34.執務室──王都封鎖
その騒ぎが王の元へ届いたのは、重症の王弟ヴォルクレイが王宮に担ぎ込まれてすぐのことだった。
王城の長い回廊は、いつも以上に緊張に包まれ、夜番の兵たちの鎧が小さく触れ合う音すら響いていた。
宰相と将軍は、連れ立って王に至急の面会を申し出た。
王の執務室には、夜更けの空気が沈んでいた。
分厚い石壁に囲まれた部屋はひんやりとして、長時間燃え続けた蝋燭の匂いがわずかにこもっている。
蝋燭の光が揺らめき、壁の影を長く伸ばす。
王は書簡を手にしていたが、その封を切ることなく、静かに視線だけを二人に向けた。
書簡の封蝋にはまだ剣先を入れた跡すらない。
その様子から、王がふたりの到着を予感していたかのようにも思えた。
「ヴォルクレイが従者に襲われた?」
「はっ」
将軍ハンスの短い応答の後、宰相のフォルネウスが続ける。
二人の声は緊張に固く縛られ、部屋の静寂に吸い込まれるように低く響いた。
「我々がついていながら、誠に申し訳ありません。
聖務長らと共に大聖堂前にいた際、背後に控えていた従者が急に錯乱し、ヴォルクレイ様の腰の剣を奪い取り、事に及びました。さらに危害を加えようとした従者は将軍の手により討たれましたが、王弟殿下は深手を負い、意識が戻りませぬ」
「最初から順を追って話せ」
王の声音は冷静だった。驚きよりも、確認を求める響き。宰相は深く頭を垂れた。
「はい。本日の証の灯火は中止せざるを得ませんでした。星詠みが復活したと思わざるを得ません。その一部始終をご報告します」
その後、宰相の話は客観的な視点から、自身の推測を加えることなく語られた。
将軍ハンスは微動だにせず、宰相の話を聞いている。
王の机の上には、読みかけの地図や政務文書が整然と積まれているが、そのどれにも今は手を触れようとしない。
地が割れ、鳥と人影が浮かび上がり、光とともに消えたという件では、王が深く頷く場面もあった。
まとまった宰相の話は長くはない。
王──ゾディアス・グレイモンドは、いくつもの可能性を脳裏に浮かべた。
その瞳は、重い何かを見据えているようだった。
「ハンス。お前が気づいたことはあるか」
「はっ」
将軍ハンスが一歩前に出た。
その足取りには迷いはなく、床石に響く靴音が、沈み込んだ空気に一筋の芯を通す。
その姿には、先ほどまで血の匂いをまとっていた気配が残っているが、王が気にした様子はない。
「従者は静寂を保ち、しかし、王弟殿下に刃を向けた瞬間のみ、気が迸っていたように感じました」
「ほう」
武官の報告は、文官とは目の付け所が異なる。
文官では感じ取れないものを察知する。
そして、王もどちらかというと武官よりだ。
王の指先が卓を軽く叩き、考えがひとつの形を成しつつある気配が漂った。
「フォルネウス卿、ヴォルクレイは何か他に言ってなかったか」
「搬送の際、意識は朦朧としておりましたが……殿下は『薬』と、そう仰ったそうです」
王は、その報告に眉ひとつ動かさなかった。ただ静かに、その言葉の響きだけを反芻する。
執務室にある時計の振り子の音が、ひときわ大きく感じられた。
「『薬』か」
ゾディアス・グレイモンドの視線が、再び宰相フォルネウスに向かった。
その目に宿る光は、何を考えているのかを伺い知ることはできない。
王の顔には、動揺も怒気も浮かんでいない。
「フォルネウス卿。これを、単なる従者の錯乱と見るか? あるいは、ハンスの言う『気』の迸りから、何か別の力の介入があったと見るか?」
宰相は、一瞬の躊躇もなく深く頭を垂れた。
「恐れながら申し上げます。殿下の一言は、薬物による錯乱や毒の可能性を示唆します。しかし、殿下がご自身で従者にそのようなものを与えるはずがございません。殿下も民衆の熱狂に煽られ、興奮状態にございました。従者が何らかの敵対勢力の手の者に薬物を盛られたか、または、あの地が割れ、光が放たれたという異常事態、すなわち星詠みの復活と関連付けて考えるべきかと存じます。あの従者は、星詠みの残滓、あるいはその眷属に利用された狂言者である可能性が、最も高いと愚考いたします」
