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11/12


 寺へ戻ると、巴は綾姫の傍らに座り、額へ手を当てていた。


「戻りました」

 恒一の声に、巴がすぐ振り返る。


「水は見つかりましたか?」


「ええ。クルミが案内してくれました」


「クルミ?」

 巴が聞き返す。


 恒一が答えるより先に、後ろから小さな声がした。

「……うん」


 二人が振り向く。


 木桶を抱えた褐色の娘が、いつもの無表情のまま小さく頷いた。


「クルミ」

 自分の名を確かめるように、もう一度口にする。

 表情はほとんど変わらない。


 だが、その声にはほんのわずかに柔らかい響きがあった。


「そうですか。クルミというのですね」

 巴がそう言うと、クルミはまた小さく頷いた。


「うん」

 その返事は、先ほどよりほんの少しだけ早かった。


 恒一は桶を床へ下ろし、綾姫のもとへ歩み寄る。

 頬はまだ赤く、呼吸も浅い。

 身体機能調査を起動すると、青白い表示が浮かび上がった。


 ━━━━━━━━━━━━

 【対象:畠山 綾】


  体温 38.4℃

  心拍数 134bpm

  疲労 96%

  脱水 中等度

 ━━━━━━━━━━━━


(ほとんど下がってないか)


 恒一は川の水へ布を浸し、固く絞った。


「すみません、姫様の着物を少し緩めてもらえますか。脇の下と、脚の付け根を冷やしたい。そこはお願いします」


 巴は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに意味を理解したらしい。

「承知しました」


「クルミは、こっちの布を水に浸して絞ってくれる?」


「……うん」


 クルミは床へ膝をつき、言われた通り布を水へ沈めた。


 手際は決して良くない。

 だが、恒一の動きを見ながら懸命に真似ている。


「強く絞って。水が垂れないくらい」


「……こう?」


「そう。それで大丈夫」


 クルミは絞った布を差し出した。

 恒一はそれを受け取ると、綾姫の首元へ当てる。

 ひやりとした感触に、綾姫の身体がわずかに震えた。


「姫様……」

 巴が心配そうに身を乗り出す。


「大丈夫です。急に冷たくなって驚いただけです」

 恒一はもう一枚の布を取り、綾姫の膝をわずかに立てた。

 膝裏へそっと布を差し入れる。


「ここも冷やします」


「そこにも、ですか?」


「血の流れが多い場所なんです。身体の熱を逃がしやすい」


「血の流れ……」

 巴は聞き慣れない言葉を反芻するように呟いた。


 疑っている様子はない。

 ただ、知らない知識を一つでも理解しようとしている。


「そちらもお願いします」


「はい」


 恒一が背を向けると、巴は綾姫の衣を緩め、脇の下と大腿部の付け根へ冷たい布を当てていった。


「クルミ。次の布を」


「……うん」


 クルミが新しい布を渡す。


「それと、あの服を持って仰いでくれる?」


 クルミは床へ置かれていた麻の衣を手に取った。

 最初はぎこちなく、小さく動かすだけだった。


「もう少し大きく」


 恒一が手本を見せる。

 クルミは真似をして、今度はゆっくりと大きく風を送った。


 綾姫の髪がわずかに揺れる。


「そう。そのまま続けて」


「……うん」


 巴が処置を終え、衣を整える。


「終わりました」


「ありがとうございます」


 恒一は綾姫の頭をそっと抱き起こした。

 先ほど交換したスポーツドリンクを口元へ運ぶ。


「姫様。少しだけ飲んでください」


 綾姫の瞼がわずかに動く。


「……ん……」


「ゆっくりで大丈夫です」


 唇へ少しずつ液体を流し込む。


 一口。間を置いて、もう一口。

 むせないことを確かめながら飲ませていく。


 その間も、クルミは黙って風を送り続けていた。

 巴は濡れた布が温くなれば取り替え、新しい布を恒一へ渡す。


 誰かが指示を待つこともなく、三人は自然と役割を分けていた。


 しばらくして、再び数値を確認する。


 ━━━━━━━━━━━━

 【対象:畠山 綾】


  体温 38.1℃

  心拍数 126bpm

  脱水 軽度

 ━━━━━━━━━━━━


「少し下がった……」


 恒一が息を吐く。


 巴は表示を見ることはできない。

 それでも恒一の声で、容体が良くなっていることを察したらしい。


「峠は越えたのですか?」


「まだです。でも、さっきよりはいい」


 巴は胸元へ手を当て、静かに息を吐いた。


「良くなっているのなら、よかった……」


 クルミは仰ぐ手を止めないまま、綾姫の顔をじっと見つめていた。


 その夜、三人は交代しながら看病を続けた。

 布が温くなれば川の水で冷やし、喉が乾けば少しずつ飲ませる。


 綾姫の呼吸は次第に穏やかになり、日付が変わる頃には深い眠りへ落ちていた。


     ◆


 深夜。

 寺の隙間から差し込む月明かりが、板張りの床を淡く照らしていた。


 綾姫は簡素な寝具の上で眠っている。


 少し離れた場所では、クルミが床へ左向きに寝そべっていた。


 布団を使うことにも慣れていないのか、渡された布を胸元へ抱き込むようにして眠っている。


 恒一と巴は、綾姫の傍らへ並んで座っていた。


 静かな寝息。

