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古い言葉

七月二十五日の朝ミヤとレイはオルタに着いた。


クロイスで別れてから十日、二人はそれぞれ別ルートでここへ向かった。ミヤは〈シズク〉で北西に航海しレイは漂泊団の補給船に紛れて先回りした。


港でレイと合流した時レイは布で巻いた靴底ではなく街に紛れる革靴をはいていた。クロイスでの修道戦士の経験から別の足跡を残すことを選んだのかもしれない。


ミヤは何も訊かない。レイも何も言わない。


二人は街に向かう。


オルタは旧アジア大陸沿岸の海上都市だ。学問の街と呼ばれている。読み師連の本拠地で街の中央に最も高い塔がそびえている。二十階建ての旧文明の図書館を改造した建物だ。


ミヤがオルタに来るのはこれで二度目になる。前回はミヤ一人だった。今回はレイがいる。


街路を歩きながらミヤはレイの歩き方を観察する。レイはこの街を知らない。しかし、足音を消す技術と視線の動かし方は未知の街でも変わらない。


二人は中央の塔の門の前に立つ。門の上に古い文字の刻印がある。ミヤには読めない。タチバナだけが読める旧文明語だ。


門をくぐる。


塔の入口で若い解読者が二人を迎えた。前回ミヤを迎えたのと同じ男だ。三十代で整った身なり、解読者の上着を着ている。


「タチバナ様にお会いしたいのですが」


ミヤは言う。


「お待ちください」


若い解読者は答える。前回と同じやり取りだ。


しかし若い解読者の目はミヤの後ろのレイに向く。一瞬目が止まる。


若い解読者は何も言わずに塔の中に消える。


ミヤとレイは入口の脇に立つ。塔の中の冷えた空気がミヤの服に触れる。古い建物特有の、紙と石と時間の匂いがする。


塔の中は海上都市のどの建物とも違う。湿気を吸わない壁、音を吸う厚い床、低く保たれた温度。旧文明の図書館の構造をそのまま保存し、書物を傷めない環境を維持している。読み師連がこの塔を選んだ理由が空気の質で分かる。


「来たことはあるのか」


ミヤは小声で訊く。


レイは首を振る。


「初めてだ」


レイは小さく答える。


若い解読者が戻ってきた。


「タチバナ様がお会いになります」


二人は塔の中に通される。


---


研究室の扉の前で若い解読者は脇に退く。


ミヤは扉をノックする。


「お入りなさい」


タチバナの低い声が返ってくる。


ミヤは扉を開ける。


タチバナが立っていた。前回と同じ位置だ。痩せた長身、白いひげ、長い暗い色の上衣をまとっている。指先がインクで染まっている。


しかし前回と違うのはタチバナの視線がミヤだけではないことだ。


タチバナの目がミヤの後ろのレイに向く。


タチバナは動かない。レイも動かない。


研究室の空気がわずかに重くなる。


ミヤは二人の間に流れるものを観測する。タチバナの薄い茶色の目には瞳孔の周りの白濁が浮かんでいる。年齢による白濁だが視線の鋭さは衰えていない。今、その視線がレイを見ている。


レイもタチバナを見返している。


長い沈黙が続く。


タチバナがゆっくり頷いた。


「お前か」


短く、それだけだ。


レイは何も言わない。


タチバナの「お前か」が何を意味するのか、ミヤには分からない。しかしレイはその意味を察しているらしい。レイの肩のわずかな緊張でミヤはそれを知る。


タチバナはレイから視線を外さない。視線にはあらゆる感情がない。観察だけがある。長く何かを待っていた者が待っていた対象を初めて見た時の視線だ。


レイはタチバナの視線を受け止めている。受け止めながらレイもタチバナを観察している。共鳴感知でレイはタチバナの中の何かを聴いているのかもしれない。


タチバナは扉を大きく開ける。


「入りなさい。二人とも」


ミヤとレイは研究室に入る。


研究室の中は前回と同じだ。紙とインクの匂い、薄い茶の香り、机の隅の小さな茶碗、書棚の革表紙の本がいつもの位置にある。タチバナはミヤとレイに椅子を勧め、自分も机の向こうに座る。


タチバナはしばらく何も言わない。机の上のペンを軽く触れている。


ミヤは観測員としてタチバナの動作を見る。タチバナがペンに触れるのは何かを考えている時の癖だ。前回もそれを見た。


レイは部屋を見渡している。書棚、机、窓、扉の位置を順に確かめている。共鳴者として空間を確認しているのかもしれない。あるいはただの観察かもしれない。ミヤには判別できない。


タチバナがペンを置く。


「お前たちは近づいている」


---


「何にですか」


ミヤは訊く。


タチバナは答えずに立ち上がる。書棚の中段から革表紙の書物を取り出す。前回ミヤに見せたのとは別の書物だ。


タチバナは書物を机の上に置く。革は古く、縁が摩耗している。表紙にはミヤには読めない旧文明語の文字が刻まれている。


「これは旧文明末期の記録の一つだ」


タチバナは言う。


「私が解読してきたものの中で、お前たちに見せられるものを選んだ」


タチバナは書物を開く。ページは変色していて、文字も薄い。タチバナの指がページの上を移動する。


「ここにある言葉がある」


タチバナは特定の場所を指す。ミヤは身を乗り出して見る。旧文明語の文字が並んでいる。


「読めないだろう」


ミヤは頷く。


タチバナはペンを取りノートの空いたページに翻訳を書く。


「反復」


二文字が並ぶ。それだけだ。


ミヤはその二文字を見る。


「反復ですか」


「ふむ」


タチバナは頷く。


「これは装置の名前ではない」


タチバナは続ける。


「装置が生み出す現象の名前だ」


ミヤは沈黙する。


「同じことが何度も起こる」


タチバナはそう言って書物を見る。


「旧文明の最後の建造者たちは、この『反復』を避けようとした。しかし、彼らが作った装置自体が皮肉にも『反復』を強化する仕組みを持っていた」


ミヤは話を聴く。観測員として、新しいデータを記録する目で。


「反復」── 同じことが何度も起こる現象。ミヤは観測員として、自然界の反復は知っている。潮流、季節、深海生物の周期。しかし、タチバナが指している「反復」はそれとは違う。装置が生み出すというのはより構造的でより長い時間軸の現象を指している。


