38.湖底の鍵
さりげなく隣にいるのは、アルをいざという時に庇うつもりだったのだろう。
戦闘が終わったと判断するや、叔父はフェリクスとゼスのもとへ近づく。
フェリクスの身体は戦闘後の余熱をまだ帯びていて、血の匂いすら淡く漂っている。
「すばらしい手際だ。精鋭部隊でもそこまでの動きができるものは稀だろう」
「そりゃどうも。……精鋭?」
剣の柄に付着した体液を拭い、賛辞を流したフェリクスが引っかかった部分を聞き直した。
叔父は片眉を上げ、言葉を重ねた。
「そうだ。私の見知っている範囲で、あの短時間で連携を取り、無駄なく骨猿を無力化できる者は少ない」
叔父の眼差しには、強い関心と純粋な称賛が宿っている。
その視線は観察というより、もっと個人的な驚きと評価に近く、二人の若者が持つ底知れぬ力を確信した者のものだった。
ゼスが目を細め、やり取りを引き取った。
「あんたの知っている範囲となると、かなりの広範囲そうだね」
「そうだな。私の手の及ぶ範囲は広いほうだろう」
「ふうん。商いって何を扱っているの?」
「何でも。行商も営む商人はあらゆるものを扱う」
その声音には、何をどこまで本気で言っているのか分からない含みがあった。
しかしゼスは追及しない。互いに一歩引いた牽制の空気だけが残る。
それ以上、その話題は広がらなかった。
フェリクスが別の重要議題を上げたからだ。
「腹減った……」
一行は獣避けの香を焚き、予定通り食事をすることにした。
「もうすぐだ」
叔父の言葉にアルの意識が戻ってきた。
腹がくちて馬車に揺られ、知らず居眠りしていたアルは、自分がゼスの肩にもたれかかっていたことに気づいた。
その温もりに気づき慌てて頭を上げると、間近で細い目が和んだ。
「って、ごめん」
「無問題でーす。ピーを肩に乗せてるようなもんだった」
軽くいなすゼスだが、日が傾きかけているあたり、肩を借りていたのは短い時間でもなさそうだ。
ゼスの声に責める色はなく、むしろいつもより柔らかい。
掴みどころのない彼だが、少し分かってきたこともある。
身内と定めた相手にはひどく甘い。
馬車にあった布が自分に掛けられていたのは、彼の仕業だろう。
感謝の意を込めて、ポンっと肩を軽く叩くと、叔父に答えた。
「休憩なしで大丈夫? 交代しようか」
「問題ない。むしろ、これだけ長距離を走らせるのは久しぶりで浮き立つほどだ」
浮き立つと言いながら、カルナの調子は明るいものではない。
それもこれも、湖に近づくにつれて変わりゆく風景によるものだろう。
日没前の最後の光が差し込む中、道沿いの木々の様子がさらに変わっていた。
それまで緩やかな上り坂だった街道は、急に泥濘が深くなり、馬車の車輪が何度もずるりと滑る。
木々は風に揺れるのではなく、何かに強引にひしゃげられていた。
道の両側には、通常ならば針葉樹が整然と並んでいるはずだ。
しかし、西側にあるのは、根元からねじ切られたように折れた大木や、幹の途中から鋭く裂けた巨木の残骸だった。
「ひでーな」
馬上のフェリクスが、独り言のように呟く。
フェリクスの視線の先には、道が交差している。
北行きと西行き。
西行きの道は、泥で深く抉られていた。
折れた木々が流木となって積み上がり、西行きの道は広範囲の泥地が見えた。
轍の跡はおろか蹄跡もない。
馬で進める環境でないのは一目瞭然だ。
「水流によって抉られた痕だな。とてつもない水量と速度だったんだろう」
叔父の手綱を握る手に力が込められた。
秀麗な眉を寄せると、ますます迫力を増す。
本来、この北回りの道は、マリノスの街へ直接向かうのではなく、マリノスの北方にある大きな湖の南岸を伝う迂回ルートだ。
