巴
寺へ戻ると、巴は綾姫の傍らに座り、額へ手を当てていた。
「戻りました」
恒一の声に、巴がすぐ振り返る。
「水は見つかりましたか?」
「ええ。クルミが案内してくれました」
「クルミ?」
巴が聞き返す。
恒一が答えるより先に、後ろから小さな声がした。
「……うん」
二人が振り向く。
木桶を抱えた褐色の娘が、いつもの無表情のまま小さく頷いた。
「クルミ」
自分の名を確かめるように、もう一度口にする。
表情はほとんど変わらない。
だが、その声にはほんのわずかに柔らかい響きがあった。
「そうですか。クルミというのですね」
巴がそう言うと、クルミはまた小さく頷いた。
「うん」
その返事は、先ほどよりほんの少しだけ早かった。
恒一は桶を床へ下ろし、綾姫のもとへ歩み寄る。
頬はまだ赤く、呼吸も浅い。
身体機能調査を起動すると、青白い表示が浮かび上がった。
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【対象:畠山 綾】
体温 38.4℃
心拍数 134bpm
疲労 96%
脱水 中等度
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(ほとんど下がってないか)
恒一は川の水へ布を浸し、固く絞った。
「すみません、姫様の着物を少し緩めてもらえますか。脇の下と、脚の付け根を冷やしたい。そこはお願いします」
巴は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに意味を理解したらしい。
「承知しました」
「クルミは、こっちの布を水に浸して絞ってくれる?」
「……うん」
クルミは床へ膝をつき、言われた通り布を水へ沈めた。
手際は決して良くない。
だが、恒一の動きを見ながら懸命に真似ている。
「強く絞って。水が垂れないくらい」
「……こう?」
「そう。それで大丈夫」
クルミは絞った布を差し出した。
恒一はそれを受け取ると、綾姫の首元へ当てる。
ひやりとした感触に、綾姫の身体がわずかに震えた。
「姫様……」
巴が心配そうに身を乗り出す。
「大丈夫です。急に冷たくなって驚いただけです」
恒一はもう一枚の布を取り、綾姫の膝をわずかに立てた。
膝裏へそっと布を差し入れる。
「ここも冷やします」
「そこにも、ですか?」
「血の流れが多い場所なんです。身体の熱を逃がしやすい」
「血の流れ……」
巴は聞き慣れない言葉を反芻するように呟いた。
疑っている様子はない。
ただ、知らない知識を一つでも理解しようとしている。
「そちらもお願いします」
「はい」
恒一が背を向けると、巴は綾姫の衣を緩め、脇の下と大腿部の付け根へ冷たい布を当てていった。
「クルミ。次の布を」
「……うん」
クルミが新しい布を渡す。
「それと、あの服を持って仰いでくれる?」
クルミは床へ置かれていた麻の衣を手に取った。
最初はぎこちなく、小さく動かすだけだった。
「もう少し大きく」
恒一が手本を見せる。
クルミは真似をして、今度はゆっくりと大きく風を送った。
綾姫の髪がわずかに揺れる。
「そう。そのまま続けて」
「……うん」
巴が処置を終え、衣を整える。
「終わりました」
「ありがとうございます」
恒一は綾姫の頭をそっと抱き起こした。
先ほど交換したスポーツドリンクを口元へ運ぶ。
「姫様。少しだけ飲んでください」
綾姫の瞼がわずかに動く。
「……ん……」
「ゆっくりで大丈夫です」
唇へ少しずつ液体を流し込む。
一口。間を置いて、もう一口。
むせないことを確かめながら飲ませていく。
その間も、クルミは黙って風を送り続けていた。
巴は濡れた布が温くなれば取り替え、新しい布を恒一へ渡す。
誰かが指示を待つこともなく、三人は自然と役割を分けていた。
しばらくして、再び数値を確認する。
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【対象:畠山 綾】
体温 38.1℃
心拍数 126bpm
脱水 軽度
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「少し下がった……」
恒一が息を吐く。
巴は表示を見ることはできない。
それでも恒一の声で、容体が良くなっていることを察したらしい。
「峠は越えたのですか?」
「まだです。でも、さっきよりはいい」
巴は胸元へ手を当て、静かに息を吐いた。
「良くなっているのなら、よかった……」
クルミは仰ぐ手を止めないまま、綾姫の顔をじっと見つめていた。
その夜、三人は交代しながら看病を続けた。
布が温くなれば川の水で冷やし、喉が乾けば少しずつ飲ませる。
綾姫の呼吸は次第に穏やかになり、日付が変わる頃には深い眠りへ落ちていた。
◆
深夜。
寺の隙間から差し込む月明かりが、板張りの床を淡く照らしていた。
綾姫は簡素な寝具の上で眠っている。
少し離れた場所では、クルミが床へ左向きに寝そべっていた。
布団を使うことにも慣れていないのか、渡された布を胸元へ抱き込むようにして眠っている。