「お前が観測している沈黙海域の異常も、漂泊団のネットワークが察知している動揺も、すべて『反復』の一部だ」


タチバナは続ける。


「そして、この『反復』に対して対になって発現する者たちがいる」


タチバナはレイを見る。次にミヤを見る。


レイが初めて口を開く。


「俺はそれを聴いている」


レイの声は短く低い。


タチバナは目を細める。


「ふむ」


タチバナは頷く。


「お前は聴く。お前は視る」


タチバナはミヤとレイを二人とも見る。


「お前たちは二人いる」


ミヤはタチバナの言葉がただの事実認識ではないことを察する。「二人いる」── それは数の確認ではなく、何か特定の意味を持つ。


「反復」と「二人いる」── タチバナの中で二つの言葉が繋がっている。ミヤにはまだ繋がりが見えない。しかし、タチバナの目には繋がりが見えているのが分かる。


---


ミヤはタチバナの言葉の意味を考える。


「二人いる」── それは何の意味か。共鳴者として二人いるという意味か。それとも何か別の意味か。


ミヤが訊こうとした時タチバナが先に言った。


「四十年前別の二人がここに来た」


ミヤは口を閉じる。


「私はその時、もう少し若かった。上級解読者になったばかりの頃だ。二人のうち一人は、私の弟子だった」


タチバナは机の上の小さな茶碗を見る。冷めた茶が入っている。


「もう一人は、その弟子の対だった。私たちはその二人にこの書物を見せた。私が今お前たちに見せているのと同じ書物だ」


ミヤは書物を見る。革表紙、変色したページ、「反復」の文字が並ぶ。


「二人は消えた」


タチバナは続ける。


「私たちは止められなかった」


タチバナの目には四十年前の何かが浮かんでいる。視線は机の茶碗に向いているが見ているのは別のものだ。


「弟子は観測者だった」


タチバナは付け加える。


「もう一人は聴く側だった」


ミヤの中で何かが揺れる。「観測者」と「聴く側」── それは今、自分とレイのことを指している言葉でもある。


「それから私は長い間、この書物を見せなかった。次の二人が現れるのを待っていた」


タチバナは目を閉じる。短い沈黙が落ちる。目を開ける。


「ハーラン最高解読者は今でもこの書物の公開を許していない。私が今お前たちに見せているのは、私の独断だ」


ミヤはタチバナの目を見る。タチバナの目は薄い茶色のままだがその奥に何かが揺れている。


「ハーラン様はご存知なのですか」


ミヤは訊く。


「知っている」


タチバナは答える。


「しかし私は止められない」


レイは黙ったままだ。しかしタチバナの話を聴いている。


レイの聴き方はミヤの聴き方とは違う。ミヤは情報を記録する目で聴く。レイは別の何かを聴いている。タチバナの言葉の奥にある、何かの残響を。


ミヤにはその残響は聴こえない。しかし、レイの耳が捕らえているものが何かは何となく察しがつく。四十年前にタチバナの目の前で消えた二人の声、あるいはその消失の前後にこの研究室で流れたものの記憶をレイは拾っているのだ。


レイは聴いている。ミヤは見ている。タチバナは話している。三人の動作がこの瞬間、別々の方向を向きながら同じ一つのものに繋がっている。


---


タチバナは書物を閉じる。


「私が話せるのはここまでだ」


タチバナは机の引き出しから別の紙を取り出す。古い紙だ。タチバナの字で何かが書かれている。


「これを持って行きなさい。私が四十年間書き溜めてきたメモの一部だ。お前たちが自分で辿るための手がかりになる」


タチバナはその紙をミヤに渡す。


「自分で考えなさい」


タチバナは続ける。


「これ以上は、私が話してはいけない領域だ。話してしまえば、お前たちの旅は私の旅の繰り返しになる。それでは意味がない」


ミヤは紙を受け取る。紙は薄く、しかしタチバナの字が密に書かれている。ノートを見開いてその間に挟む。


「タチバナ様は何を見ているのですか」


ミヤは最後に訊く。


タチバナは机のペンを取る。手稿の続きを書く動作だ。ミヤを見ずに答える。


「同じ問いを四十年前にも聴いた」


それだけだ。


タチバナの答えは答えではない。しかしミヤには分かる。四十年前の弟子も同じ問いを発した。そしてその答えは消失だった。タチバナは今、その記憶の上に新しい問いを置かれている。


ミヤは答えを求めずに立ち上がる。レイも立ち上がる。


タチバナはペンを置かない。書き続けている。


二人は研究室を出る。


廊下に紙とインクの匂いが残っている。研究室を出てもタチバナの空気はミヤの中に残る。レイの足音は相変わらず聞こえない。


階段を降りる前にミヤはレイに小声で訊く。


「何を聴いた?」


レイは廊下の埃を見ている。一瞬答えない。


それから低く言う。


「四十年前に消えた声を」

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