湖へ向かうのはカルナの個人的な目的だったが、北向きに進路を変更して正解だったと言える。
主要路を使っていれば、いずれは馬や馬車を放棄せざるを得ない結果になっていた。
なだらかな坂道を進んでいた一行は、やがて、低地へと差し掛かり、そこで馬車はついに停まった。
針葉樹の林道を抜けると、急に東側だけ視界が開けた。
背丈の低い草木で、馬車はともかく馬であれば駆けることができそうだ。
遥か先に巨大な山脈が見える。
その麓には、山が始まる前から樹海が広がっている。
その手前に、こちらから視認できるぎりぎりの距離に集落が見えた。
ぽつぽつとまばらに、大きさもそろわない建屋が散見される。
人影も確認できるようになると、大丈夫だとは思うが、と前置きした上で叔父が告げた。
「この辺りは元々、湖の守人の居住地だ。
険しい山脈を超えた異邦人の末裔とも言われている。訛りはあるが、指摘などはするなよ」
二人が同意の返答をする中、アルは遠くを眺めていた。
集落より奥に広がる、樹海から言い知れない風が吹いている。
北の山懐にある湖の方向。
そこから来る風には、湿った泥の匂いだけでなく、冷たく、古びた、何かの力が放出されているような異様な感覚が混じっていた。
「アルフェ? 聞いているのか?」
「……大丈夫」
この感覚も、さすがに四度目となると、予想がつく。
「おじさん。この北の湖には、何があるの? わたしに何をさせたいの?」
湖へ向かう馬車の進路は変わらない。
だが、わずかに速度が落ちる。
叔父の横顔はこれまでと違い、張り詰めた静けさをまとっていた。
フェリクスもゼスも、アルの問いに敏感に反応した。
カルナの回答に不自然な部分がないか、注視している。
カルナは答えを急がず、ひとつ深呼吸をしてから言った。
「アルフェ……」
その名を穏やかに呼んだだけなのに、馬車の周囲の空気が冷えた気がした。
「北の湖には、星詠みの一族にまつわる古い“鍵”が眠っている。お前が感じているものも、それに由来する」
「鍵?」
胸の奥に、またざわめきが起こる。
ゼスが、アルにだけ聞こえる声でささやいた。
「姫さま、瞳が光りはじめてる」
アルはまばたきした。
そうしたところで、光を消すことなどできないけれど。
「お前に“何をさせたいのか”というより……お前にしか“できないこと”がある、というのが正確だ」
「それは、星詠みの何かということ?」
「そうだ」
怖さではない。
そうではなく、自分の根底が揺すられている感覚があった。
星詠みにしかできないこと。
そう伝えられても、自分では星詠みという自覚さえないままだ。
何が自分にできて、何ができないのかも分からない。
星詠みであれば当然に為すべきことを求められているのか、そうではないのかも。
「この国の天候が乱れ始めたのは、星詠みの儀が途絶えた頃からだ。儀式が途絶えた理由は、ただ『王家が倒れたから』ではない」
本来、とカルナは続ける。
「様々な書によると、星詠みが王位を欲したことはない。そうでなくとも浮世離れした一族だ。放っておけば、流浪の民として各聖地で巡礼をしていたんじゃないか」
なんとも言えない。
少なくとも、叔父は星詠みの一族の長であった自分の父親との面識があるのだ。
アルのことをもっとも知っているであろうフェリクスが、目の端で何か頷いている。
「星詠みの一族が王家として立ってから、千年が過ぎた。天灯は、常に側に在り続けた。その絶大なる戦力とともに」
「そんな昔話はいい。アルに何をさせるつもりなんだ?」
フェリクスの物言いは、決して荒々しいものではない。たが、一歩も引かない覚悟を感じさせた。
「つまり、私がさせるのではない。
ただ、遅かれ早かれ導かれることになるということだ」




