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市の喧騒

七月十五日の午後ミヤは〈シズク〉でクロイス港に入港した。


クロイスは南太平洋の海上都市だ。漂泊団の交易地で五つの主要海上都市の中でも漂泊団の出入りが最も多い。ミヤにとっては馴染みの場所だ。


桟橋に着くとミヤは〈シズク〉を係留する。ロープを杭に巻き、引き締める。漂泊団の標準的な結び方でほどけない。


桟橋に上がる。


人の流れがすぐにミヤを包む。商人や漁師、漂泊団の連絡員、観光客、それから判別のつかない者たちが桟橋を行き交う。クロイスの桟橋は海上都市の中で最も雑多な場所だ。


ミヤは目立たないように歩く。観測員の作業着の上に漂泊団の濃い色の上着を羽織っている。観測員の身分証は上着の内ポケットにある。


桟橋の中ほどでミヤは一人の男に近づいた。


レイだ。


レイは桟橋の手すりに寄りかかって海を見ている。布で巻いた靴底をはき、灰色の服を着て、黒い髪を後ろで束ねている。ミヤがクロイスへ来る前に漂泊団の連絡網を通じて伝えた合図にレイは応えてくれた。


ミヤがレイの隣に立つ。


レイは振り向きわずかに頷く。


「来た」


ミヤは短く言う。


レイは何も言わずに桟橋から市場の方を見る。


これまでミヤがクロイスに来る時は補給か漂泊団の年長者への報告のためだった。観測員として一人で動く時間の中の短い接続点だ。


今回は違う。レイと並んで歩いている。観測員として一人ではない初めての場面だ。市場の人混みもミヤには違って見える。


二人は並んで歩き始める。


桟橋からクロイスの市場へ向かう。


---


市場は港のすぐ奥に広がっている。屋根のある半屋外空間で香辛料と魚と塩と煙、人々の汗の匂いが混じり合う。


ミヤとレイは人混みに紛れて歩く。


ミヤは観測員の歩き方をいつもより少し崩している。重心を変え、肩を丸め、市民の中に溶け込もうとする。レイの歩き方はミヤより自然に人混みに馴染んでいる。布で巻いた靴底が市場の硬い床に音を立てない。


二人は屋台が並ぶ通りの中ほどで漂泊団系の屋台に立ち寄る。


屋台主は四十代の男だ。日に焼けた顔をしていて、手は塩で擦れている。屋台には塩漬けの魚と海藻の汁が並んでいる。漂泊団の食材だ。


ミヤは塩漬けの魚を二切れ、海藻の汁を二杯注文する。


屋台主はミヤを一目見てそれからミヤの後ろのレイを見て、視線を戻す。


「カグラの子か」


屋台主が小声で言う。


ミヤは頷く。


漂泊団の中ではカグラの庇護下にいる者は誰にでも識別される。屋台主はミヤを知っているわけではない。しかし、ミヤの動作と漂泊団の上着で察した。


屋台主は注文の品を出す。ミヤは代金を払う。


ミヤとレイは屋台の脇に立って、食べ始める。


塩漬けの魚は普段より塩気が強い。屋台主は塩を多めに使う癖があるらしい。海藻の汁は薄く、しかし渋みがある。クロイスの海藻の味だ。


ミヤが二口目を飲み終えた時、屋台主が小声で続けた。


「管理庁の動きが妙だ」


屋台主は誰の方も見ていない。ただ屋台の前を見ている。しかし、ミヤに向けた言葉だ。


「警備員の数が増えている。制服も私服も」


屋台主は続ける。


「ハリスから来た者が最近増えている」


ミヤは答えない。屋台主も答えを期待していない。情報を伝えるだけだ。


「気をつけろ」


屋台主は最後にそう言う。


ミヤは頷く。


レイは黙って汁を飲んでいる。屋台主はレイを直接見ていない。しかし、レイの存在を認識している。それも漂泊団のやり方だ。


屋台主の言葉はミヤの中に残る。ハリスから来た者、増えている警備員、いずれもミヤがハリスで聞いた断片と方向が一致している。漂泊団系の屋台主が察知した動きと観測員ネットワークが察知した動きが同じ何かを指している。


ミヤは塩漬けの魚を食べ終え、海藻の汁の残りを飲み干す。屋台主に小さく会釈をする。屋台主も短く頷き返す。それ以上の挨拶はない。漂泊団のやり方だ。


---


ミヤとレイは屋台を離れる。


市場の中央通りを歩きながらミヤは観測員の目で周囲を見る。


人々の数、動き、声の大きさ。クロイスの市場は普段から賑やかだが今日は少し違う。声の調子がいつもより硬い。


ミヤは柱の一つを通り過ぎる時、紙が貼ってあるのに気づく。


ビラだ。


ミヤは立ち止まりビラを見る。


「真実を知る権利を。沈黙は支配の道具だ」


黒い活字で整った字だ。下に小さく告知が書いてある。


「シエラ集会、八月初旬。沈黙海域の真実を市民に開く」


ミヤはビラを読む。解放派のスローガンだ。シエラは中部太平洋の海上都市で解放派の本拠地になっている。


ビラの紙質はクロイス産ではない。漂泊団系の紙とも違う。整った印刷、薄い質感、海上都市〈シエラ〉から運ばれてきた紙だろう。解放派がクロイスの市場までビラを送り込んでいるという事実が紙質一つから読み取れる。


