雫滴 〈過去編 その5〉
ある日
シェイネの家に一人の男が駆け込んだ。
男は酷く動揺しており、口から出る音が言葉にすらならないほど焦っていた。
「さぁ、この水を飲んで。落ち着いてくださいまし。お話を聞かなければ対処のしようがございません」
男はシェイネのかざす手を見、段々に落ち着きを取り戻す。
「あ、あぁ、すまん。シェイネさん、頼む!うちの、うちの子を助けてくれ···、早くっ」
まだ青年と言っても差し支えないほどの若い男がそう言う。
シェイネは、く、と顎に力を入れ立ち上がり、外套を手にする。
「参りましょう。お宅へ、ご案内ください」
急ぎ向かった先の玄関ドアを開けると、女のむせび泣く声が響いていた。
「あ、あぁ、ヤチ···大丈夫、大丈夫だから。う、う、う···」
男がシェイネの腕を引き中に飛び込む。
「ケイミ!連れてきたぞ、シェイネさんだ、もう大丈夫!!」
振り返ったケイミは、その腕に小さな女の子を抱えていた。
その顔は青く、口からは糸のようにか細い息が、ひゅーひゅーと立ち登る。
と、ビクビクっと、どこにそんな力があるのか、少女はケイミの腕を振りほどくかのように痙攣し始めた。
「あぁ···っ!いけないよ、もう大丈夫だから、お前は治るんだから···!」
シェイネは体中が震えるのを止められなかった。自分でもびっくりするほど不格好に歩き、少女に近づく。
ケイミが、ほっとした表情をする。
「あぁ、シェイネさん···どうかこの子を救ってくださいまし···女神さま···」
シェイネは少女の顔に手をかざす。
ぐっと、喉に力を入れる。
私の悲しみなど、この方々に比べれば、雨の雫の一粒にも満たない。
シェイネは、目の前にあるケイミの顔を見やる。
「この子の死は止められません」
シェイネの小さな唇から発せられた言葉は、断罪のごとく鋭く、死神の持つ鎌のように、若い夫婦に突き刺さった。
「シェ···シェイネさん、ちが、違うんだ。助けてほしいんだ。いつものように、してくれるだけでいいから」
シェイネの背から、男が声をかける。
ギュゥゥゥ、と、ケイミはヤチを抱きしめる腕を強める。
「この子は3歳になったばかりよ」
ケイミの目は大きく見開いていた。眉がぎゅっと寄せられて、口元は不思議と笑うかのように歪められていた。
ごっくん、と、シェイネは何かを飲み込む。口の中はカラカラで、飲み込むものは何もなく、飲み込んだはずの大きな塊は、その中は空虚でからっぽだった。
「この子の寿命は、尽きようとしています。生まれ落ちたそのときに、こうなることがさだめられていました。生きる糧がなければ、私に癒やすことはできません」
シェイネは優しく少女の胸のあたりに手をかざす。
せめて痙攣の衝撃を、少女の体に刻み込むのを止めさせてやろうと思ってのことだった。
しかしそのシェイネから、ケイミはヤチを隠すように背を向ける。
「そんなはずないわ、あなた、この間70歳のおじいさんを癒した。もう死にかけの、口うるさいじいさんを。あんなのよりこの子のほうが、もっとずっと生きるに決まっているわ!」
後ろから、シェイネの肩を強く掴んだ男はそのままシェイネを振り返させた。
「な、何をすればいい。なんでもする、確かに俺は貧乏で、たいした暮らしはしていない。家を見てわかるんだな、それで癒やしてくれないんだろう?でもどんだけかかっても支払うから、いくらだって出すからどうか···」
シェイネは首を振る。
「そんな···、私は、癒やしで、何かを求めたりは、いたしませ···」
「死んだわ」
ケイミが呟く。
髪をふり乱し、いくつもの涙の跡を頬を残し、不思議と笑った顔のケイミは、その手に動かなくなった我が子を抱きしめ、シェイネを見上げる。
「あなたの言った通り、ヤチは死んだわ。私の愛しい、ヤチが」
男がシェイネの肩を掴んだまま外に押しやった。
シェイネは痛みで顔を歪める。
玄関から放り出され、シェイネは道に転がった。
「間に合ったのに!あの子はまだ生きていたのに!見殺しにしたんだ、この、悪魔め!」
シェイネは立ち上がった。フードを被ろうとするが、手の震えが激しくて、うまくいかない。
「あんなに、あんなに可愛かったのに。まだほんの幼い子供だったのに。よくも見殺しにしたな!!もう二度と顔を見せないでくれ!!!」
バタン!と扉が閉まる。
悲しい、悲しい、灰色の光が、そっと、その家に降り立つのがシェイネには見える。
この霧は、この先何年も取り払われることはないだろう。
シェイネはやっとフードを被り、もう一度、その霧を見上げ、気を取り直して家路についた。
シェイネは家に入ると、玄関のドアにもたれかかり、そのままズルズルとしゃがみこんでいった。
震える両手を握りしめ、そのままぐっと丸まる。
3歳
ヨーンがストストと歩いてきて、シェイネのすぐ横に箱座りする。長い尻尾がピーンと立って、シェイネと同じ方向を向いて、そ、と目を閉じた。
3年
シェイネは長いことそうしてしゃがみこんでいた。
ヨーンはずっと、傍らで尻尾を立てて、目を閉じたままだった。
この雫が、一滴、ポトンと滴った。
水面にできた、波紋は、小さくも消えず
目に見えずとも確かに
大きく広がっていった。
次回12月22日公開予定です




