壱 はじめの一歩
飛鳥馬の山の中腹、橘と山椒に囲まれた東館は朝露に濡れる。
まだ薄暗く、すでに生暖かい陽気と湿度は絶好の虫日和。
鎖で閉ざされた扉の下の隙間からは赤紫の頭が覗いた。
1匹、2匹と細く長い虫が出てくる。
うねりながら、揺れながら、細い隙間から。
押し合い、へし合い、湧き出すように出て来る。
4匹、8匹とよせばいいのに我先にと。
16匹,32匹と出て来るごとに倍々に増えて。
そんな大きな隙間でないはずなのに。
数百匹のヤスデが、うねりながら、ぶわりと広がって咲いた。
つぼみのように捩じれ、折り重なって、絞れて。
枯れたように赤みが消えて、堅くなて。
実を付けた。
「本当に――人間じゃないな。まあ、丁度いいか」
そう丁度いい。
これから行うことは人の身で為すには重い。
「まずは――あのケバい婆と片目の白い爺からだ」
あの釜の底で実験した結果。
俺の身体は蟲で構成されてる。
だがそれは全部俺。
まあちょっと、蟲に食われた別の人の記憶が勝手に出て来るけど。
何万という数で構成されたこの身体の蟲の一匹一匹が俺一人だ。
分離しても俺、独立で行動させても俺。
一匹一匹の五感が分かるし、記憶も共有される。
しかも別れた虫はなんでもいい、割と自由だ。
百足やらフナ虫なんかじゃなくてもなれた。クワガタでも、ヘラクレスオオカブトでも、ヨロイモグラゴキブリでも、なんだったらカブトガニでもいけた。
ただ、鳥とか哺乳類は無理だった。
俺が”虫”っぽいと思えればいける。
多分、寿司屋でシャコを虫っぽいと思ったから甲殻類も割といけるんだろう。まあ流石にベニズワイガニやら、タラバガニやブラックタイガーみたいな、好きな食べ物は全滅だったけど。
だから俺は外に出る前に既に数百匹を蠅として放っている。
山を警戒――いや奴らを見つけるため。
それが早速ヒットした。
俺が連れて来られた道を上る人影を一匹の蠅が見つけた。
「ははっ――相依! こいつぁ――相依! 相衣っ! 分かってる。分かってるさ」
身体中が叫び出す。
腹から、喉から、膝から、あの女を殺せと叫ぶ声が上がる。
人格はとうに消えているのに、蟲に染み込んだ怨恨が声となった。
「昭雄さん。大丈夫」
「はぁ、はぁっ、運動不足だね」
朝から山に来るなんて、ご苦労なことだ。
まあ今からもっと苦しむことになるんだが。
「ねぇ、相依さんやっぱ車で行かない?」
「あのオープンカーで? 無理よ擦るわ」
「車高低いもんね――はぁ、ちょっと休憩」
蠅は目立つ。五月蠅いと言うように音がしてしまう。
近くの木に止めて、テントウムシに変えて観察する。
「ちょっと昭雄さん。早いわよ」
「ごめんごめん。ここのところ忙しかったでしょ? 昨日は久々に酒も入ったし」
「それだけじゃないでしょ」
「ええ、そうかい?」
「昭雄さん華を摘みすぎ」
「ああぁ、ごめん」
「責めてない。心配しているの。それに青檎苑の華はまだまだ数が要る。揃うまでに時間が掛かるんだから。少しは――」
「分かってる分かってるよ。でも相依さんも忙しそうだったからさ」
「へぇ――そう、それが言い訳?」
「ごめんごめん、大事な儀式の前だからしょうがないよね。僕も我慢しないとね」
「分かってるならいいの。でもね。私の伝手で乙太の弟子を紹介する羽目になったのだから――反省なさい」
「本当にごめん」
「あそこは吾妻のための事業――吾妻の未来のため、あの子のため」
「ああ、分かってるよ。吾妻の資産は僕のものじゃない。亜麻子の、僕らの娘のためのもの――だろ?」
「ええ、私たちのたった一人の子なんだから――」
我慢できなかった。
全身が沸き立つのを抑えられなかった。
偵察していた虫の居所へ、全身で駆けた。
足をばらして地を這う虫へ。
手をばらして空飛ぶ虫へ。
胴をばらして土中を進む虫へ。
頭をばらして跳ね回る虫へ。
数多の蟲となって二人に踊りかかった。
奴らは反応する暇すらなかったはずだ。
ただ、黒い粒状の影に包まれた――と思ったのが関の山だろう。
頭を打ち付け、口を塞ぎ、足に蟲を絡ませて引きずった。
暴れる身体を抑えつけながら、暴れる蟲を抑え付けながら。
相依を連れてきたのは崖の上。ひとまずは同じ目に合わせようと思ったからだ。
「ん、一体――何が」
「よお、目が覚めたか?」
「お前はっ! なんで」
