胡桃
恒一は寺の隅へ置かれていた木桶を二つ手に取ると、外へ出た。
夕暮れの山は静かだった。
鳥の鳴き声だけが木々の間へ響く。
(水さえあれば、身体を冷やせる)
周囲を見回すが寺の周りは木に囲まれているだけだった。
(A.R.G.O.S.、この近くに川はないのか)
恒一がそう言うと、ホログラムが起動した。
━━━━━━━━━━━━
【回答】
スキル不足。
水源を特定できません。
地理情報収集スキルレベル1
が必要です。
取得しますか?
必要Pt:500
━━━━━━━━━━━━
「タダじゃないのかよ……」
小さくぼやいた、その時だった。
「……こっち」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り返ると褐色の娘が立っていた。
異国……現代で言う中東系の目鼻立ちが整った女性で、他の2人に比べて高身長であることも特徴的だった。
彼女はいつの間にか木桶を二つ抱えて立っている。
「川の場所を知ってる?」
ふんわりとしたつかみどころのない雰囲気をまとう彼女に、つい恒一はタメ口になってしまった。
彼女は無言のまま表情を変えず、小さく頷く。
「案内してくれる?」
彼女は再び頷くと、そのまま歩き始めた。
山道は獣道のように細く、木の根があちこちへ張り出している。
それでも彼女は迷うこと猛スピードで進んでいく。
草木をかき分ける音と、小枝を踏み折る音だけが静かに響いた。
10分ほど歩くと木々が開け、小さな川が姿を現した。
「おお……」
澄んだ水が岩の間を流れている。
「ありがとう」
恒一は彼女の方に近づき、そう言うと、彼女は何も答えず、すっと二歩ほど後ろへ下がった。
近づけば離れる。
まるで、それが当たり前であるかのように。
(……人に近寄られるのが嫌なのか)
恒一は川辺にしゃがみ込み、木桶へ水を汲み始めた。
冷たい水が心地よい。
ふと、恒一は口を開いた。
「そういえば」
彼女は黙ったままこちらを見る。
「名前、なんて言うんだ?」
しばらく沈黙が続く。
やがて彼女は小さく答えた。
「……ない」
「ない?」
「うん」
感情のない声だった。
恒一は思わず言葉を失う。
その時だった。
視界の端へ青白いホログラムが浮かぶ。
━━━━━━━━━━━━
【情報収集】
対象に戸籍・家名は存在しません。
周辺住民による呼称を検索します。
━━━━━━━━━━━━
数秒後。
━━━━━━━━━━━━
【検索結果】
呼称『胡桃』
由来:褐色の肌を揶揄する俗称。
━━━━━━━━━━━━
恒一は小さく息を吐いた。
「クルミ……か」
少女はその言葉に驚き、一瞬だけ目を見開いた。
その後すぐに視線を落とす。
「その名前、嫌か?」
彼女は少しだけ考えた。
「……わからない。でも私の肌の色は胡桃色だから、そうなんだって思ってる」
好きでも嫌いでもない。
そういう顔だった。
恒一は笑う。
「俺は、いい名前だと思う」
彼女は少し驚いたようにゆっくり顔を上げる。
「綺麗な胡桃色の肌だ」
恒一の言葉に彼女は自分の腕に視線を落とす。
「だから俺も、クルミって呼んでいいかな」
少女の目が大きく見開かれた。
今までその名で呼ぶ者はいた。
だが、それは決まって嘲るような呼称だった。
こんなふうに優しく呼ばれたことは、一度もない。
「……クルミ」
その名を、小さく繰り返す。
そして本当に小さく頷いた。
「……うん」
その表情はほとんど変わらない。
しかし、ほんの少しだけ口角が上がったように見えた。
帰り道。
恒一が歩けば、クルミも後ろを歩く。
近づけば、一歩だけ離れる。
その距離は変わらない。
それでも、ほんの少しだけ、その横顔は行きよりも柔らかく見えた。




