集から約四ヶ月。カグラは少し痩せたかもしれない。しかし、左目の革帯は同じものだ。右目はまっすぐミヤを見ている。
カグラは何も言わない。
ミヤに近づき、両腕で抱き寄せる。
カグラの腕は強い。塩で擦れた皮膚の感触がミヤの肩に伝わる。ミヤは抱きしめられている時間、何も考えない。考えなくていい時間が漂泊団の中にはまだある。
カグラが腕を緩める。
「来たなお前さん」
カグラは右目でミヤを見る。
ミヤはわずかに頷く。
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カグラはミヤを甲板の中央の輪に連れて行く。
甲板の中央には火が焚かれている。漂泊団の月例集会の火だ。漂泊団の数十人が火を囲んで座っている。子供、若い船乗り、年長者──すべての世代がいる。
ミヤがカグラの隣に座ると他の漂泊団がミヤに小さく頷く。声をかけてくる者はいない。漂泊団のやり方だ。久しぶりに帰ってきた者にはまず空気に慣れさせる時間を与える。
火の傍に年配の女性が座っている。
ホナだ。七十一歳。漂泊団の年長者の一人で歌の伝承者だ。ミヤは名前を知っているが直接話したことは少ない。ホナは普段別の船にいる。
ホナがゆっくり歌い始める。
声は低く、ためらいなく音を伸ばす。漂泊団の歌い方だ。装飾を加えず、ただ旋律と言葉だけを置いていく。
旋律は古い。漂泊団の言葉で歌われている。ミヤは漂泊団の言葉を子供の頃から聞いてきたがホナの歌の言葉は古い形のものでミヤには断片的にしか分からない。
「沈黙の海……眠れる者……」
そのフレーズだけがミヤにも分かる。古い言葉でもこの二つの単語は今の漂泊団語にも残っている。
「眠れる者」── 何のことか。
ミヤはこの歌を子供の頃から聴いていた。波音号で育った頃、毎月のように耳にしていた。しかし、意味を考えたのは初めてだ。
子供の頃のミヤはただ旋律を聴いていた。歌の言葉が古いこともその言葉の意味も考えに浮かばない。漂泊団の歌はそういうものだった。
しかし今、ミヤは聴き方が違う。
ホナは続けて歌う。何度も「沈黙の海」と「眠れる者」が繰り返される。同じフレーズがわずかに違う旋律で繰り返される。
ミヤは隣のカグラを見る。
カグラは火を見ている。右目に火の光が映って、赤く見える。カグラは歌の言葉を理解しているのかもしれない。
ホナが歌い終わる。
漂泊団の人々は短く頷くだけで拍手はしない。漂泊団の歌に拍手はない。歌が終わったら、しばらく沈黙が続く。それが習慣だ。
火が爆ぜる音だけが夜の海に響く。
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しばらくして、人々は火を囲む輪から少しずつ離れ始める。それぞれの船に戻る者もいれば、甲板で別の話を始める者もいる。漂泊団の集会はいつもこういう緩やかな終わり方をする。
カグラがミヤに小声で言う。
「ちょっと来な」
ミヤはカグラについて、甲板の端に向かう。
波音号の甲板の端は海に向かって突き出している。手すりに寄りかかると海風が顔に当たる。塩を含んだ風だ。
カグラとミヤは並んで立つ。
二人とも水平線を見ている。夜の海は暗いが月が出ている。月の光が海面に細い線を引いている。
カグラの右目がその細い線を辿っている。
ミヤは少し待ってから訊く。
「あの歌は何を歌っているのですか」
カグラは答えない。しばらく沈黙が続く。
それから低く言う。
「お前はもう知っているはずだ」
ミヤは答えない。
漂泊団の歌の「眠れる者」が何を指すか、ミヤは知らない。しかし、自分の観測とタチバナの言葉とクガが告げた言葉を繋ぐとおぼろげに見える。
「眠れる者」── 太平洋最深部に眠っていて、目覚めはじめている何か。
ミヤは答えを言葉にしない。カグラも答えを求めない。
カグラはしばらく海を見続けてから続ける。
「漂泊団は忘れない種族だ」
カグラは言う。
「海の上で、何が起きたか私たちは覚えている」
漂泊団には文字がない。記録は歌と口承だけだ。ミヤは子供の頃から漂泊団の年長者たちが何度も同じ話を繰り返すのを聞いてきた。当時は退屈に感じた繰り返しが今になって意味を持つ。忘れないとは毎月の集会で語り継ぐことだ。
「歌の中には、私たちが見てきたものが入っている」
カグラは続ける。
「お前の祖父も、その祖父も、海の上で何かを見た。それが歌の言葉になってホナまで伝わってきた」
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カグラがミヤを直接見る。右目だけで。
