肆 疳の虫
飛鳥馬には二つの流れがある。
一つは里の名の由来となっている飛鳥馬山からの流れ。
だが実のところ本流はそちらではなくもう一方、東南に位置する標高2153mに達する山から流れる川がそうだ。
里へと続く尾根の細く尖った稜線に沿うように流れ込む清流は水量が多く。飛鳥馬の農業に欠かせないもの。
独特な尾根の形と、かつては水害も齎して来た畏怖で、山と川は龍尾の名を冠す。
必然、それを鎮めるかのように麓には里一番の神社がある。
――飛鳥馬神社
そこは龍の尻尾に囲われる森の中。ここにもまた多くの虫が潜み、姦しく鳴く。
だが今日は違った。
山と森の虫たちは静まり返っている。
森の入口に立つ境内に張られた大きな白い陣幕の中からの声だけ。
「掛けもまくも畏き常世神――」
母さんの大好きな黄青赤の花々と、父さんの好きな酒を神酒にした祭壇。一番上の
橘の葉のついた枝に挟まれた両親を前に、辰巳幾人は祝詞を奏上する。
神葬祭――とどのつまり葬式のこと。仏教でなく神道の方式というだけ。
斎主の席、もっとも前の席で聞く辰巳の祝詞。
30と少しの若さで、烏帽子からは目立つ白っぽい金髪が漏れて、ピアスの穴すら見えるというのに。
式典というものに五月蠅いであろう政治家も、伝統に固執する頭の堅い老人ばかりなのに。山の虫すらも水を打ったように鎮まっていた。
まだ先代が還暦前だというのに家督を譲られただけのことはある。
悔しいが辰巳幾人の姿は堂に入っていた。
隣の隣のみこちゃんはともかく。澤さんも聞き入っている。。
だからこそ私は拒絶するように昨夜のことを振り返っていた。
昨夜の窓枠の上から下がった白濁した眼球。
結論から言えばやはり父さんの物だった。
私の叫びで澤さんが来て、澤さんが叫んで、先生を呼んで。
先生は流石に叫ばなかったものの、随分慌てて来たのだろう。Tシャツに短パンとどうみても寝起きの格好で、何も言わず急いでどこかに電話を掛けた。
「やはり駄目か――亜麻子さん。幾人に電話しますが、宜しいですか?」
「何故に?」
「幾人づてに公子に話して貰って、警視を呼びます」
「ああ、竃土の方でしたか――分かりました」
この時間ならみこちゃんは寝ているのだろうから。
それにどの道知られることだ。
それが今でもどうでもいい。
それより気になったのは、何故父さんの目がここにあるのか。
「父さんの目ですよね?」
「あぁ、そうです。この濁り方は昭雄様の――あぁっ」
「澤さん。下で警察を待っててください。私たちは目がどこかに持って行かれないか見てるから」
「はい、そうさせて頂きます」
いまだ垂れ下がる目を見る度澤さんの身体が硬直する。
こういうことに慣れない澤さんには酷な状況だ。
澤さんを慮る気持ちはあった――けど本題は先生と二人になるためだ。
「それで何でです、先生?」
「虫が運んだとしか」
「ここまで? そもそも何故山で死んだの? 今更健康に目覚めたとでも? あんな好き勝手酒を浴びるように飲んでた父さんまで?」
「それは、そう聞いております」
「――そう。でも、転落死なんて無様な。母さんがそんな油断をするはずがない」
「庇ったとも考えられるかと」
「ない。それでも母さんが落ちるだなんてないわ。事故でも一緒に死ぬだなんて――本当に山で転落死したのかしら。先生、どうなの? 山の中でどこかの崖から落ちて死んだの?」
「間違いなく転落死です。警察の見解も――」
「それは意味がないでしょう。警察の見解とは、とどのつまりは竃土の警視の見解に過ぎないのだから。もう一度聞きます。落ちたのは崖? それとも東館――」
「有り得ません。東館の施錠は私が直接確認しました」
先生の指先は山の中腹を差す。
いつの間にか消え去った虫たち。その住処である飛鳥馬の山の中ほどにある建物。月明かりに照らされ、昼よりも存在感がある煉瓦壁の東館を。
あの下には黒い鉄扉がある。両開きの大きな大きな扉。
外からかんぬきを掛けて、かんぬきの上から更に鎖で閉ざしている。
外からも中からも開けられぬはずの扉だ。
開けられるのはただ一人、鍵を持つ吾妻の”お館様”のみ。
だから、言われずとも分かっていた。開くわけがない、と。
「そう、分かりました」
