35.射手
王都を発って七日が過ぎようとしている。
カルナが操る馬車とともに、北の山裾を縫うように走っていた。
草原から雑木林へと、風景も変わっている。
本来なら、マリノスへ至る最短ルートは、主要路の南東から川沿いに進む街道だ。
敢えて北寄りを選ぶのは、このほうが結果的に早いだろうと叔父が主張したからだ。
馬車の持ち主でもあり、年長者である。
旅慣れたふうに見える叔父は、職業柄様々な土地に行くのだと言う。
尋常ならざる迫力のある美丈夫は、三人に事前に相談した。
「私の都合なんだが、ここから一日北へ進めば、山の麓に湖がある。その湖を見たいと思っている。それに加えて、そこにいる村人に会いたいんだが、迂回していいか」
叔父は、誠実さを持ち合わせているらしい。
アルたちからすると、何となく方角は分かりこそすれ、周り道をしているかどうかまでは、はっきりと確信できない。
夜空に星が出ればもっと正確に方角も定まるのだが。
その状況も察しているだろうに、断りを入れてくる辺り、律儀であると言えた。
「わたしは別にいいよ」
「おれも」
「おっれもー」
三人が口々に同意すると、カルナは満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。では、そうさせてもらう」
そして、一行は北へと進路を変えた。
山並みがより近くなり、針葉樹が増え、空気は肌を刺すように冷たくなってきた。
小雨にまだみぞれが混じる様子はないものの、肌寒さは否めない。
先行するフェリクスが巧みに地盤の硬い場所へ誘導するが、雨続きで泥濘の部分も見受けられる。
車輪がはまれば、抜け出すのに相当な労力を要するだろう。
叔父の話では、件の湖が氾濫し、港町マリノスに幾度か土砂が流れ込んできたらしい。
そのため、マリノスに近づくには南寄りの柔らかい土壌となった主要路より、王都から北回りで山裾を伝うルートこそが、実は今や最も確実で効率的な道なのだと言う。
ブルルル、と馬車を引く馬が止まった。
カルナが手綱を引いていた。
少し前を進んでいたフェリクスが、気づいてブレイドを止める。
「どうした?」
「少し、あの木の下で雨宿りがてら、腹ごしらえをしよう」
耳を澄ませば、雨の音の向こうで風が細く鳴っている。木々のざわめきは弱い。
天気のせいだけじゃない。
どことなく、空気が変だ。
フェリクスは特に気にする様子もなく馬を降りている。
ゼスも気にならない様子だが、彼の場合は平常心を保つのが抜群にうまい。
そして、そのくせ。
「どしたの? 変な顔して」
人の機微を読むことに長けている。
アルの、言葉にできないほどの違和感を察知するなど、ガスパル以外にできなかったのに。
馬車から降り、アルに手を差し出しながら、ゼスは聞いた。
「この辺り、何か……」
口にした言葉は、雨音に吸い込まれるように消えた。
空気が動いた。
ゼスの目がかすかに細められ、周囲をゆっくりと見渡した。
「あー、そういうこと」
ゼスの言葉の終わりとともに、数本の、奇妙な形状の矢が、雨を裂くように木立の奥から飛来した。
その先端には、硬質な骨のようなものが鋭く加工されて取り付けられている。
狙いはカルナとフェリクス。彼らがいる方向だ。
「っ!」
アルは息を呑んだ。
一瞬の出来事。
ゼスと同タイミングで気づいたのだろう。フェリクスはすでに剣を抜き払っている。
しかし、カルナは。
ゼスがすでに動いていた。
しなやかで、ほとんど音を立てない身のこなし。
まるで森の風そのものが形を変えたかのように、彼は地面を滑る。
その動きは、アルの目には残像しか捉えられない。
その手には、いつの間にか携えられていた短弓が握られていた。
