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10/12

胡桃


 恒一は寺の隅へ置かれていた木桶を二つ手に取ると、外へ出た。


 夕暮れの山は静かだった。

 鳥の鳴き声だけが木々の間へ響く。


(水さえあれば、身体を冷やせる)


 周囲を見回すが寺の周りは木に囲まれているだけだった。


(A.R.G.O.S.、この近くに川はないのか)

 恒一がそう言うと、ホログラムが起動した。


━━━━━━━━━━━━

 【回答】

 スキル不足。

 水源を特定できません。

 地理情報収集スキルレベル1

 が必要です。


 取得しますか?

 必要Pt:500

━━━━━━━━━━━━



「タダじゃないのかよ……」

 小さくぼやいた、その時だった。


「……こっち」

 背後から、小さな声が聞こえた。


 振り返ると褐色の娘が立っていた。

 異国……現代で言う中東系の目鼻立ちが整った女性で、他の2人に比べて高身長であることも特徴的だった。


 彼女はいつの間にか木桶を二つ抱えて立っている。


「川の場所を知ってる?」

 ふんわりとしたつかみどころのない雰囲気をまとう彼女に、つい恒一はタメ口になってしまった。


 彼女は無言のまま表情を変えず、小さく頷く。


「案内してくれる?」

 彼女は再び頷くと、そのまま歩き始めた。


 山道は獣道のように細く、木の根があちこちへ張り出している。


 それでも彼女は迷うこと猛スピードで進んでいく。

 草木をかき分ける音と、小枝を踏み折る音だけが静かに響いた。


 10分ほど歩くと木々が開け、小さな川が姿を現した。


「おお……」

 澄んだ水が岩の間を流れている。


「ありがとう」


 恒一は彼女の方に近づき、そう言うと、彼女は何も答えず、すっと二歩ほど後ろへ下がった。


 近づけば離れる。

 まるで、それが当たり前であるかのように。


(……人に近寄られるのが嫌なのか)


 恒一は川辺にしゃがみ込み、木桶へ水を汲み始めた。

 冷たい水が心地よい。


 ふと、恒一は口を開いた。

「そういえば」


 彼女は黙ったままこちらを見る。


「名前、なんて言うんだ?」


 しばらく沈黙が続く。


 やがて彼女は小さく答えた。


「……ない」


「ない?」


「うん」


 感情のない声だった。


 恒一は思わず言葉を失う。


 その時だった。

 視界の端へ青白いホログラムが浮かぶ。


 ━━━━━━━━━━━━

 【情報収集】


 対象に戸籍・家名は存在しません。

 周辺住民による呼称を検索します。

 ━━━━━━━━━━━━



 数秒後。



 ━━━━━━━━━━━━

 【検索結果】


 呼称『胡桃(クルミ)


 由来:褐色の肌を揶揄する俗称。

 ━━━━━━━━━━━━


 恒一は小さく息を吐いた。


「クルミ……か」


 少女はその言葉に驚き、一瞬だけ目を見開いた。

 その後すぐに視線を落とす。


「その名前、嫌か?」


 彼女は少しだけ考えた。


「……わからない。でも私の肌の色は胡桃色だから、そうなんだって思ってる」


 好きでも嫌いでもない。

 そういう顔だった。


 恒一は笑う。

「俺は、いい名前だと思う」


 彼女は少し驚いたようにゆっくり顔を上げる。


「綺麗な胡桃色の肌だ」


 恒一の言葉に彼女は自分の腕に視線を落とす。


「だから俺も、クルミって呼んでいいかな」


 少女の目が大きく見開かれた。

 今までその名で呼ぶ者はいた。

 だが、それは決まって嘲るような呼称だった。


 こんなふうに優しく呼ばれたことは、一度もない。


「……クルミ」


 その名を、小さく繰り返す。


 そして本当に小さく頷いた。


「……うん」


 その表情はほとんど変わらない。

 しかし、ほんの少しだけ口角が上がったように見えた。


挿絵(By みてみん)



 帰り道。


 恒一が歩けば、クルミも後ろを歩く。

 近づけば、一歩だけ離れる。

 その距離は変わらない。


 それでも、ほんの少しだけ、その横顔は行きよりも柔らかく見えた。



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