ただ、やはり母さんが事故死というのは納得はいかない。
何かあったのだ。
そして何かを起こすなら、吾妻無き後すんなり代替わり出来るのはただ一人。
「――祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと、恐み恐み白す」
気付けば祝詞の奏上は終わり。
段どり通り、私は斎主として立ち上がり礼をして、神酒を献じて、祭詞を奏上。
正直、少し眠いけど。役目をこなしつつ粛々と神葬祭は過ぎていく。
そして、玉串奉奠が始まる。
仏教の葬式で言うところのお焼香に当たる儀式。お香ではなく玉串――飛鳥馬では橘の枝葉に紙垂を付けた物を使う。
まず最初に斎主である私が、辰巳から玉串を受け取り祭壇に捧げる。
ついで澤さん、みこちゃん。実質身内の二人が行う。
次は客人の番。まず最初に玉串を受け取りに前に出たのは白髪混じりの恰幅のよい紳士。それでいてラインの崩れていない仕立ての良い喪服は一見して高そう。
「県会議員の篠田様ですよ」
「ああ――」
澤さんの耳打ちで、拳を握った勢いのあるポスターが思い起こされた。もう少し髪のボリュームがあったように思えたが、盛っていたのか時が経ったのか。
そんな少し寂しい頭頂部を見せながら私たちに礼をする県議会議員。澤さんたちはかしこまっていた。
――けれど私は不満だった。
普通は玉串を奉納するのは立場順であるからだ。少なくとも私の知る限り。斎主の私たちはともかく。里の他の人間の葬儀では必ず母さんからだった。
だから最初が県会議員だとは――国会議員、もしくは県知事は来てくれるものと。そうではなくては母さんが不憫だ。
それにどことなく、私より辰巳に対しての礼の方が長い。
いや、気のせいだろうか。
個人的な辰巳に対する感情が邪魔をしてそう見せている、のかもしれない。
その後の客人の礼もどこか、私よりも辰巳に対して気を使っているように見えた。
神葬祭の葬場祭――告別式に当たるところまで終わり。客人すべてが帰った夕刻。境内に設えた陣幕の中には私たちのみが残った。
斎主席に私とみこちゃん。澤さんは車を取りに戻る。
そんな中、辰巳と先生が並んでやって来た。
「ふーおつかれちゃーん。つっかれたつっかれた。もう烏帽子の緒が痛いのなんの。ほら僕って頭小さいじゃん? だから取れないようにきつく縛んなきゃいけなくて。親父のお下がりじゃなくて、ちゃんとオーダーしたら良かったなぁ」
辰巳は烏帽子を外してパイプ椅子を持ってきた座り込む。
祭壇の、母さんの前で足を組んでだ。
「――まだ終わってないと思いましたが」
「ああ、いいじゃん。亜麻子ちゃん。だってほら、髪びしゃびしゃ。真夏に烏帽子は暑いんだよねぇ」
「早く両親を引き取りたいのですが」
辰巳は力がある――吾妻と違って。単純に数も多い。
前から母さんは危険視していたし、ここにはあまり居たくはないはず。
「ああ、ここには居ないよ? そりゃ境内に穢れは置けないさ」
「穢れ――!? ではどこに?」
「ん、警察署だよ」
「警察?」
「この時期だとすぐ腐るだろ? てかちょいと腐ってたんだけど」
「幾人、言葉を選べ」
先生が辰巳をたしなめる。
そうでなければ、飛び掛かっていた。
「はいはい、ごめんって戒兄。冷やして保存しているんだ」
「なら、すぐ引き取ります。さっさと火葬の手配をしてください」
「あーそれ無理」
「何がっ! 無理なのかっ」
「保存してるって言ったでしょ? そうかっかしないで」
「してないっ!」
「はいはい。いやほら、今年は12年に一度の本式で儀式しなきゃじゃん? だから焦ったよ。見つかった時は酷い状況だって。山の中だし、虫がこうね。集ってて半分くらい食われてるだなんて。え、これ足りてる? って感じだったからさ」
「幾人っ! 何故そんな物言いをするんだお前は」
「するさ。戒兄。言わないと。はっきり亜麻子ちゃんにはさ」
「――一体。何をですか」
「儀式に君の両親を使おうと思ってさ。いやぁ、ほんと良かったよ。昨夜出て来たんだろ? 目玉が一個しかなくてさ。これじゃ足りないんじゃないって思ってたところ――あるんだねぇ神の配剤ってやつはさ。いや常世様の配剤ってところかな」