緑還の弓。
それは深い森の色を映したような暗緑色の蔦が装飾された、次期族長から預かった、森の護りの一族の長の証。
ゼスの右手の指先が、弓の弦を引く。
真の使い手がつがえれば、おのずと矢が出てくる。
弦がわずかに引かれた瞬間、弓の中央から光の矢が生まれた。
それは、かすかに緑がかった燐光を放つ、実体のない光の塊。
ゼスは二本の矢を、飛来してきた魔獣の矢の軌道上に、ほぼ同時に放った。
光の矢が空気と擦れる微かな音。
一本目は、カルナの頭上すれすれを狙ってきた矢に、正確に衝突。
骨と光がぶつかる音もなく、相手の矢は光の力によって弾き飛ばされ、木立の方向へ逸れていった。
二本目は、カルナの胸元を狙った矢を迎撃。
矢は空中で光の矢に貫かれ、砕け散った。
奇妙な骨の破片が雨の中に散る。
しかし、攻撃はそれだけでは終わらない。
初弾を放った敵は、すぐに次の射撃準備に入っている。
ゼスはすでに最初の位置から移動し、短弓を素早く背中に戻すと、短刀を左手に持ち替えた。
身を低くして敵のいる方向へ向かって、静かに、だが信じられない速度で走り出した。
彼は敵から目を離さない。
「ゼス!」
林の中に突入したゼスに、アルは驚き声を上げた。
ゼスは振り返らない。
彼にとって、馬車を守ることは、その場に留まることではない。
敵の意識を自分に集中させ、攻撃の起点を潰す。
それが最速の守りだ。
木々の間を、まるで地面から生えた影のように、ほとんど音もなく縫うように進む。
その身のこなしは、敵の矢を紙一重でかわすことを前提にしているかのようだ。
目的は一つ。
敵の射手を、無力化すること。
敵は動揺した様子もなく、次にゼス自身を狙って矢を放ってくる。
四本目、五本目、六本目。
矢は、しなやかな身のこなしで左右に揺れ動くゼスの身体を捉えきれない。
彼は最短距離を進むのではなく、敵の予測線を外すように、絶えず軌道を変える。
時に低く身をかがめ、時に地面を蹴って飛び上がり、矢をかわす。
そして、敵との距離が詰まる。
木陰に潜んでいた猿型の獣の姿が見えた。
それは、全身を黒く硬い毛皮に覆われ、四肢は長く、顔は人のように歪んでいる。
そいつは、焦りの色を浮かべながら、手にした歪な弓を捨て、鋭く研がれた石槍に持ち替えようとする。
「骨猿、ね!」
その瞬間、ゼスは一気に加速した。
最後のひと蹴り。彼の身体は地面から放たれた矢のようだった。
彼は魔獣の懐に飛び込み、すれ違いざまに左手の短刀を振るう。
正確に猿の頚椎に叩き込む。
断末魔を上げて猿は倒れた。
ゼスは背後に声をかけた。
「フェリクス!」
「おう!」
離れた位置にいたもう一頭が甲高い奇声を上げて馬車側に飛び出してきた。
唸り声を上げながら棍棒を振り回している。
その速度は人間離れしており、常人には反応すら難しい。
すでに馬車の前にいたフェリクスは棍棒が振り下ろされる軌道の横に、一瞬で身を滑り込ませた。
その回避は、まるで空間が歪んだかのような超高速の横移動だ。
棍棒が空を斬ったその一瞬の隙を逃さない。
彼は、体勢を崩すことなく、流れるような動作で剣を繰り出した。
「……っ!!」
フェリクスの剣から、鋭い剣閃が放たれた。
その一撃は、棍棒を弾き飛ばすだけでなく、獣の腕の主要な腱を正確に切り裂き、瞬時に無力化する。
斬撃は正確無比。戦線を離脱させるには十分だ。
魔獣は甲高い悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちた。
戦闘はごくわずかな時間で終了した。
アルはその状況に目を瞠りながら、すぐ横にアルを庇うように身構えていたカルナにようやく気がついた。




