参 虫、起こる
屋敷の風呂は離れにある。昔は五右衛門風呂を露天に置いていただけ、とお婆さんから聞かされたものだ。
今は私の我がままのお陰で渡り廊下で行ける。そのうえ、母さんの趣味で、湯舟も床も石作り、壁も黒く艶のあるもの。ちょっとした銭湯気分だ。
「んーやっぱり家の風呂は最高ね。もうちょっとシャワーが強くしてくれれば、あと換気扇も直して欲しい――」
――カツッ
緩やかにお湯が流れるシャワーの音の中、換気扇が鳴る。
先程から、時たま何かが引っかかるように、カツカツと音が出ていた。
「何か当たってる――?」
少し不安で背筋が冷たくなって、とっとと身体を流して浴槽に身体を沈めた。
と、今度は別の音が聞こえてくる。
換気扇の羽根の隙間から旋律が漏れて来た。
「あ、この音、確か先生の――龍笛だっけ?」
軽やかでいながら、離れまで通って来る力強い音色は覚えがあった。
竹で出来た笛。何か黒っぽいもので巻いていた覚えがある。
昔の――優男だった頃でも似合っていなかったのに。
あの黒いスーツ姿で、サングラスを掛けたまま黒っぽい竹の横笛を吹いている姿は思い浮かべるだけでも変だ。
「ふふっ、今じゃ似合わないわね。しかも、こんな繊細な旋律を吹くなんて」
換気扇から漏れた小さな音色だったが。石の風呂場には良く反響した。
少し震えるような音が、長く残り、湯とともに身に染み入るようで。目を閉じれば
旅の疲れも、これからの心配ごとも消えて行きそうな気さえした。
少し元気が出れば待ってましたとばかりに、お腹が鳴った。昨日から大したものを納めていなかったと思い出す。
脱衣所にいつの間にか澤さんが置いていた浴衣に着替えて小走りに居間へ向かう。
「澤さん、お腹へっ――あ、良かった。出来てる。しかも美味しそう!」
襖を開ければ、当然のように準備は万端。
澤さんは湯気の上がる御櫃を横にして座り、懐かしの円形の大きなちゃぶ台には私の好物ばかりが出迎えてくる。
「やった、茄子の揚げびたし! 筑前煮! やっぱり麦飯よね。えーと他には」
「ふふ、虫は出しませんよ」
「ほっ、ちょっと不安だったわ。昔見たいに食べさせようとするんじゃって」
「食べて下さらないですからね。食べてみればざざ虫も案外いけるんですよ」
「案外って――せめて自信もって美味しいって言って」
「じゃあイナゴは美味しいですよ」
「じゃあって言ってるじゃない。あーやっぱ白茄子よねぇ」
「あーやっぱり東京にはありませんでしたか?」
「うん、寮では出なかったわ。あぁ、とろっとろ! そうそう向こうじゃ筑前煮にはヤーコンも入ってないの」
「ふふ、そうでしょうねぇ。おかわり要りますか?」
「お願い――あ、少な目で。もう部活はないしね。太っちゃう」
いつもの食卓。昔と変わらない食事。
澤さんの言葉が少し多いくらいだ。
「そういえば――みこちゃん何かあったの?」
「あ、気付きましたか?」
「そりゃ西原――先生と一緒じゃなかったし。目も合わせなかったもの」
「ふふ、年頃ですね。お嬢様も。東京でいい人見つかりました?」
澤さんは丸みのある頬を更に上げて、目じりの小皺を深めて笑う。
「もう女子校よ? それに部活と勉強で忙しかったし」
「あーバスケットボール部のキャプテンになられたんでしたっけ。流石、相依様譲りの長身とカリスマ性をお持ちなのですねぇ」
「モデルだった母さんほどじゃないけどね。170ないし」
ふと、右手に目をやった。
床の間にいけられた青い花、その前は母さんの定位置。更に隣には父さんが座って私を囲む。話を振るのは母さん。私が答え、父さんが笑う。
もう、そんな日々は二度と無い――身体が震えて、涙は頬を伝う。
その両方を止めるために澤さんに向かって身を投げた。
「お嬢様――澤はおります。ずっとおりますから」
