シナの跡
十月五日の朝ミヤとレイは〈シズク〉でシエラ・ディープの上空海域を出発した。
行き先はタチバナから渡されたシナの観測地点リストの最初の一つだ。太平洋南東部の無人化された浮島、リストには「観測小屋・四十年前最終使用」と書かれている。
タチバナは九月末に二人をオルタへ呼びシナのノートの座標情報を抜き出した一覧を渡してくれた。タチバナ自身は四十年前のシナの活動の全体像を一度も整理した者がいないと言う。整理する者がいなかったから、シナが何を見ていたかもなぜ消えたかも、誰も辿らずに済んでいた。
ミヤは舵を握りレイは観測デッキで海を見ている。
レイは今回、助手として同行する立場だ。観測員ではないがミヤの能力が機器に触れて発動するときに共鳴感知でその発動を支える役割を持つ。あの覚醒の時レイの存在がミヤの体熱の暴走を抑える方向に働いた。タチバナはそれを「対の機能」と呼んだ。
最初の拠点は出発から二日かかった。
十月七日の午後〈シズク〉が無人化された浮島に接岸する。
浮島は南太平洋の僻地にある。漂泊団の航路からも外れていて、十年以上誰も訪れていない場所だ。観測小屋は浮島の中央にぽつんと建っている。木造の建物で塩で覆われた窓と錆びた扉が外から見える。
ミヤが扉を押す。鍵はかかっていなかった。
中は薄暗い。四十年前にシナが使った観測機器が机の上にそのまま残っている。誰も片付けに来なかった場所だ。
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ミヤは机に近づく。
機器は古いしかし形は分かる。沈黙海域の境界座標を測る装置だ。ミヤが〈シズク〉で使っているものと基本的な構造は変わらない。四十年で観測機器の設計はほとんど変わっていないらしい。
レイは扉の近くに立つ。観測者としてミヤの動きを見守る位置を取る。先月のシエラ・ディープの観測室と同じ配置だ。
ミヤが機器に触れる。
頭の中で響きが起きる。シエラ・ディープでの覚醒の時と似た感触だ。しかし今回は弱い。シナがこの機器を使った頻度や時間が放棄区画の機器より少なかったのかもしれない。
視界の端にシナの後ろ姿が短く浮かぶ。
机に向かってノートに何かを書いている。前傾姿勢、観測者特有の。シナはここで一日、または数日、観測を続けたらしい。書く動作が機器の操作と交互に行われている。
ミヤは指を離さない。
シナの後ろ姿がもう少し見える。シナがふと顔を上げて、窓の外を見る。窓の外は十月の南太平洋の海だ。四十年前も同じ海だったらしい。
ミヤは指を離す。
視界の中のシナが消える。
ミヤは机の隅に置かれた小さな冊子に気づく。シナの観測ノートの断片だ。革表紙は薄く、紙は変色している。
ミヤがそれを開く。
最初のページに座標と日付が並んでいる。四十年前の春、つまり西暦2979年の三月から始まっている。シナの字は几帳面で読みやすい。
「沈黙の境界がわずかに加速している」
シナはそう書いていた。
ミヤの脈拍がわずかに上がる。
それはミヤ自身がこの一年間、観測ノートに書き続けてきたのと同じ言葉だ。四十年前にも同じ現象が起きていた。
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十月九日、〈シズク〉は北太平洋の廃船にたどり着く。
廃船は二日かけて移動した距離にある。シナの観測地点リストの二つ目に書かれていた場所だ。リストには「廃船・カイホウ号・最終航行は四十年前」とある。
カイホウ号は太平洋文明の初期に建造された貨物船で機関の故障で四十年前に放棄された船らしい。シナはこの船を中継地点として使っていた。
〈シズク〉を廃船に係留してミヤとレイが船内に入る。
廃船の中は静かだ。鉄の壁が塩で錆びている。階段を降りて機関室へ向かう。シナが滞在した痕跡があるとリストに書かれている。
機関室の中に別の観測機器が置いてある。
ミヤが機器に近づく。
機器の側面に小さな金属のラベルが貼ってある。「S」と一文字。
ミヤは「S」を見つめる。
シエラ・ディープの放棄区画の機器と同じラベルだ。シナが自分の使う機器に統一して貼っていたものなのかもしれない。
ミヤが触れる。
頭の中の響きが今回はもう少し強い。シナがこの機器を頻繁に使った場所らしい。
視界の中にシナが現れる。
今回は後ろ姿だけではない。シナが急ぎ足で機器の前を動いている。つまみを回し、別の機器を確認しノートに数字を書き込みまた戻って機器を調整する。連続した動線としてシナの行動が見える。