レイがミヤの隣に立つ。レイもビラを見る。しかし、長く見ない。すぐに視線を逸らす。


ミヤは周囲を見る。


ビラの近くに若い男が立っている。二十代前半で整った服装をしている。手に紙を抱えている。パンフレットだ。


若い男は通行人にパンフレットを配っている。「ご一読を」と短く声をかけている。


ミヤが若い男を見ていると若い男の視線がミヤに向いた。


一瞬若い男の目が止まる。


ミヤを認識した。あるいは認識しようとした。


若い男はすぐに視線を逸らす。しかし、その一瞬の停止に何かがある。


ミヤはレイを見る。レイも気づいている。


ミヤは若い男のパンフレットを受け取らない。レイも受け取らない。二人は若い男の前をただの通行人として通り過ぎる。


若い男はそれ以上ミヤを呼び止めない。しかし、ミヤが視界から外れた後も若い男の意識がミヤに残っているのがミヤには分かる。観測員として、自分が観られている感覚はミヤは知っている。


二人は若い男から離れて、市場の奥へ進む。


---


市場の奥に進むと人通りが少しずつ減る。


香辛料の匂いも薄れ、海藻と塩の匂いだけが残る。屋台も少なくなる。


ミヤとレイが市場の奥の角を曲がろうとした時レイがミヤの肩に手を置いた。


「待て」


レイは小声で言う。


ミヤは止まる。


レイは別の方向を見ている。ミヤもその方向を見る。


二人の灰色の衣の人物が市場の奥の角に立っている。詠唱はしていない。動かない。ただ立って、市場を見ている。


灰色の衣は腰のあたりで紐で締められていて、深海ステーション下層の修道院の経年を思わせる古さがある。顔は浅黒く、しかし無表情だ。手は組まれていない。腰の脇にだらりと垂れている。


「修道戦士だ」


レイはさらに小声で言う。


ミヤは修道戦士を見たことがない。深海教団についてはタチバナの書庫の片隅で見た一節だけが知識だった。しかし、灰色の衣と動かない姿勢が何かを示している。海上の人混みの中に明らかに別の論理を持って立っている。


「封印派の」


レイは続ける。


「武力派の」


ミヤは黙る。


「俺を捜している」


レイは言う。


「五年前から?」


ミヤは訊く。


「もっと前からかもしれない」


レイは答える。


レイはミヤの肩から手を離す。


「別の出口を使う」


レイは市場の別の通路を指す。ミヤは頷く。


二人は元の通りには戻らず、迂回路を取る。


迂回路は狭い。商人の倉庫の脇を抜ける小道だ。クロイスの市場の構造を知っている者でなければ、見つけられない。


レイはこの構造を知っているらしい。


「クロイスは初めてではないのか」


ミヤは小声で訊く。


レイは前を見たまま答える。


「何度か来た」


それだけだ。


ミヤはレイがどうやってクロイスの市場の構造を覚えたのか、訊かない。共鳴感知の能力で察したのか、過去の経験か、誰かに教わったのか。今は訊く時ではない。


二人は迂回路を抜ける。


市場の別の入口に出る。修道戦士の視界からは外れている。


レイがミヤを振り返る。


「お前は追われていない」


レイは言う。


「俺と別々にここを離れた方がいい」


ミヤは黙ってレイの目を見る。


レイの目はいつもより硬い。修道戦士を見た時の警戒がまだ残っている。


ミヤは頷くしかない。レイの判断は妥当だ。封印派の武力派がレイを捜しているなら、ミヤと一緒にいることはレイを危険にする。ミヤがレイを危険にしたくない、と思っている自分にミヤは気づく。


ミヤは「次に会う場所を」と訊きかけて、訊かない。


レイは何かを言いかけて、言わない。


二人は別々の方向に動き始める。


---


ミヤは頷く。


二人は別々の桟橋に向かう前にミヤは最後にもう一度人混みを見る。


観測員の目で見ると人々の流れの中にいくつかの「異質な流れ」がある。


漂泊団系の人々は塩で擦れた手、海風で焼けた皮膚、流れに乗る歩き方をしている。これがミヤの知っている流れだ。


しかしその中に別の流れがある。


入口近くに目立たない服装の男が二人立っている。整った姿勢で靴は磨かれている。視線が市場の中を流れている。管理庁の非制服警備員らしい。屋台主が言っていた通り、数が増えている。


別の角に若い男女が三人いる。整った身なりで何かを話している。手にはパンフレットを持っている。解放派の活動家だ。


奥の角の灰色の衣の修道戦士はまだそこにいる。視線は固定されていない。市場の流れを全体として観察している。


そして、漂泊団系の何人かがミヤを見ている。中年の女、年配の漁師、若い船乗り。それぞれが別の場所に立っているがミヤを視界に入れている。カグラの庇護下にいる者として、保護的な視線だ。漂泊団は他者を直接守ろうとはしないが見ていてくれる者は確かにいる。


ミヤは自分が「観られている」のを観測員として感じる。複数の方向からそれぞれ違う意図で見られている感覚は海上では普段あまり経験しない。


漂泊団、管理庁、解放派、封印派──五勢力のうち四つがここにいる。読み師連は政治力ゼロでこの場には来ない。しかし他の勢力すべてが市場の中に何かを見に来ている。


ミヤとレイがその中に紛れていたことに誰がどれだけ気づいているか、ミヤには分からない。


しかし、二人の存在は市場の流れの中に確かに痕跡を残した。観測員として、痕跡が残ったことは認めなければならない。タチバナが残した「これを見なさい」の書物の三角形四つの印に近づいた者としてミヤは今、複数の勢力の関心の対象になりつつある。


それは新しい状況だ。ミヤは十年間、観測員として誰の関心の対象にもならずに動いてきた。データを出して、処理されてそれで終わりだった。


しかし今、データを出すだけでは終わらない。


ミヤはレイの方を見ない。レイもミヤの方を見ない。


二人は別々の桟橋に向かって離れていく。


人混みが二人の間を埋めていく。

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