倉庫街、換気口、裏路地
涼と会うことは、いつしか日課に近いものになった。
会うといっても、時間も約束もない。ただ街を歩けば、どこかに彼がいた。高架下、川沿いの倉庫街、廃ビルの脇、古い商店街の裏路地。いなければいないで、その日はそれだけだった。
川沿いの倉庫街の錆びたシャッターの前で立ち止まった。
潮の匂いの名残が薄く混じり、運河の水は濁っていた。クレーンの影が長く地面に落ちている。見たままに描けば、ただ寂れた景色だった。
「ほら、あそこ」
涼が指さしたのは、倉庫と倉庫の隙間だった。
最初は何も見えなかった。
やがて、砂埃が細く舞い、ビニール片が横へ流れるのが見えた。
街のどこか遠いところから来て、表面を撫でるようにしてまたどこかへ抜けていく。薄い筋のような流れだった。
「道じゃないところに、道があるんだよ」
「君はそういうのばかり見ているのか」
「そういうのしか見てないのかも」
廃ビルの屋上では、フェンス越しに街が遠くまで見えた。
エアコンの室外機が唸り、遠くの幹線道路から切れ切れにタイヤの音が届く。空は広いのに、足元の街は複雑に折れ曲がり、風はビルの角で細くなったり、急にほどけたりした。
地下道の換気口の前では、冷たい空気が這いあがってきた。じっとりと汗をかいた背中に、薄く刃物を当てるように触れてくる。
寂れた商店街の裏路地では、閉じたシャッターの端がときどき小さく鳴った。
表通りの人の流れも、裏路地では途絶える。その止まった場所の縁だけを、風が慎重に舐めていく。
歩くたび、描くたび、街の見え方が少しずつ変わる。
ビル、道、欄干、標識。その形だけではなく、輪郭のあいだが見えてくる。
匂いがたまる場所。熱が逃げる場所。風が折れ曲がる角度。立ち止まると分かるわずかな温度差。
灰色の街にも濃淡があることを感じる。
家に帰ってスケッチブックを広げると、妻が後ろからのぞきこんだ。
「前より柔らかい」
「そうか」
「人の絵って、変わるのね」
妻はそれ以上言わなかった。
だが、その一言が、自分でも気が付いていなかった変化を意識させる。
絵は自己表現だと思っていた。何を描くかが重要で、どんなふうに見せるかに心を砕いていた。
だが今は少し違うような気がする。自分の中に積もっていた何かが少しずつ削られていくのを感じていた。
ある夜、息子から珍しく電話があった。
就職して家を出てから、連絡は必要なときにしか来ない。それはこちらも同じだった。
用件は簡単で、盆に帰るかもしれないというだけだった。仕事が忙しいらしく、声は少し疲れていた。
「無理するな」と言うと、「そっちも」と返ってきた。
会話はすぐに終わった。電話が切れたあともしばらく受話器を見ていた。
長い間、家族を守ることが、自分の一番の責務だった。
家族のためを思い、守ってきたのだ。それは嘘ではない。だが、守るという行為はときに、相手の呼吸を見ないまま覆いをかけることにも似ているのかもしれない。
息子が何を考えていたか、若いころ何に苛立っていたか、自分は案外何も知らなかったのではないか。
涼と歩くようになってから、時々そんなことを考えるようになった。




