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凍る数値

七月三日の朝ミヤは〈シズク〉に戻った。


ハリス経由で深層航路の地上便を乗り継ぎ漂泊団の補給船に同乗してここまで来た。〈シエラ・ディープ〉を出てから二日かかった。


ミヤは桟橋から〈シズク〉の甲板に飛び移る。鞄を肩にかけ、観測ノートを胸に抱えている。


〈シズク〉は補給船に係留されたままだ。ミヤが一週間離れていた間、漂泊団の同業観測員が艇を見ていてくれた。係留の結び目に異常はない。機関の音も普通だ。


ミヤは観測デッキに上がる。


塩で曇った窓ガラスの向こうに太平洋の朝が広がっている。風は穏やかで波は低い。


ミヤは深く息を吸う。


久しぶりの海の塩の匂いだ。〈シエラ・ディープ〉の閉鎖空間の与圧空気とは違う、塩と油と魚の混じった匂いがする。これがミヤの場所の匂いだ。


しかし、何かが変わっている。


ミヤは自分の中の何かが戻ってこないのを感じる。〈シエラ・ディープ〉で見たもの、レイと過ごした夜──それらが艇の中に持ち込まれている。


身体はここにある。観測艇〈シズク〉と、太平洋の朝と機関の唸り──これまで十年、ミヤの場所はこの組み合わせで定義されてきた。しかし今日はその定義が少しだけ変質している。


ミヤは観測機器の点検から始める。


ソナーや潮流計、気圧計、無線機、深度計など、一週間離れていた機器を一つ一つ確認していく。すべて正常だ。


機関室にも降りる。燃料の残量、潤滑油の状態、配管の漏れの有無を確認する。これも問題はない。漂泊団の同業観測員の手入れが丁寧だったのが分かる。


ミヤは観測艇の中の空気を吸う。塩や油、保存食の干し魚、そして〈シズク〉自体の古い金属の匂い──すべてがいつもの場所の匂いだ。


しかしミヤの中でその匂いの輪郭がわずかにぼやけている。


ミヤは寝台の毛布を整える。一週間分の湿気が籠もっている。〈シズク〉の毛布は塩水を吸うのが早く、いつも少し湿っている。これも変わらない。


寝台の脇に観測ノートの予備が積んである。ミヤは今回の旅で持ち歩いた一冊をその上に置く。


午後ミヤは観測艇を補給船から離す。漂泊団の同業観測員に短い別れの合図を送る。相手も短く返す。十年間、何度繰り返してきたか分からない別れの動作だ。


〈シズク〉が単独で海に出る。船首が太平洋の波を切る。機関の唸りが安定する。


これがミヤの場所だ。


夕方最初のデータ照合に取りかかる。


---


ミヤは机に観測ノートを広げる。


過去三ヶ月分の沈黙海域の境界データだ。四月の最後の週から七月の最初の週まで。日付ごとに境界の位置、拡張速度、観測時の気象条件を記録してある。


ミヤは新しい紙を取り出す。


ペンを握る。


データを統計的に並べていく。日付を横軸に境界の拡張距離を縦軸に取る。


最初の二週間、拡張は一日に数百メートルだった。次の二週間は一日に千メートル前後となり、五月の半ばから明らかに加速している。


ミヤは線を引く。


線は上向きでその勢いが日に日に増している。


ミヤは別の紙に過去三ヶ月の他の観測項目を書き出す。水温、塩分濃度、生物発光の頻度、潮流の速度──沈黙海域の境界の拡張と相関しているかどうかを確認する。


水温に大きな変化はない。塩分濃度も通常範囲にある。潮流の速度も平均的だ。


しかし生物発光の頻度は確実に減っている。


ミヤはそれを記録する。


「生物発光、減少傾向。沈黙海域の拡張と相関の可能性」


相関と因果は別だ。ミヤはそれを混同しない。生物発光が減っているのが沈黙海域の影響なのか、それとも別の要因なのか、まだ判別できない。


しかし、データが告げる現象は確かだ。


父のノートが机の隅に置いてある。タチバナに見せたのと同じノートだ。父はかつて別の海域の異常を観測していた。その記述は途中で途切れているが最後のページには「加速」という言葉が残っている。父が何を見ていたのか、ミヤには分からない。


