37.曇天の剣技
一行が踏み入れた草原は、主要路より北寄りだ。
遠回りになるが、結果的にはこの道のほうが早く着くだろうと旅慣れた叔父が請け負った。
ほとんど人通りのない草原を進んでいる。
本来なら乾いた風が吹き渡るはずの草原の道だという。
だが、雨続きだったこともあり、空気は重く湿り、草は雨を吸ってしっとりと濡れている。
王都から西に離れれば離れるほど、雨が長く続いている。
ここまでの道のりでも、からりと乾いた風が流れ、地平の向こうまで金色の穂が揺れるはずと説明された地域も通った。
雲は低く垂れこめ、晴れているはずの時間帯でも薄い霧雨が草木にまとわりついていた。
収穫の時期にまともな収穫を見込めない。
それがどういう事態を巻き起こすのか、アルはよく知っている。
一番弱い立場の、例えば孤児院の子どもたちから飢えに苦しむことになる。
孤児院で、乾パンの日が三日続いただけで、あんなに皆が弱っていた。
あれが町ひとつ、国ひとつの規模で起これば、想像するだけで胃の奥が冷たくなる。
幸い、南部は大雨が降り続くことは稀になっていった。
穀物地帯に大きな被害を出すこともなく、街の人々も落ち着いていった。
だから、実感はなかった。
この旅も、南部から出て、森を通り、王都へ地下道で向かい、ほとんど他の地域を見ることはなかった。
──ここまで、広い土地で不作になったら。
どこまでも広い草原なのに、どこか息苦しい閉塞感があった。
胸がざわついた。
緊張とは違う、もっと根の深いもの。
言葉にできない焦りのような感情。
「ねぇ」
隣にいたゼスが、アルの顔を覗き込んでいた。
「なんて顔してんの。言っておくけど、自分で負えるもんは、自分以外に何もないよ。今までも、これからも。誰だって、そうだ」
いつも軽口を叩いているゼスが、真剣な光を瞳に浮かべた。
そこからすぐに目を細めるので、目は見えなくなった。
ゼスとのやり取りが聞こえているだろうカルナが、御者台から口を挟む。
「アルフェ、私も彼の言うことに同意するよ。
力ある者が責任を負うのではない。
責任とは、支配の座に就く者が背負うべきものだ。
支配と責務は常に一つ。
ゆえに、支配する者こそが責任を負わねばならない」
力強い声は、聞いているものを落ち着ける温かみも持っていた。
ふっと肩の力が抜けたところで、馬車の外気がひゅう、と鋭く流れを変えた。
「っ来るぞ!」
フェリクスの叫びとともに、アルは馬車窓に張り付いた。
地面が、ぽふりと盛り上がった。
カルナが手綱を引くより早く、フェリクスが叫ぶ。
「伏せろ!!」
砂と石を弾き飛ばし、灰色の甲殻に覆われた地潜り蜂が地面から跳ね上がった。
本来はもっと北方の乾いた荒野に棲む生物。
だが、ここ数年、雨の影響で南へ分布を広げつつある厄介な連中だ。
「馬車狙い!? いや、馬か!」
カルナが舌打ちした刹那、フェリクスがブレイドから飛び降りた。
そのまま、地面に降り立ち際に既に剣を抜いていた。
鞘走りの音すら聞こえない。
落下の勢いをそのまま踏み切りに変え、フェリクスは跳ね上がる影に斬りかかった。
「──っ!」
アルが息を呑むより早く、地潜り蜂の一体が真っ二つに裂け、重い甲殻がどさりと泥の上へ転がった。
一振り。
たった一撃。
湿った空気を裂いて、フェリクスが滑るように走る。
地面に足がつく瞬間ごとに、姿がかすむ。
アルは息をすることすら、忘れていた。
「なーんか、強くなってんねぇ。フェリクス。
おれも行こうかと思ったけど、要らねえかも?」
こんなに、早かったのか。
孤児院で一緒に駆け回ったときの姿が、遠い記憶のように霞む。