ミヤは触れ続ける。
シナが何かを追いかけている。沈黙海域の境界の加速度をリアルタイムで測ろうとしている動きだ。四十年前、シナはこの廃船を観測拠点にして、加速の瞬間を捉えようとしていた。
レイが扉の近くで小さく息を呑む。
ミヤは振り向かない。指は機器に触れたままだ。
レイの共鳴感知がシナの背後にいたカゲの感情を聴いている。カゲはシナと共に廃船にいたらしい。シナが観測する間、カゲは「聴く」役割で対をなしていた。
「もう一度確かめなければ」
シナの声がミヤの中に響く。あの時聴いたのと同じ言葉だ。シナはこの言葉を観測の現場で何度も自分に言い聞かせていたらしい。
ミヤが指を離す。
シナの動きが消える。
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十月十日、〈シズク〉は中央太平洋の無人島に向かう。
リストの三つ目の地点だ。「無人島・最終訪問は四十年前夏」と書かれている。
二日かけて移動する間、ミヤは自分の能力の変化を観察している。
シエラ・ディープで「シナ」の名前を発したときは機器に触れた一瞬の覚醒だった。手だけ、それから顔と続いた。今、廃船で経験したのはシナの連続した動線そのものだ。能力は単独の場面から動きの再構成へ広がっている。
レイも並行して変化している。
レイは口にしないが共鳴感知が以前よりも遠くまで届くようになっている。廃船でカゲの感情を聴き取ったのがその兆候だ。先月までのレイは目の前の人物の感情しか聴かなかった。今は過去にその場所にいた人物の感情までも届く。
二人の能力がシナとカゲの行動を再構成しはじめている。
ミヤは舵を握りながらレイの方を見る。レイは観測デッキで海を見ている。海風で髪が後ろに流れている。
「無理はするな」
ミヤは小さく言う。
レイは振り返らずに頷く。
レイの共鳴感知はミヤの能力以上に身体的な負担を伴うらしい。あの覚醒の時もレイの方が顔色が悪かった。能力が強くなれば、負担も強くなる。
ミヤはそれを観測員として認識している。しかし止めることはしない。シナの痕跡を辿る以外に深淵核に近づく方法を二人は持っていない。
無人島に到着したのは十月十二日の朝だった。
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無人島は小さい。
南北二百メートルほどの楕円形で岩肌が露出している。中央にわずかな草地、その奥に小屋がある。シナがリストの最終地点として記録した場所だ。
ミヤとレイが上陸する。
小屋は他の拠点より小さい。観測機器は一台だけ、机に置かれている。シナが最後にここで何かを書いていたらしい、机の上にノートが開かれたまま残っている。
ミヤが机に近づく。
ノートはシナの観測ノートの最後の一冊らしい。これまでの拠点で見たノートの続きだ。日付は西暦2982年の春まで続いている。シナが消失した数か月前までの記録だ。
ミヤがページをめくる。
最後の数ページにシナが書き続けた座標が並んでいる。沈黙海域の境界の加速の方向と加速の予測値と加速が向かっている先の地点が記されている。
シナはその地点を「深淵核の方角」と書いている。
座標は具体的だ。緯度と経度、深度の予測値まで書かれている。四十年前、シナとカゲはその座標に向かおうとしていたらしい。
ミヤがページをめくる。
次のページは白紙だ。
その次のページも白紙のまま続く。
シナのノートはそこで終わっている。深淵核の方角を示す座標を書いた直後にノートは途切れている。シナとカゲはこの小屋を出てその座標に向かいそして帰ってこなかった。
ミヤは白紙のページを見続ける。
レイが扉の近くから小さく言う。
「同じだ」
ミヤは振り返る。
レイが目を細めている。共鳴感知で何かを聴き取った顔だ。
「父のノートと同じだ」
レイが続ける。
ミヤは頷く。
父のノートも最後の数ページが白紙のまま終わっていた。海星座号事故の数日前まで書き続けていてその後は途切れている。父もシナと同じように何かを追って、追いつかずに消えた。
ミヤはシナの最後のページの座標を自分の観測ノートに書き写す。緯度、経度、深度。レイも横で見ている。
ミヤはペンを置く。
机の上のシナのノートを両手で閉じる。
「彼女も、見ていた」
ミヤは小さく言う。
レイは何も言わずにミヤの肩に手を置く。
無人島の窓の外、太平洋の十月の海が静かに広がっている。シナが四十年前に見ていた海と今ミヤが見ている海は同じ海だ。