恒一と巴は、綾姫の傍らへ並んで座っていた。
静かな寝息。
遠くから聞こえる虫の声。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。
やがて巴が口を開く。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい」
恒一は声を潜めて答えた。
「恒一殿は、どちらのお国から来られたのですか」
恒一は少しだけ目を細める。
「どうして、そう思うんです?」
「見たことのない装束。聞いたことのない言葉。そして、相手を遠くから爆ぜさせる武器」
巴は眠る綾姫へ一度視線を向け、それから恒一を見る。
「姫様へ施した手当ても、私は見たことがありません」
「なるほど」
「異国の方か、あるいは異国で多くの知識を学んだ方なのだと思っています」
恒一はすぐには答えなかった。
未来から来た。
そんなことを話したところで、信じてもらえるとは思えない。
それ以前に、自分自身がまだ何も理解していない。
「遠いところです」
「遠い異国……ですか」
「ええ。かなり遠い」
嘘ではなかった。
距離ではなく、時間が途方もなく離れているだけだ。
「そこで、何をされていたのですか?」
恒一は少し考える。
「人を助ける仕事をしていました」
「人を?」
「山が崩れたり、川が溢れたり、建物が壊れたり。そういう時に、取り残された人を助けます」
巴は静かに耳を傾けている。
「時には、大切な人や国を守るために戦うこともありました」
「それは……武士、ということでしょうか」
恒一は小さく笑った。
「たぶん、ここではそう言うんだと思います」
「では、やはり武士なのですね」
「でも、身分が高いわけじゃありません」
「武士であることと、身分の高さは必ずしも同じではありません」
「そういうものですか」
「はい」
巴の返事は真面目だった。
再び、短い沈黙が落ちる。
巴は膝の上で両手を揃えた。
「……助けてくださり、ありがとうございました」
突然の言葉に、恒一は巴を見る。
巴は深く頭を下げていた。
「姫様だけではありません。私も、あの娘も。あなたが来なければ、どうなっていたか」
「いえ」
「警戒し、無礼な態度も取りました」
「あの状況なら当然ですよ。知らない男が急に現れたんですから」
「それでも、です」
巴はゆっくりと顔を上げた。
「礼を申し上げるのが遅くなりました」
「気にしないでください」
恒一は少し困ったように頭を掻く。
「えっと、矢崎さんは……」
「巴とお呼びください」
「え?」
「矢崎と呼ばれるより、その方が慣れています」
「あ……わかりました……巴さん」
巴は一瞬だけ考えた後、恒一へ尋ねる。
「そういえば、私はまだ、あなたのお名前をきちんと伺っておりませんでした」
「神代恒一です」
「神代殿」
「恒一でいいですよ」
「ですが、武士の方を名で呼び捨てにするのは」
「殿もいりません。そんなに偉くないですし」
「しかし……」
巴が困ったように眉を寄せる。
「俺のじだ……」
恒一は言いかけたが、寸前で言葉を止める。
「……俺の国では、男女で名前を呼び合うのは珍しくないんです」
「男女で、ですか」
「はい。だから、お互いもう少し砕けて話すのはどうかな」
巴は戸惑ったように恒一を見る。
城で初めて出会った時は、警戒心から敬語を使わなかった。
しかし今は、相手を異国の武士だと考えている。
だからこそ、無意識に距離を取る話し方へ変わっていた。
「わかり……」
巴は一度言葉を止める。
「わかっ……た」
言い直した声には、まだ少し硬さが残っている。
「それなら……遠慮はしない」
「それでいい」
「ですが、呼び捨ては難しい」
「じゃあ、何て呼ぶんだ?」
巴は少し悩んだ。
「恒一殿」
「殿はいらないって」
「では、恒一……さん」
今度は恒一が微妙な顔をする。
「それも、この時代だと変じゃない?」
「あなたの国の呼び方なのでしょう」
「まあ、そうだけど」
巴はほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、恒一」
一瞬。
恒一は目を丸くした。
「おお」
「何ですか」
「いや。言えるんだなと思って」
「言わせたのはそちらでしょう」
「確かに」
二人は声を抑えながら、小さく笑った。
その直後。
床へ寝そべっていたクルミが、わずかに身じろぎする。
二人は同時に口を閉ざした。
クルミは目を覚ましたわけではないらしく、胸元の布を抱き直して再び静かになった。
恒一は綾姫へ視線を戻す。
呼吸は穏やかだ。
巴も同じように綾姫を見つめていた。
「恒一」
「ん?」
「姫様は、助かるのか?」
恒一は綾姫の額へ手を当てる。
熱は残っている。
それでも、先ほどまでの灼けるような熱さではない。
「大丈夫」
恒一は静かに答えた。
「明日には、きっと目を覚ますよ」
巴はその言葉を聞き、ようやく肩の力を抜いた。
「そうか……」
月明かりの中。
二人はそれ以上話さず、眠る綾姫を見守り続けた。