その推測は、ヴォルクレイの秘密を知らない者としては、最も合理的かつ、王族の威厳を守るための解釈だった。
宰相の声音には責務がにじんでいた。
「ハンス、お前はどう思う」
将軍ハンスは、宰相の論を否定に近い形で、武人の簡潔さで答える。
その横顔は、戦場で真実と嘘を嗅ぎ分けてきた者の確信をたたえている。
「狂気以上に確固たる意志を感じました。ただの毒や狂言ではない、明確な敵意があったと」
王は、二人の言葉を聞き終えると、手にしていた書簡を卓に置いた。
蝋燭の炎が、その横顔を冷ややかに照らす。
その動きは穏やかだが、部屋の空気はさらに重く沈んだ。
「薬、そして星詠み」
王は立ち上がった。
その姿は、静けさの中に威厳を帯びている。
衣の裾がわずかに揺れ、その影が壁に大きく映し出された。
「どちらにせよ、ヴォルクレイが意識を失い、従者が死んだ今、真実を知る者はいない。しかし、この事件を単なる狂言として終わらせるわけにはいかない」
王は二人に、有無を言わせぬ命令を下した。
「ハンス。従者の遺体と現場を、徹底的に調べさせよ。薬物の痕跡、怪しい印、あらゆる異変を見逃すな。そして、従者の身辺、特にこの数日の行動を全て洗い出せ」
「はっ!」
「フォルネウス卿。大聖堂前に集まっていた民衆、そして従者の身内から、薬や狂気を思わせる言動、或いは異常な行動の広がりがないか、探りを出せ。ヴォルクレイが言った薬が、既に毒として市井に広がっていないか、急ぎ確認せよ」
「承知しました」
二人の返答が、静まり返った執務室に響いた。
それは、まるで王国の命運そのものが動き始めた合図のようだった。
「そして、星詠み」
王の指が卓を叩く。
「草の根を分けても探し出す必要がある。
フォルネウス卿、王都を閉鎖せよ。入都と同様の手順でのみ、出ていくことを許可する。いつになる?」
「明日には」
「朝のうちに完了せよ」
「承知しました」
ここで王が将軍ハンスを見ると、了承の意を込めて小さく頷いた。
実際に門の開閉を取り締まるのは王都兵になる。
宰相へ指示をしたのは、その指示に伴う各所への手回しが必要だからだ。
王の指示を持って報告は終了するはずだった。
珍しく、ハンスが自ら申し出るまでは。
「陛下。部下の振り下ろす槍を受け止めた子どもを見ました」
「……子ども?」
王は訝しげに将軍を見たが、続きを急かすことはなかった。
この男が報告を要すと判断した事柄は、高い確率で必要な内容だ。
「はい。体捌きを見ましたが、天灯の動きに酷似していました」
ガタンと音を立てて椅子が動いた。
立ち上がった王の目は爛々と輝いている。
「どこにいる」
「やむなく放逐いたした」
「なぜだ!」
王の叱責に将軍は怯まなかった。
「ヴォルクレイ公の事前の指示により、民のほぼ全ての敵意が王宮に向けられる恐れが高いと判断いたしました」
「どういうことだ」
王は宰相を見た。
宰相は王弟が刺された経緯は報告していたが、王弟の発言は省かれていた。
「失礼しました。
確かにヴォルクレイ様は兵に対し『すべて、殺せ』と命じられました。
止めようとした私にも『王家に仇をなす者に与するか』と激昂されておりました」
「愚か者が!」
王の怒りは、目の前の宰相か、それとも今際の際に立つ弟に対してか判別しがたい。
王族に忖度する能力が皆無の将軍ハンスが一歩踏み出た。
「『捕えよ』と出した指示を、一部は『抵抗するものを殺せ』と理解した。連行される母を庇おうとした幼子を槍で跳ね除ける兵がおりました」
「……それを受け止めたのが、天灯の一族の動きを模倣する子ども、というわけか」
さらには、少年を庇うシスターなどもおり、その場で少年を捕らえるにはあまりにも大義に欠けていた。
王は厳しい目線を頭を下げる宰相と将軍に向けていたが、短くない沈黙の後、長く吐息した。
「やむを、得まい」
王はあらためて指示を下した。
「エルデュランに詰問の使者を派遣せよ。
それと、ヴォルクレイの従者にまつわる調査は念入りに行え」
王弟のうわ言は、王の注意を「薬」と「広がり」という、彼の計画の核であった部分に、皮肉にも真っ向から引きつけてしまっていた。




