第37話 黒田皐月の過去
私は自分の席に座って入力作業をしながら、横目で黒田次長こと黒田修一を流し見していた。
そして彼を見ているのは少なくとも私だけではなかった。
黒田修一はイケメンとは言わないまでも、そこそこの顔立ちをしているし、身長の高さも申し分ない。
それなりの役職に就いていて、安定した年収もある。
そしてなにより悪い噂も無ければ、女遊びしているような浮いた話もない。
社内の女達が舌なめずりして狙っている良物件だ。
私は彼にそこまで入れ込んでいるわけではないが、確かに良物件だしそろそろ男遊びから手を引いて結婚して子どもが欲しいと思っていた。
だから彼の条件は私にとって都合が良い。
なにより、そこまで人気がある男性なら手に入れたくなる。
そして手を付け始めたら、彼と男女の関係になるのはあっという間だった。
ちょっと誘惑したら鼻の下を伸ばしてすぐに引っかかって拍子抜けしたが、このまま黒田修一というレールに乗り続けて身を固めることが出来る。
修一と付き合って進捗状況をよく聞いてくれたのは同僚であり親友の晴香だった。
晴香は清楚系であっさりとした顔立ちでナチュラルメイクがよく似合っていて同性からみても美人だ。
だが、身長が高いのが玉に瑕だ。
男性は自分より背が高い女を嫌悪する。
本人もコンプレックスに感じていてスニーカーばかりを履いている。
二人でどこかに行く時は晴香がスニーカーを履いて、私はヒールを履いて身長差を揃えることが暗黙の了解になっていた。
どちらが言い出したとかはないのだが。
休みの日は大抵、修一か晴香のどちらかと会っていた。晴香は聞き上手で話していてとても心地が良かったし、特に恋バナの話題はよく盛り上がった。
晴香から男の匂いを全く感じなかったが、理由は話していて分かった。理想が高すぎて相手がいないのだと。
このままだと売れ残ることは目に見えているが、真剣にアドバイスして友情にひびが入るのは避けたくて冗談っぽく言うのが精一杯だった。
それから少しの時が流れ、修一と結婚して寿退社することになり職場の人間や晴香は笑顔で祝福してくれた。
修一が住んでいたタワーマンションに一緒に住むことになって、結婚と同時に同棲生活が始まったがこの辺りからレールの異変に気付く。
修一は自分の身の回りことが出来ない。
ごみの分別も出来ないし、衣類も洗濯物にただ入れるだけで洗って干す素振りもない。食器を使っても黙ってシンクに置いたまま。
仕事はあんなに出来るのに、私生活は原始的で全てやりっぱなし、まるで子どもだ。
ここの部屋はそこそこ広いのに今までよくゴミ屋敷にならなかったのが不思議だ。
大方、私と一緒になるまでは女が出入りしていてその女に任せていたのだろう。
そして社会人になるまでは、子離れが出来ない鬱陶しい姑が面倒を見ていたに違いない。
そのくせ、性欲は一人前で夜な夜な私を求めてきた。
最初は妻として当たり前のことだと応えていたが、私生活のだらしなさから毎日夫に少しだけ幻滅してとうとう応えることが億劫になっていく。
それからはなにかと理由をつけて頻度を減らしていった。
修一は馬鹿ではないので、私のなにかを察してから会話の量も減って夫婦の関係にゆっくりと亀裂が入っていくように感じられた。
そうなってくると、男性のする行動はたった一つ……浮気だ。
離婚までは考えていないが、もし離婚になったらなったで、財産分与ができる。
修一の潤沢な財産を貰って第二の人生を歩むのも悪くないのかもしれない、なんてことが頭の中でぼんやりと浮かぶ。
彼は同棲してから仕事を理由にして家を出て行く事が度々あった。
修一の鞄にGPSを仕込んで様子を見たが位置情報はタワマンから出た気配がない。
それはそれで怪しいので、修一の跡を付けてみたら一階にあるコワーキングスペースに出入りしていた。
彼に尋ねると、“集中して仕事をしたい時は使っている”そういう返事が返ってきた。
妻が部屋にいると集中出来ないと言われているようで、それ以上詮索する気が失せてしまった。
専業主婦になってからは時間を持て余していて、以前から気になっていた華道教室に通いたいと修一に言うと、あっさりと首を縦に振ってくれた。でもそれは興味のない了承であることは明白だ。
それからは“さくら華道教室”に行くことが楽しみになっていたし、ストレス発散にはちょうど良かった。
晴香と会った際に愚痴は聞いてもらっていたが、あんまり言い過ぎると惚気話しをしてるのか?と思われるのも嫌だったので全てを吐くことは控えていた。
だからこそ、華道教室に行く事が気分転換になっていたし、楽しみにしてる理由がもう一つある。
生徒の中に三島大樹君という年下の男の子がいて、身長が高くて体格も良くて無骨な感じに見えるが、
性格は無邪気な少年って感じが良いギャップをしていてなんとも可愛げがある。最近はその子に会うことが楽しみになっている。
なんでも、彼は警察官らしい。彼の趣味や身の上話しを聞いている内に仲良くなって教室が終わったら一緒に帰ったりどこかに寄ったりするようになっていった。
私が既婚者であることを知っていながら、彼は私が好きになったみたいで、好意がだだ漏れしていたがそれもまた可愛い。その好意は燻んでいた心に不倫という刺激を与えてくれる。
そうしていると、大樹君から“ご主人と別れて俺と付き合って欲しい”そう言われてその場の雰囲気で頷いてしまったが、心の内では今すぐ離婚することは考えていなかった。
所謂、火遊びのつもりで頷いてしまっただけ。
そうとも知らずに浮かれている大樹君の顔を見ていると、ほんの少しだけ彼に情がうつっている気がした。
大樹と付き合い始めてから、思わぬところで変化が現れる。それは私に対する修一の態度だ。
少しだけだが会話する回数も増えて、態度も柔らかくなった気がする。
でも、もう遅い。彼が現れてから夫の立ち位置が確実に揺らぎ始めている。
そういえば、大樹君が面白いからと貸してくれた本をまだ読み終わっていない。
私には内容が難しくて中々ページをめくれずにいた。
明日は晴香と一緒にフレンチを食べに行く予定だが既にワクワクしている。
晴香とどんなことを話そうかと考えながら借りていた本のページを開いた。