ミヤはノートの余白に書く。


「加速度的拡張」


ペンを置く。


窓の外を見る。


海は静かだ。波は低く、塩の匂いは穏やかで風も穏やかだ。


しかしミヤにはその静けさが重く感じられる。


七十八日分のデータが告げていることは簡単だ。沈黙海域が広がっている。そして加速している。


ミヤはペンをもう一度握る。


---


七月五日、ミヤの無線機が鳴った。


漂泊団の通信プロトコルの呼び出し音だ。ミヤは観測デッキから居住区に降りて受信機を取る。


「波音号からだ。確認できるか」


通信士の若い男の声だ。


「確認した」


ミヤは答える。


「サグからの伝言だ。中央海域の観測員から、報告が増えている」


サグは漂泊団の年長者の一人だ。ミヤは名前しか知らない。


「報告の内容は」


ミヤは訊く。


「沈黙海域の境界が複数の地点で同時に拡張している。中央、南東北西──どの方角でも」


ミヤは紙にメモを取る。


「お前のところもか」


通信士の声にわずかな焦りがある。


「ある」


ミヤは短く答える。


「管理庁は何か言っているか」


ミヤは訊く。


「沈黙のままだ。正式な発表は何もない」


通信士は続ける。


「サグが言うには、管理庁は内部で動いている。観測員の出入りが増えていて、深層航路の便も増便されている。何かを準備している」


ミヤは黙る。


「漂泊団はどうする」


ミヤは訊く。


「カグラがまだ判断していない。お前にもしばらく自分の観測を続けてくれと言っている」


ミヤは頷く。通信相手には見えないが頷く。


「了解」


ミヤは答える。


通信が切れる。


無線機のランプが消える。ミヤは受信機を置く。


漂泊団の観測員ネットワークが動揺している。それが分かった。


漂泊団は滅多に動揺しない種族だ。海上を巡回する船団は自然の異常には日常的に対処してきた。嵐、潮流の変化、漁獲の偏り──それらに対する判断は早く、淡々としている。


その漂泊団が動揺している。


ミヤは机に戻りノートに今日のメモを書き加える。


「七月五日。漂泊団観測員ネットワーク、複数地点で同期した拡張を確認。管理庁、内部で動きあり。カグラは判断保留」


ペンを置く。


外の海はもう暗くなっている。波の音がいつもよりも近く聞こえる。


---


七月六日と七日は観測の通常業務を続けた。


午前は艇を動かして観測ポイントを巡る。午後はデータを整理する。夜は無線で漂泊団の他の観測員と短い連絡を取る。


しかし、新しい情報はない。みんな同じことを観測している。境界が拡張し加速し管理庁は沈黙したまま誰も次の判断を下せない。


七月七日の夜ミヤは寝台で眠る。


夢の中でミヤは観測室にいる。


しかし〈シズク〉の観測デッキではない。もっと広く、もっと古い観測室だ。古い機器が並んでいる。〈シエラ・ディープ〉の放棄区画で見た機器に似ている。


ミヤは観測機器の前に立っている。


机の上には観測ノートが開かれている。誰かのノートだ。ミヤの字ではない。細く、揺るぎのない字だ。


ミヤは手を伸ばす。


しかし、ミヤの手ではなかった。細長い指、観測者特有のペンだこ、左手薬指に細い銀の指輪がある。


ミヤの手のはずなのにミヤの手ではない。


その手が観測機器のつまみを回す。回す方向も力の入れ方もミヤは知らない。しかし手は動く。


ミヤは見ている。


あるいは視られている。


夢の中で女性の声がかすかに聞こえる。ミヤの声に似ているがミヤの声ではない。何かを言っている。しかし言葉は聴き取れない。


ミヤは目を覚ます。


寝台の上で長く動かない。


