8章 なんで今の仕事を選んだの? 1
「翻訳家になったきっかけ?」
オレが最初に訊ねたのは、千尋だった。
なぜ千尋だったのかって?
タケさんが仕事に行って、いなかったからだ。
「大学の時、アルバイトしていたの。翻訳を専門に扱う会社で」
「なんで、そのバイトしてたの?」
「家から近かったから」
そんな理由?
オレの心を読んだかのように、千尋が喋った。
「私、両親が事故死していて、祖父母と暮らしていたんだ。……ああ、そんな顔しないで!」
千尋がオロオロする。
「さすがに、もう昔のことだから! ね!」
「……ごめん」
なぐさめてくる千尋に、自然に謝罪のの言葉が口をついていた。
「いいよ。っていうか、本当に気にしないで」
そう言うと千尋は、続きを話してもいい? と、目で問いかけてきた。
オレが頷くのを確認すると、千尋はゆっくり口を開いた。
「大学の時、一人暮らししていたんだけど、急遽実家に帰らないと行けなくなって。弟もいたし、奨学金……って言ってもピンとこないよね。えっと、大学の費用を、一時的に借りていたの」
奨学金の名前くらい、知っている! 内容はよくわかっていなかったけれど。
知ったか、と思われるのがイヤで、オレは
「……そうなんだ」
と、言うにとどめる。
千尋はオレの様子を、気にしてはいない。
「そうなの」
と、いつもの口調で答えた。
「で、実家から近かったのが、そのバイト先だったの。遅くまで会社がやっていたのも、助かったなぁ。私、理系だったから、終電で帰ってきたりしていたから」
「え!? 千尋、理系だったの!?」
「そうだよ」
サラリと答えて、
「今の仕事と全然違うから。信じられないよね」
と、笑った。
「生物系だから、陽太くんがイメージしている理系とは違うかもしれないけど。でも、実験とか研究はしたよ。……大学って卒業するために、何かを研究して論文を書かないといけないんだ。大学って四年なの、知ってる?」
「それくらい、知っている!」
クワッと答えたオレに、今度は千尋が「ごめんね」と口にした。
「私がね、実家に戻ったのは、三年生の半ばだったんだ。卒業論文も書かないといけないし、アルバイトもしないといけない。そんな時、家から近くて遅くまで働けて。更に言うと、慣れてきたら、アルバイトでも在宅勤務してよかったんだ。もちろん、締切は厳守だけどね」
茶目っ気混じりに話す千尋だが、大変さは伝わってくる。
理系の大学生って、めっちゃ忙しいって聞くじゃん?
どれだけ実家と大学が離れていたのかは、知らないけれどさ。
ひとり暮らしが必要なくらいの環境だった、ってことだろ?
もちろん、想像の範囲でしかないけどさ。
簡単に頷いていいものなのかも、わからないまま、オレは黙る。
千尋はオレのことを見つめたまま、続きを口にした。
「ありがたいことに、翻訳の仕事に向いていたみたいで。理系の知識を大学で身につけたこともプラスになって。アルバイト先の社長に誘われて、そのまま就職したんだ」
「へぇー。その会社だから、今治でも仕事できるんだ」
「ううん」
千尋は首を左右に振った。
「こっちに来る時に辞めて、今はフリーランスだよ」
「えっ!?」
びっくりして声を上げたオレに、千尋は苦笑した。
「前の会社からの仕事の依頼もあるから、完全に独立している、とは言えないかもしれないけれど」
「いや……すげぇって……」
呆然としているオレに、千尋は、
「今もそうだけど。大人になった後でも、色んな選択肢はあるんだよ」
と、しみじみした声で呟いたのだった。