 遠くから聞こえる虫の声。


 しばらくの間、二人とも何も話さなかった。


 やがて巴が口を開く。

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「はい」

 恒一は声を潜めて答えた。


「恒一殿は、どちらのお国から来られたのですか」


 恒一は少しだけ目を細める。

「どうして、そう思うんです?」


「見たことのない装束。聞いたことのない言葉。そして、相手を遠くから爆ぜさせる武器」


 巴は眠る綾姫へ一度視線を向け、それから恒一を見る。

「姫様へ施した手当ても、私は見たことがありません」


「なるほど」


「異国の方か、あるいは異国で多くの知識を学んだ方なのだと思っています」


 恒一はすぐには答えなかった。

 未来から来た。

 そんなことを話したところで、信じてもらえるとは思えない。


 それ以前に、自分自身がまだ何も理解していない。


「遠いところです」


「遠い異国……ですか」


「ええ。かなり遠い」


 嘘ではなかった。

 距離ではなく、時間が途方もなく離れているだけだ。


「そこで、何をされていたのですか?」


 恒一は少し考える。

「人を助ける仕事をしていました」


「人を?」


「山が崩れたり、川が溢れたり、建物が壊れたり。そういう時に、取り残された人を助けます」


 巴は静かに耳を傾けている。


「時には、大切な人や国を守るために戦うこともありました」


「それは……武士、ということでしょうか」


 恒一は小さく笑った。

「たぶん、ここではそう言うんだと思います」


「では、やはり武士なのですね」


「でも、身分が高いわけじゃありません」


「武士であることと、身分の高さは必ずしも同じではありません」


「そういうものですか」


「はい」

 巴の返事は真面目だった。


 再び、短い沈黙が落ちる。


 巴は膝の上で両手を揃えた。

「……助けてくださり、ありがとうございました」


 突然の言葉に、恒一は巴を見る。

 巴は深く頭を下げていた。


「姫様だけではありません。私も、あの娘も。あなたが来なければ、どうなっていたか」


「いえ」


「警戒し、無礼な態度も取りました」


「あの状況なら当然ですよ。知らない男が急に現れたんですから」


「それでも、です」


 巴はゆっくりと顔を上げた。


「礼を申し上げるのが遅くなりました」


「気にしないでください」

 恒一は少し困ったように頭を掻く。


「えっと、矢崎さんは……」


「巴とお呼びください」


「え?」


「矢崎と呼ばれるより、その方が慣れています」


「あ……わかりました……巴さん」


 巴は一瞬だけ考えた後、恒一へ尋ねる。

「そういえば、私はまだ、あなたのお名前をきちんと伺っておりませんでした」


神代(かみしろ)恒一(こういち)です」


「神代殿」


「恒一でいいですよ」


「ですが、武士の方を名で呼び捨てにするのは」


「殿もいりません。そんなに偉くないですし」


「しかし……」

 巴が困ったように眉を寄せる。


「俺のじだ……」

 恒一は言いかけたが、寸前で言葉を止める。

「……俺の国では、男女で名前を呼び合うのは珍しくないんです」


「男女で、ですか」


「はい。だから、お互いもう少し砕けて話すのはどうかな」


 巴は戸惑ったように恒一を見る。

 城で初めて出会った時は、警戒心から敬語を使わなかった。

 しかし今は、相手を異国の武士だと考えている。


 だからこそ、無意識に距離を取る話し方へ変わっていた。


「わかり……」

 巴は一度言葉を止める。


「わかっ……た」

 言い直した声には、まだ少し硬さが残っている。

「それなら……遠慮はしない」


「それでいい」


「ですが、呼び捨ては難しい」


「じゃあ、何て呼ぶんだ?」


 巴は少し悩んだ。


「恒一殿」


「殿はいらないって」


「では、恒一……さん」


 今度は恒一が微妙な顔をする。

「それも、この時代だと変じゃない?」


「あなたの国の呼び方なのでしょう」


「まあ、そうだけど」


 巴はほんの少しだけ口元を緩めた。

「では、恒一」


 一瞬。


 恒一は目を丸くした。

「おお」


「何ですか」


「いや。言えるんだなと思って」


「言わせたのはそちらでしょう」


「確かに」


挿絵(By みてみん)


 二人は声を抑えながら、小さく笑った。


 その直後。

 床へ寝そべっていたクルミが、わずかに身じろぎする。


 二人は同時に口を閉ざした。


 クルミは目を覚ましたわけではないらしく、胸元の布を抱き直して再び静かになった。


 恒一は綾姫へ視線を戻す。

 呼吸は穏やかだ。


 巴も同じように綾姫を見つめていた。


「恒一」


「ん?」


「姫様は、助かるのか?」


 恒一は綾姫の額へ手を当てる。

 熱は残っている。

 それでも、先ほどまでの灼けるような熱さではない。


「大丈夫」

 恒一は静かに答えた。


「明日には、きっと目を覚ますよ」


 巴はその言葉を聞き、ようやく肩の力を抜いた。

「そうか……」


 月明かりの中。


 二人はそれ以上話さず、眠る綾姫を見守り続けた。

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