「下、注意しなよ?」
相依の身体を掴むのは大きな手。小さな蟲で作った手で身体ごと掴んでいる。崖の向こうで、足は宙ぶらりんでだ。
「なんだ生きていると聞いている」
「ははっ、流石、偉そうだな。この局面でも変わらないか」
「当たり前だ。私を誰だと思っている吾妻の当主だ。飛鳥馬の頂点だぞ。貴様如きに命を握られた――握っ? なんだ――これは虫、虫の――」
「おっと、ちょっとは顔色が変わったかな?」
「虫――そういうことか。ふふっはははっ! 辰巳め、いや他の四家は分かっていたのか。最初から吾妻は一人残らず贄だったということか」
「何を一人で納得してんだ」
「五月蠅いぞ。貴様。今、私は考え事をしている」
「はっ、本当に流石だよ。この状況――じゃあこれは?」
背後で同様に拘束をしていた昭雄を見せる。
「静かにしろと言わなかったか? 辰巳を五百人をどうするか。考えているんだ」
「おいおい、旦那? どうよこれ?」
むーむー五月蠅い昭雄の口の拘束を解く。
「ぶぁ! 相依さん! なんだこれ? なんなんだよ! 相依さん! 聞いてよ? 相依さんっ! 助けて、死にたくない! 僕まだ一杯――」
「黙れと言ったぞ」
「本当やべー女。ここからどうなるつもりなんだよ?」
「どうせ殺すんだろ? それだけの罪過はある身だ。だが死んだ後に魂が残るなら、霊となれるなら――やることは一つだ。ほら、やれ。予定が詰まってる」
それを聞いて俺は笑っただろう。
笑って二人を崖の向こうで離してやった。
そして追っかけるように俺も落ちて、着地前に蠅に分離して――二人を喰らった。
そう喰らった。
今なら分かる。
俺にも魂が何か霊が何か。
それが身体のどこに残るか――分かる。
数多の魂と、その残滓と喰らって喰らわれて。
魂が砕けて、また取り返して、また喰らって、喰らわれて。
それを繰り返した今なら。
喰らった相手の魂なんて簡単に取り込める。
腹の中に、蟲たちの腹の中に。
俺の魂の内に取り込むなんて簡単だ。
「地獄へ、ようこそ」
俺の魂の中は地獄だ。
地平線まで闇の何もない地獄。
あるのはただ蟲のみの地獄。
茫漠とした蟲の地獄に立つ俺の前に、二つのこぶがある。
二人を、二人の魂を閉じ込めた蟲のこぶだ。
「ここは――」
「相依さん、相依さん、相依さん!」
二人を見て俺の頬が緩む。
蟲にみっちり包まれて、唯一出ている顔の――表情を見てたらそりゃ笑顔になる。
「何だここは?」
「地獄と言った。見ろよ。何処までも闇。広いだろ?」
「地獄――だと? なら、早く責め苦を与えろ」
「なんだMか?」
「相依さん! 相依さんっ! 相依! 相依! 聞いてんだろっ答えろよっ。俺がっ旦那の俺が言ってんだよ。これまでどれだけ尽くしてやったと思ってんだっ! 何が地獄だ。何で俺まで一緒に! おい、お前――そこの君? ねぇ、助けてよ。地獄は嫌だよ。天国がいい。そうだよ! 極楽にしようよ。こんなとこじゃなくてさぁっ。ねぇっねぇねぇねぇねぇねぇっ!!」
「おい、アレ、黙らせろ」
「お前の言うことを聞くのもしゃくだが――まあ、そうだな」
昭雄は顔まで塞いで地面に埋めていく。
まあ地面ってもそこは俺の魂の一つ。中も蟲だけど。
「それで責め苦は? 獄卒もお前か?」
「まあ、俺と言えば俺だけど。何を急ぐんだ?」
「地獄なら罪を禊ぐ場だろ? 早く赦しを得て辰巳をやらねばならない」
「ふっふふっ、どれだけ掛かるか分かってるのか? お前の罪が赦されるまで」
「はっ、100年か? 200年か?」
「んなわけないだろうがlち」
「なら失われた命の、あるはずだった寿命分か? 1000年もあれば足りるぞ」
「足りると思ったか?」
「なら、2000年か2864年か? 足りなきゃ一万でも――」
「349京2413兆4400億年だ」
「はっ?」
「349京2413兆4400億年と言ったんだ。それが地獄での残り時間だ」
「さんびゃっ京?!」
「さあ、お前の魂が擦り切れるのが先が、地獄の責め苦が終わるのが先が――まあ、辰巳とやらは滅んでいるじゃないかな。どちらにしろ」
ああ、何て楽しいんだ。
全身が喜ぶのが分かる。
地獄で喝采が湧いているのが分かる。
楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい。
だから少し悲しい。