アルが目を凝らしても追いつけない。
二体目の地潜り蜂が突撃してくる。
フェリクスはわずかに腰を落とし、体をひねり、刃を甲殻の継ぎ目へ吸い込まれるようにして差し込んだ。
「灰色の甲殻は鉄よりも固いと言われるのに、恐ろしい剣技だ」
「しかも、成長の余地がありまくりってね」
「違いない」
甲殻の奥で肉が裂け、蜂がショックで暴れる。
だがフェリクスは剣を抜くと同時に回転し、後方へ滑るように後退しながら体勢を立て直した。
動きに一片の淀みもない。
剣筋は影のように淡く、踏み込みは鋭い。
「フェル、左!」
アルは叫んだが、その声が届くより前にフェリクスはもう動いていた。
三体目の地面が、ぼふりと膨らむ瞬間を見切ったのだ。
水を含んだ重い土が散り飛ぶ中、フェリクスは跳ねる影に向かって地を蹴る。
飛んだ。
人が跳べるのか、疑わしい距離を。
雨を吸った草原の土が、足裏にまとわりつくはずなのに。
フェリクスの身体は風のように軽やかだった。
空中で剣を振ると、雨粒と霧が軌道を照らし出す。
弧を描く白光が、牙をむく甲殻を裂いた。
落下と同時に泥を踏みしめ、フェリクスは最後の一体と向かい合う。
「……最後だな」
低く漏らす声は、どこか冷静で、余裕すらあった。
最後の地潜り蜂はフェリクスの動きを読み切れず、もどかしいほど鈍い突進を繰り返す。
霧雨の中、その巨体が揺れ、泥を巻き上げて迫る。
フェリクスは跳ばなかった。
ぎりぎりの距離まで引きつけ、前足が地を踏み込む瞬間、わずかに体をずらし、刺し貫くように剣を突き立てた。
甲殻を砕く乾いた音と共に、巨体が崩れ落ちる。
フェリクスは一歩後ろに下がり、息を整えるように肩だけを小さく揺らした。
それだけだった。
息を乱すどころか、心拍すら乱れていないように見える。
「……強すぎでしょ」
思わず漏れたアルの声は、自分でも意外なほど小さかった。
馬車から降りてきたカルナが、泥を踏んで近づく。
「その年でその技量、そして成長速度。
さすがは天灯を継ぐものだな」
「単に、じいさんのしごきが尋常じゃなかっただけだろ」
突き刺した剣を抜くと、剣に付着した液体を振り払う。
そこに何の力みもない。自分の強さに実感がないかのように。
「戦うなら、最善の手を考えながら戦えって、じいさんにずっと言われてたんだ。……やっと分かったような気がする」
フェリクスがこちらを見た。
真っ直ぐで、迷いのない目だった。
「今度は、守る。絶対に」
雨に濡れた赤茶の髪が頬に張りつき、その表情は大人びて見えた。
アルの心臓がぎゅっと締め付けられた。
「ありがとう。わたしも、フェルを守るよ」
誇りと、安心と、少しの切なさの混ざったものが胸の中で膨らみ、そう絞りだすと、フェリクスは照れたように視線を落とした。
「おいおい、ゼスさんに少し獲物を残すとかはないものかねぇ。バッサバッサいっちゃって、まあ」
呆れた口調でいつのまにか馬車から降りたゼスが、切り捨てた地潜り蜂の切り口を観察している。
「これだけキレイにいくと、刃こぼれもさせていないんでしょ。この甲殻、相当硬いのにさ」
「繊維に沿って絶ったらいけるだろ」
「それができねえんだわ、普通は」
「……普通だと思っていた」
ゼスが指先で切断面をなぞると、つるりと滑った。
地潜り蜂の甲殻は鍛冶師泣かせと言われるほど強靭だ。
その装甲を、まるで柔らかい枝でも断ち切ったかのような滑らかさで斬り伏せている。
感心するゼスをよそに、フェリクスが遠いところを見るので、ガスパルとの日々を思い出していることは間違いない。
アルもつられて思い出しかけたが、そっと記憶に蓋をすることに成功した。