「お前の父は何かを観測していた」
カグラは言う。
ミヤは父のノートを思い出す。タチバナに見せたあのノートに「加速」という言葉が最後のページに残っている。父は何かを観測していた、しかし途中で記述が途切れている。
父が何を観測していたか、ミヤは長い間考えなかった。父の死後、母と弟と暮らしていた頃のミヤは父を死者としてそれ以上は問わない者として扱っていた。今になって、父の観測の続きが自分の観測と繋がりはじめている。
カグラはミヤの記憶を読んでいるかのように続ける。
「私たちは何が起きたかすべては知らない」
カグラは火の方を一瞬振り返りまた海に視線を戻す。
「しかしその日別の船も近くにいた」
ミヤの呼吸がわずかに止まる。
「別の船?」
ミヤは訊く。
カグラは頷く。
「深海ステーションから潜航艇が浮上していた」
ミヤは聞いていなかった。十年前の事故の現場に別の船がいた、ということ。
「乗っていた者は一人」
カグラは続ける。
「若い男だった」
ミヤの中で何かが動く。
十年前のミヤは十九歳だった。事故の場で母の手を握っていた頃、別の船がそこにいたとはミヤは聞いていなかった。
「若い男」── 二十前後の男が潜航艇で浮上していた。深海ステーションから。
ミヤの中で別の顔が浮かぶ。今、レイは二十九歳。十年前なら十九歳。
しかし、それを口にする根拠はない。
ミヤは口を開きかけて、閉じる。
カグラはミヤの動作を見ている。
「あの男がお前を見ていた」
カグラは静かに言う。
ミヤの呼吸がもう一度止まる。
「見ていた」── ただ見ていたのではない。カグラの言葉の選び方には重みがある。「見ていた」は「観測していた」とも近い。継続的に意識を向けて、見ていた、ということだ。
ミヤは黙ったままでいる。カグラに何を訊いてもそれ以上はカグラから出てこないことをミヤは知っている。漂泊団のやり方だ。
しかし、ミヤの中で十年前の事故の場面が別の形を取り始める。母の手、弟の声、父の背中、警告灯の点滅──そこにもう一つ、海面の少し離れた場所から見ていた誰かの視線が加わる。
十年間、ミヤは事故の場面を何度も夢で見てきた。家族の動作、機関室の暗さ、塩水の味──繰り返し再生されてきた記憶はいつも同じ構成だ。しかし今、その構成に新しい要素が一つ追加される。海面の少し離れた場所、潜航艇の上、誰かが見ていた、という要素が。
それが事実なら、ミヤの夢は今後また少し変わるかもしれない。ミヤは夢の中でその視線を探すようになるだろう。
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ミヤはようやく口を開く。
「カグラ様もっと教えてください」
カグラの右目がミヤを見る。
「私が知っていることをすべて言うのは、まだ早い」
カグラは言う。
「お前が自分で辿り着く時間が必要だ」
ミヤは黙る。
漂泊団のやり方だ。情報は分割されて伝えられる。受け手が辿り着く準備ができた時に次の分割が開かれる。今、カグラはこれ以上を開かない。
長い沈黙が降りる。
火の方からはもう歌は聞こえない。漂泊団の人々の話し声も低い。夜の海の音と月の光だけがミヤとカグラを包んでいる。
カグラがミヤの肩に手を置く。手は塩で擦れて硬く、しかし温かい。
「お前はもう一人を見つけたか?」
カグラは訊く。
ミヤは頷く。
カグラは目を細める。
「ならば近づいている」
カグラは言う。
何にか、カグラは言わない。
ミヤは訊かない。
漂泊団の言葉では「近づいている」だけで十分だ。具体的に何にか、いずれは分かる。今はカグラの判断を受け入れる。ミヤが自分で辿り着けるなら、それで足りる。
カグラが手を肩から下ろす。
「もう寝な。明日の朝にまた話す」
カグラは言う。
ミヤは頷く。明日もカグラがすべてを語るわけではないことをミヤは分かっている。漂泊団の年長者は一度に多くを開かない。少しずつ、ミヤの理解の歩幅に合わせて開く。それが愛情の形でもある。
しかし、ミヤは寝床に戻る前にもう一度カグラを見る。
カグラはもう海を見ていない。月の光が当たる海面ではなく、もっと暗い方向を見ている。
「待て」
カグラは小さく言う。誰に向けた言葉か、ミヤには分からない。自分にか、ミヤにか、別の誰かにか。
夜の海は暗い。月の光は今、雲に隠れかけている。
火の方を見るともう人影は少ない。漂泊団のほとんどが自分の船に戻った。残っているのは年長者の数人と火の番をする若い船乗りだけだ。
ミヤは寝床に向かおうとする。しかし足が動かない。カグラの「待て」の音がまだミヤの中に残っている。
カグラは片方の目を海に向けた。