天井の鉄板に朝の薄い光が射している。窓は塩で曇っている。機関の唸りは低く、いつものリズムだ。


ミヤはゆっくりと身体を起こす。


夢の中で見た指輪がまだ視界の端に残っている気がする。しかしそれは気のせいだ。指輪はもう見えない。


ミヤは観測ノートを開く。


夢の中の手の動きをペンで再現してみる。記憶を辿りながらつまみを回す動作を空中でなぞる。


何の操作だったのか、ミヤには分からない。しかし手の動きには特定の手順があった。順序があり、目的があった。


夢の中の女性は何かを測ろうとしていた。


ミヤは自分の指を見る。観測者特有のペンだこはミヤの指にもある。しかし夢の中の指輪はミヤの指にはない。


ミヤは寝台に戻る。


しかし眠れない。窓の外で夜が薄れていく音が聞こえる気がする。


朝が来た時ミヤは寝台で目を閉じたまま夢の中の手をもう一度思い出そうとする。手の動きは思い出せる。しかし誰の手だったかは思い出せない。


ミヤはようやく寝台から起き上がる。観測艇の中を見回す。窓は塩で曇り薄黄色の朝の光が滲んでいる。配管から微かに水の音がする。これはいつも通りの〈シズク〉の朝だ。


しかし夢の中の手の感覚はまだミヤの中に残っている。


---


七月八日と九日はミヤは観測の作業を続けながら夢の中の手のことを考え続けた。


夢の中の手の動きつまみを回す方向、ペンだこの位置──それらはミヤが過去に見たことがある気がする。しかし、いつどこで見たのか思い出せない。


ミヤは観測員として見たものは記録する習慣を持っている。十年間、見たものを記録してきた。しかし夢の中の手はミヤの記録の中に該当するものがない。


それでも知っている気がする。


七月十日、最後の照合作業を終える。


過去三ヶ月の沈黙海域の境界データをすべて検証した。拡張速度は確実に加速している。過去三ヶ月で二倍に達した。今後の三ヶ月で四倍になる可能性がある。


ミヤは観測ノートを閉じる。


そして開ける。


最後のページに今日の日付を書く。


「七月十日。観測継続。データの蓄積を続ける。同時に、独力では不十分」


ペンを止める。


ハリスの管理庁に再提出しても結果は六月と同じだろう。担当官は「処理しておきます」と言ってデータを脇に置く。


漂泊団の母船「波音号」に報告してもカグラは「待て」と言うだろう。漂泊団の観測員ネットワークが動揺しているが組織として動く判断はまだない。


タチバナに会いに行くこともできる。しかしタチバナは「自分で考えなさい」と言うだけだろう。


ミヤの中で何かが固まる。


十年間、ミヤは独力で観測してきた。観測員は一人で動く者だ。データを取り記録し報告する。それで十分だったし、それ以上を必要としなかった。


しかし、今、データの意味を解釈する者がもう一人いることをミヤは知っている。視るだけでは捉えられないものを聴く者がいる。


ミヤは目を閉じる。


〈シエラ・ディープ〉の放棄区画とレイの隠れ家とあの夜の沈黙がミヤの中に蘇る。


「お前は視る」「俺は聴く」── レイの言葉がミヤの中で響く。


ミヤの能力は視る。ノートに書かれた数字、機器に残った痕跡、観測艇の窓越しの海面が視覚の対象になる。すべて視ることはできる。


しかし、視るだけでは届かない場所がある。


データが告げる「加速」の意味、漂泊団ネットワークの動揺の本当の意味、夢の中の手の意味──それらは視ることでは捕まえられない。


聴く者が必要だ。


ミヤは目を開ける。


もう独りでは無理だ。


ミヤは握っているペンを置いた。

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