何を言っているのか。耳から入る言葉は一言一句逃してはいなかった。けど、理解は追いつかなかった。
ただ、手は勝手に力が入って爪が掌に食い込む。
ただ、単語だけを拾い上げ文章の意図を汲み上げる。
”本式” ”食われた遺体” ”使う”
そして理解した。
さすらば、ただ、沸いて来る怒りに任せるままに吠えた。
「駄目ぇっ!」
「何が駄目なんだい?」
「母さんを使うなんて――許さない」
「”相依さん”だけかい? 吾妻の家では――ま、そうなんだろうけど」
「当たり前だ。母さんを何者だと思ってる吾妻の”お館様”だ!」
「そう吾妻家の人間だ。血で血を洗うのは吾妻の習いだろ? 洗われる番が来たってことだよ」
「そうだ。吾妻が一番血を流している! それにタダ乗りしてただけの他家が、儀式を勝手に。我が物顔で!」
「なら君に何が出来る。今から、一人になった吾妻家が儀式を行えるとでも?」
「いちいち上から――そう、上、お上が許さない。儀式を12年に一度の本式の儀式のやり方を変えようなどと。そうよ。許されることじゃない!」
あまりの憤怒に思わず言ってしまった。
あまり出したくない切り札を切ってしまった。
だがそれは思った効果は得られない。
みこちゃんはただでさえ不安そうな顔が”上”と私が言った瞬間に背けてしまう。
恐らく、もっとも私寄りであった先生でさえも苦虫を噛み潰した顔。
そして辰巳は――不敵に笑った。
「問題ない。許可はとった」
「は?」
「連絡して”良いよ”って返事貰ったってこと」
「そうじゃない。連絡した? は? 吾妻の頭を飛び越えて何をっ」
「仕方ないだろう。相依さん亡くなったんだからさ。虫入りまで一月ない」
「一月と三日――だよ」
「ああ、そうか。そうだったね。みこ。一月と三日だ。秋分の日だもんな。ああ勿論やり方が違うんだ。最悪は想定してる。陰陽師も派遣してくれるってさ」
「駄目、駄目! 母さんの――死体なんて。そんなこと――そんなこと!」
「もう決まったんだよ。君が帰って来る前に済んでたんだ」
「まだ、小木坂田がいるでしょう」
「こっちは正式に家督を継いだ五家の当主三人だよ? しかも上に手回し済み。乙爺だって別に文句はいわないよ。虫釜の価値が棄損するわけでなし」
「駄目、駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目っ!」
「駄々を捏ねても駄目さ。大体さっきも言ったけど、吾妻一人で儀式を行えるの? 無理でしょ。僕らのやり方のがスマートだよ。今の時代はさ」
「駄目駄目! そんなの許せない」
母さんを使うだなんて。
死体を使うだなんて。
母さんを。死体を死体を死体を死体を!
――駄目だ!
完璧に外堀は埋められている。
あの儀式に母さんの死体が使われることは防げない。
「ああ、許せないっ許せない許せない許せない許せないっっ!」
吾妻の屋敷の二階の私の部屋に入るなり、手当たり次第に物を投げた。
かつての学校の部活のバックを、目覚まし時計を、新しいスマホも。
壁が凹み、穴が開き、窓ガラスに当たり、穴が開くのも気にせず――物を投げた。
「お嬢様――お鎮まり下さい」
「分かってるっ分かってるわ。けど――あぁぁっ! 辰巳ぃっ!」
「お嬢様。お嬢様」
「何とかしないと。このままでは今回を許せば今後も――! ああ、儀式が、吾妻の私の儀式がっ!」
「お嬢様。大丈夫です。澤がついておりますから」
「ええ、分かってる。私に残されてるのは澤さんだけよ」
澤さんはいつもの臙脂の――吾妻の家紋が入った着物に縋りついた。
もう残されたのは彼女だけだというのに。
「でも、それすらも奪われるかも知れない」
「安心してください。そんなこと有り得ません」
「いえ、あるわ」
「そうなったら、舌を噛み切ってやりますよ!」
「ああ、澤さん。駄目よ。それじゃ駄目なの」
「ふふっ、流石に辰巳様もそこまでしますまい。最後の手段ですよ」
「駄目――そんなの私は見たくない」
澤さんを強く抱いた。
潰しそうなくらい強く。
澤さんの丸い顔は苦悶に歪み。
垂れた目は痛みで横に引っ張られ。
叫びたいだろうに口を堅く結ぶ。
そんな彼女に抱かれた私は、赤子のように緩んだ顔をしていただろう。




