空白を撫でる風
涼を見かけなくなったのは、いつからだったか。
最初の数日は、ただの偶然だと思っていた。今までも会うときは会い、会わない日はそれだけのことだった。
だが、五日、六日と過ぎるうちに、胸の奥に薄い膜のような不安が張りつき始めた。
喪失感と言うには曖昧で、寂しさと言うには輪郭が弱い。 それでも、確かに何かが欠けている気配があった。
涼は「通りすがり」の存在だったはずだ。 街の隙間に現れ、風のように消える。 そういう距離感でいたはずなのに、いつの間にか彼のことを知りすぎていた。
川沿いの遊歩道を歩く。 ベンチに座り、スケッチブックを開く。
鉛筆を紙に当てるが、線はなかなか動き出さない。
風は弱い。 木の葉はほとんど揺れず、対岸の工場の煙だけがゆっくりと形を変えている。
その変化を眺めながら、ふと気づいた。
涼のことを、誰にも話していない。 妻にも言っていない。 言う必要がないと思ったし、言葉にすると、何かが失われる気がしていたのかもしれない。
彼の存在は、街の風景の一部だった。
高架下の薄暗さや倉庫街の錆びた匂いと同じように、説明のいらないものだった。だから、誰かに伝えることができなかった。
倉庫街へ向かう。 シャッターの前に立つと、潮の名残がかすかに漂った。 倉庫と倉庫の隙間を、細い風が抜けていく。 砂埃が少しだけ舞い、ビニール片が横へ流れる。
その流れを見ていると、胸の奥が少しだけ重くなる。
涼はいなくなったのかもしれない。そう思う瞬間が、日に日に増えていく。
だが、探そうとは思わなかった。
探すという行為は、どこか違う気がした。
風の通り道を無理に追えば、その流れを乱してしまうだろう。彼がどこかで息をしているなら、それは彼自身の場所であって、自分が踏み込むべきではない。
それに、探すほどの関係だったのかと問われれば、答えに迷う。 だが、探さないほどの関係でもなかった気がする。その曖昧さが、喪失感の形をさらにぼやけさせた。
家に戻ると、妻が洗濯物を畳んでいた。
「散歩、長かったね」
「少し遠くまで歩いた」
「いいことじゃない」
妻はそれ以上何も聞かなかった。
涼のことを話す気はなかったし、妻も聞こうとはしなかった。
夜、机の上でスケッチブックを開く。 昼間に描いた倉庫街の隙間を見つめる。
余白が少し広い。 線は以前より柔らかい。
涼がいなくなったことで、自分の中にまたひとつ空白ができた。その空白は、埋めるべきものではない気がする。風が通るための隙間のようなものだ。
涼は、どこかで自分の隙間を探しているのかもしれない。街のどこかで、風の途切れない場所を歩いているのかもしれない。
それでも、かすかな喪失感は、静かな余白として確かにそこにあった。