「でも――無理なのよ。母さんだって一人にはしないって言ってたのに」
「かも知れません。でも澤はお二人より健康ですから。相依様と違ってダイエットをしていませんし、昭雄様みたいに酒もあまり。きっと長生きしますよ。もしかしたらお嬢様よりも――」
「ふふっ、そうかもね」
「ふふっ、こんなおばちゃんですからねぇ。でも身体が動く限りお仕えします」
「なら、そうなったら私が見るわ」
「まあ、嬉しいことを――」
「母さんは駄目だったから。澤さんだけでもね」
「ありがとうございます」
赤子の時から抱かれている相手だ。少し落ち着いた。
澤さんがいる。何とかなる。そう言いかけて離れる。
ただそれでも家のこと、里のこと、儀式のこと、問題が消えるわけじゃない。
だからこそ今はあの三人の話だ。
「それで澤さん。みこちゃんのことだけど。なんであっちの車なの?」
「辰巳様の車ですか?」
「うん、確かみこちゃん。先生の家で暮らしてたはずよね。結構前から」
「はい、西原さんが高校生くらいからですね」
「じゃあ、みこちゃん小学生? そんな頃からだったんだ」
「竃土の本家で色々あった――と聞いております」
「色々って?」
「五家の内情は私には詳しくは。あと、私が聞いたのは――」
二人は里で知らない者は居ない公認の仲。
それが崩れたのは私が東京に出て半年くらい経った頃らしい。
『公子は辰巳と婚約をした』
と、母さんが言っていたようだ。
実際みこちゃんは先生の家を出て、神社近くの一軒家を借りて住み始めた。
「母さんが言ってたなら――間違いないわね」
「成婚がまだなんです」
「今年の儀式を終えてからじゃない? ほら、今年は本式だから」
「ただ――そうだとしても、まだ西原さんに気持ちはおありかと見受けます」
「えぇ先生に? じゃみこちゃんが結婚を先延ばしにしてるってこと?」
「今日だって、目も合わせてませんからね」
「それはむしろ別れたからじゃないの?」
澤さんはわざとらしく大きく溜息を吐いた。
「やり過ぎですよ。わざとらしい。余程のことじゃなきゃ女は振った男に興味を持ちつづけません。普通に接しますよ」
「あら、御詳しいことで」
「色恋沙汰に無縁というわけではないのですよ。私とて。だから多分あれは気持ちが残っているんですよ。複雑なのですよ。幼馴染から幼馴染に乗り換えるというのは」
「ふーん、それで何年も婚約を、ねぇ。確かに辰巳は金もあるし。家格も竃土よりは上だし。保留してる理由はないものね」
「ええ、西原さんだって。浮いた話もないんですよ」
「それであんなマッチョに?」
「もう、惚れ直させたいとしか思えないでしょう? 振った男が自分のために鍛えてアピールしてくるなんて、お嬢様ならどう思います?」
「え、気持ち悪い」
「まだ、お嬢様は掛かりそうですね」
そういうと澤さんは今度は本気の溜息を吐いた。
とはいえ私は満足した。
女の奪い合いになるかもという、醜聞に繋がる情報は非常に有難い。
吾妻家、辰巳家、西原家、竃土家、小木坂田家は飛鳥馬の現在の支配層だ。
里に絶大な権力を持ち、里を存続させるために努力し続けて来た。儀式を盛り上げやり遂げて来た。
もっとも吾妻にとっては並列であることが屈辱だけど。
ただ力が無ければ並ばれただけでは済まない。
私のような何も知らない女子高生のままでは、最悪今の生活も守れない。
「ご馳走様。本当に澤さんが居て良かった」
私の部屋は2階、母さんの、当主の部屋の横。畳にカーペットを敷いて洋室に改装した部屋。出て行った頃から何も替わっていない。
勉強机に、ベッド、パソコンも何もかも、そのままで――古めかしい。
「懐かしい――変わってないのね」
赤茶のセーラー服。二学期から通うことになる地元の高校の制服だ。
身長は毎年報告していたし、加工してない画像も良く送っていた。お陰でサイズは丁度いい。
