第38話 黒田修一の過去
「さっき提出してくれた資料、この箇所を修正してくれ」
部下は"承知しました"と言って席に戻ったが、明らかに口角がぐいっと上がって浮かれているように見えた。
意中の男と話せると、有頂天になるのは女の悪い癖だ。
生憎、そういうどこにでもいる量産型の女には興味がない。
そいつらは決して俺が好きなんじゃない。
俺が持ち合わせている"ステータス"が好きなんだ。
例えば、俺より条件を満たしている男が現れたらそっちに尻を振るに決まっている。
そういう女から好意を寄せられても喜ぶどころか、一種の侮辱すら感じる。
その点について晴香は違っていた。
晴香が入社して歓迎会の時に声をかけたことがきっかけで、“付き合おう”と口にしたことは無いはずだがなんとなくの雰囲気で、なんとなくそういう関係になっていた。
晴香はありのままの俺を見てくれている気がするし察しも良いから一緒にいて居心地が良い。
外でご飯を食べても、ここのお会計はお願いねと言うと支払ってくれる。
部屋に来た時は部屋の掃除は勿論、洗濯や俺が気付かないところまで黙って手を動かしてくれる。別にそれを恩着せがましく言ってきたことも無い。
おまけに美人で夜の行為も俺が求めたもの全てを受け入れてくれる。俺の理想を具現化したような女だ。
そんな晴香にも欠点がある。母さんとはびっくりするほど馬が合わない。それだけが本当に惜しいが、それは俺にとって決定的で致命的な欠点だ。
晴香も良いのだが念の為、プランBを考えておく必要がある。
その代替案として今、目をつけているのは“井口 皐月”だ。
晴香は清楚系だが、対照的に皐月はセクシー系と言ったところか。身長は低めで色気があって、所作を見ても男慣れしているのは明らかだ。
試しに何度か話してみたが、中々悪くない。
恋愛的なドキドキ感は晴香といると感じなかったが、皐月にはそれがある。
今日の仕事を終えて会社を出ると、空はすっかり真っ暗になっていた。タクシーに乗り、自宅へ向かう。
「いつも、お仕事お疲れ様です」
「あぁ、ありがとう。じゃあいつものところで」
タクシーの運転手からたまに一声かけられる。
名前は確か宮田だったかな……よく会社の辺りを走っているから彼のタクシーに乗ることも珍しくない。
俺の顔を覚えているから最低限の会話で自宅まで送ってくれる。
自宅であるタワーマンションに着いて、タクシーを降りる。
エントランスを抜けてマンション内のエレベーターに乗って四十階のボタンを押す。
エレベーターは高速で四十階に着いて、ドアに鍵を差して開けると、玄関先の明かりがついていた。
「おかえりなさい。先にお風呂に入る?」
リビングから駆け足で出てきたのは晴香だ。
晴香には部屋の合鍵を渡していたのでよく出入りしている。
しかも、今日も洗濯など身の回りのことをしてくれていたみたいだ。
「そうだな……お風呂に入るよ」
ジャケットを脱いでネクタイも解いて晴香に渡していくと慣れた手つきで受け取って収めていく。
やっぱり晴香がいると楽だと実感する。
それから程なくして皐月とは男女の仲になって……所謂、晴香と皐月を二股にかけていた。
罪悪感が無いといえば嘘となるが、ゆくゆくはどちらかを選ぶつもりである。
皐月が母と会った時は、仲良くは無かったが晴香よりはかなりマシだなという母の感想が生まれて、それから心の中は皐月の割合が大きくなっていった。
母は気難しい性格なのは分かっているが、皐月はその母に食らいついてるように見えて好印象を抱いた。
その事が大きく働いて皐月と結婚することに決めて晴香に伝えると、特に驚いた様子もなく全て知っていた様子であった。
詳しく聞くと皐月とは友人の関係で時折、俺のことを聞いていたらしい。
だから二股をしていることも初めから知っていたと。
だが、晴香は俺を責めるわけでも泣くわけでもなくただ黙って身を引こうとした。そして俺もその優しさに甘えようとした。
そう思った矢先、皐月との結婚生活は予想していたものとはかけ離れていて頭を抱えることになった。
皐月はとにかく気が利かない。細かなところまで配慮ができなくて、こっちが指摘しない限りやってくれないし晴香とは大違い。
おまけに夜のことも面倒くさそうにしてこっちまでやる気が削がれる。そして晴香の有能さを身に染みて理解した。
それ以降、仕事が終わった後は晴香に声をかけてまた二人で会うことが増え始めた。
晴香は拒む素振りを見せず、むしろ満更でも無いような様子で二人きりになるのは容易だった。
皐月は結婚後に寿退社をしたのでバレる可能性が低くなり現状はバレていない。
勿論、バレない為に色々と策を講じているおかげで今もバレずに済んでいるが、つい先日肝を冷やすようなヒヤヒヤする場面に出くわした。
その日は自宅でゴロゴロしていたが、大事なクライアントから連絡がスマートフォンに入ってきた。
ベッドに転がりながら内容を読むと緊急性の高い連絡ですぐに対応しなければいけない。
平たくいえばトラブルが発生した。
皐月はリビングでドラマか映画を大音量で観ていて、部屋ではとても集中出来ない。
そういうどうしようもない時はマンションの一階にあるコワーキングスペースを利用している。
パソコンが入った仕事用の鞄を手に持って皐月には仕事が入ったと一言いれてから、一階に降りてコーキングスペースに向かっていると、通路の壁面のガラスに人影が映る。振り返って確認すると皐月が俺の跡を付けていた。
「えっ?なにしてんの??」
「い、いや〜急に出て行くから気になって……」
「だから、仕事で急用が出来たんだよ」
「でもそこってコワーキングスペースじゃない?そこでなにするつもりだったの??」
「ここで得意先と電話したりパソコンで事務作業をするつもり」
「それって別に自分の部屋でも出来ることじゃない?なんでわざわざ別の部屋でする必要があるの??」
「集中して仕事をしたい時は使ってるだけだよ。別にやましい事も変な事はしてないよ」
そう言うと皐月はなにかを諦めたような顔つきになって、自宅に戻っていったが何故、皐月がそんな行動を取ったのか気になる。
コワーキングスペースに入ってから鞄を確認するとGPSが見つかった。いつから入っていたのか分からないが心拍数が上がる。
わざわざ尾行するということはGPSでなにか証拠を掴んだわけではない可能性が高い。
あれから、GPSは鞄に入れたままで様子を見ていたが皐月からなにも詰められることは無かった。
そして皐月が華道教室に通い始めてからいつもにも増して魅力的になったように思える。忘れかけていた妻への欲情の気持ちが再燃してきた。
参ったな、"離婚"を考えていたのに……
晴香には離婚すると伝えてしまったではないか。
待っていたエレベーターが一階に降りてきた。
エレベーターの中に入って四十のボタンを押す。
「また間違えた、よく間違えるんだよなぁ」
四十のボタンを二度押してキャンセルした後、
三十九のボタンを押した。