「これ冬服? 新葬式だからかしら? 流石に暑いわね」
部屋の窓に手を掛け――開く前に思いとどまった。
サッシの縁には、まま虫がいる。ヤスデやムカデのような身体の細い奴が、開いた隙に入らんと狙っている――ということを思い出したから。
少しひんやりとした窓ガラスに手を置くにとどめた。
窓から見える景色は暗い。山しか見えないから、明かりは月と星のみ。頼りない月に照らされた山は夏の緑の濃い葉すら黒く見せた。
ただ一つ、中腹に見える建物を除いて。
「東館――12年振り」
黒い瓦屋根の下にほんのり見える赤い煉瓦――東館。12年に一度の儀式の舞台。母さんが早く亡くなったために今年は私が儀式を行う場所。
風に木が揺れ、赤い煉瓦が見え隠れする。
それが虫たちの身じろぎのようで――思わずカーテンを締めた。
制服を脱ぎ、ハンガーに掛ける。かつての紺のブレザーと灰のスカートをゴミ箱に突っ込んでベッドに入った。
「今日はもう寝よう」
この調子なら多分里での生活は問題ない。
今の吾妻の立場を守れるなら、澤さんがいるし問題ないだろう。
問題は守れるかどうか。
恐らく小木坂田は懐柔出来る。先生は無茶はしない。みこちゃんは自己主張しないだろうから流されるだけ。問題はやはり辰巳。
吾妻家と違って数が多い。そのせいで飛鳥馬だけでなく、官公庁にも蔓延る始末。母さん亡き後、コネクションに差があり過ぎる。
などと考えていると中々寝付けないでいた。
里のいいところは東京より涼しいところ。夜はエアコンも要らないし、しっかりと蒲団を被っても問題なく寝付けるというのに。
もっとも寝付けないのは考え事のせいだけではない。
それは里の悪いところが出たからだ。
――ド
やはり虫。
パシッとかピシッとかいう音が窓から聞こえる。
――ゴ
その中に混じった弱いが重量のある衝撃音が眠らせない。
大きい――何がぶつかっているのか。
虫だとしたらカブトムシか、ヒラタか、はたまたオオムラサキか。
ひょっとしたら虫狙いの鳥とかだろうか。
――ガ
「駄目」
結局、目を開いて蒲団を跳ね飛ばす。
憎々し気に音のする窓を睨みつけると、カーテンが揺れている。
私の部屋の薄紫のカーテンは前と同じで、替えられてはいない。つまり厚手の物で光も熱も音も通さない割と高い奴だ。虫の影も見たくないと父さんにせびった。
その重いカーテンが揺れるほどの衝撃がある。
――ド
恐る恐る電気をつける。
何も映らない。少なくともカーテンの影に虫は映らない。
もっともそれはそういうカーテンだから当然なのだけど。少し安堵した。
そしてその重いカーテンを指で少し捲ってみた。
「暗い。何も――な」
ない――ように見えた。
黒しか見えない、と見えた。
が、それは宵闇の黒ではない。月明かりも星明りもない漆黒の夜の色とは違う。
光を吸収し、どこまでも広がる闇ではなかった。
それはぬめるような黒。光を跳ね返して黒く光る――蠢きすらした。
「ひっ」
黒が動く。いや、それは足だ。腹だ。触覚だ。
窓一面に張り付く虫だった。
まるで入口を求めるようにガサゴソとガラスの表面を這いまわっていた。本来なら引っかかるところのないガラスの表面を虫通しの身体で支え合い。窓一面を真っ黒になるまで埋めつくした虫。だけど――
「――違う。この音は一体?」
音は虫ではない。さっきまでの音はこれではない。
――ド
と、音がした。
窓ガラスの上部、右側。
ちらりとそちらを向くと目が合った。
「――っ」
息を飲む。
するとまた、音がして――
目だ。
何か紐のような物で繋がっていて、振り子のようにしてガラスにぶつかる。
目が在った。
紐のように伸びた神経。
そして白く濁った瞳――父の目。
それを確認すると私は声を上げた。




