弐 蟲に向かって唾を吐く
幼少期から母はきつかった。
どこか私には冷たかった。
「お兄ちゃんはお外に出られないのに、お前は泥になるまで遊んで。何か言うことはないのかい。まったく」
「お前はばくばく物を食べるねぇ。お兄ちゃんは食べられないのに。何とかお言い」
いつもこんな感じでお兄ちゃんを引き合いに出す。
お父さんも助けてはくれなかった――というより見て見ぬふりだ。
多分、一度も私のことだけを話したことはなかったと思う。
いや一度あったな「お前には母乳は出なかったよ」って言ってたかな。
だからお兄ちゃんにも近づけなかった。
部屋から出ないし、食事も別、盆暮れ正月いつも部屋で過ごしたから。
きっとお母さんが怒るから。
私が初めてお兄ちゃんと話したのは戒兄のお陰。
「どこかに遊びに行ってきなさい」
お母さんが私にそう言う日は、五家の会合が行われる時だ。
その頃は吾妻の当主がタエ様だった時代で、今より頻繁に五家で集まっていた。
タエ様のことだからきっと親睦を深めるとかが理由だと思う。
だから子供たちも一緒に集まった。
次代の当主たちも一緒に交流させれば将来安心と考えたんだろう。
竃土の本家に集まる時にはみんなお兄ちゃんの部屋に集まり――私はやっぱり木の影からこっそり見ているだけ。
仲間に入りたかったけど、お母さんが怒るから。
私は遠くから眺めているだけ。
そんな私を見つけてくれた。
「やあ、君は?」
「――あ」
「何歳?」
何も言えない私を笑顔で待つ戒兄。
1分は掛かって、出来たのは手を広げることだけだった。
「5歳か。言えて偉いね。ここの子だよね? 栄君が妹がいるって言ってたよ」
「――う、ん」
「やっぱり! こっちおいでよ。ほら」
戒兄に手を引かれて初めて上った部屋は思ったより狭かった。
誰も来ない私の部屋とは違って、一杯の人で溢れていたから。
「戒君連れて来てくれたんだ。やあ公子。初めまして」
「――あ、う――ん」
何も返せない。それでも怒られることはないって初めて知った。
お兄ちゃんは少し顔が白くて怖かった――けど、優しかった。
初めて家族が出来た気がして、家の中に居場所が出来た。
「お兄ちゃんは家を出られないんだ。ここから見える景色が全てでね」
私に「外のことを教えて欲しい」ってお願いごとをされた。
だから私はそれからも良く食べた。
お母さんに何を言われても食事を取って、元気を出して外を走って回った。
遠くに行くときは戒兄と幾ちゃんも一緒に来てくれて。
そして戻ってはお兄ちゃんに話す。
”川が凍った” ”山に花が咲いた” ”魚を取った” ”柿を勝手に食べた”
どんな下らない話も、どんなつまらない話も、何もなかったら何もなかったって、私が見て聞いた外のことを全部話すのが日課になった。
「公子。今日は何をしたんだい?」
「えーとえと、今日はね」
お母さんも何言えなくなっていった。
私が外に出るのはお兄ちゃんのためだったし、外の話を聞いている時はお兄ちゃんも生き生きしてた。段々と元気になってきた。
小学校に上がる頃には、お兄ちゃんは立って歩くことも多くなった。
縁側に腰かけ話すことも、庭に降りてボールを投げ合いながら話すことも。
そんなある日、いつものように学校から帰ってお兄ちゃんの部屋に行くと――
「あれ? お兄ちゃん居ない」
蒲団にはいない。剥いでみても空。縁側を見回してもいない。箪笥を開けてみてもやっぱり空で、庭に降りて縁側の下を見るも気持ち悪くなるだけ。
「トイレかな?」
小走りでトイレに向かってドアをノック――返事はない。念のため開けても空だ。
私の部屋も、台所も、居間にも居ない。
少なくとも本宅には居ない。
家には二つの別棟がある。
小さい蔵は単なる倉庫――私でも開けられて、中は埃を被った農具か何かだけ。
もう一つは本宅より大きく、見るからに頑丈で大きい鉄の扉をチェーンで閉ざした――絶対に入っては行けないと言われていた場所。
だから入らず外から声を掛けようと思った。
多分怒られるのは分かっていたけど。それよりお兄ちゃんだ。
ひょっとしたら中で倒れているかもしれない。
そろそろと小さい蔵の裏から歩いて向かうと、蔵は開いていた。
中から声が聞こえた。
「栄太、その調子だよ。火を良く見なさい。強くても弱くても駄目だからね」
「うん」
中からはお兄ちゃんとお母さんの声。
だから帰れば良かったのに、薄っすら開いた扉の隙間の吸引力に負けてしまった。
「火が土を生む――ですよね」
「ああ、良く覚えていたね。けど火は強過ぎれば浄化しきってしまう。そしたらもう穢土とは言えない。ただの土だ」
中には沢山の竃が内側に向けて円形に並んでいた。
怖いくらい大きな虫釜が10を越える数、全てが火に掛けられていた。
その竃の一つにお兄ちゃんが立っていた。その後ろにお母さんも。
お兄ちゃんが手をかざすと、火が燃える。
コンロをつまみで調整するように、火が盛る。
「これが出来れば――ぐっ」
「ああ、栄太! 大丈夫よ。今日の所はこれで。おいおいやれるようになれば――」
「いえ、私が家を継ぐのですから。学校にも行けない。対して動けないんです。当主の仕事くらいは出来ないと――」
お兄ちゃんは力無く膝を付いて、手も地面について、火が勢いを失った。
いつも朗らかに笑っているお兄ちゃんが、口を強く結んで拳を地面に叩きつける。
「なんで動かない。この身体はっ!」
「ああ、栄太。大丈夫。大丈夫よ。必ずなれるわ。貴方なら立派な当主に」
お兄ちゃんの身体はまだまだ元気いはほど遠かったんだ。
なら私はお兄ちゃんの役に立たないと行けない。
だと言うのに。何で私はあんなことをしたんだろうか。
確かに私がお兄ちゃんを殺したんだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。お兄ちゃん。ごめんなさいっ!」
「謝ってんじゃねぇ! 謝っても何も変わらないんだよ! ああぁ可哀想な栄太。今この使えない娘を締めてやるからねっ!」
幾ら足蹴にされても、反論が出来ない。
お母さんが怒るのは当然だ。
お兄ちゃんが死んで、お父さんも死んだ。
「何で何で――お前なんだ! 全部お前が掻っ攫っていくんだ。栄太の物だったのに全部栄太にあの子のために。あの子は飛鳥馬の頂点に立つ器だったんだ。お前如きが邪魔をしなければっ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「五月蠅いっ!」
だから私は黙って殴られるしかない。
何を言われても謝ることしか出来ない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「五月蠅い五月蠅い五月蠅いっ! 詫びろ。詫びろ詫びろ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
ああ、一体私は何で――
意識が朦朧とする。
いっそこの踏石を思い切り頭にぶつけてしまおう。
そうだ、それなら楽になれる。
そう思ったのに。
――リリリリリリリ
鳴り響く金属音。空気も読まずに鳴るのは私の着信音。
どんな時も分かるように音を出しているのは一人だけ。それは当然――
「あぁ」
やっぱり、戒兄は私が本当に困っている時は手を差し伸べてくれる。
「何を電話なんかっ。お前、栄太がっ!」
『みこ、逃げ――』
留守電越しの戒兄の言葉は途中で切れて、そこから雑音が混じる。
嫌な音だった。
吐き気を催す音だった。
がさがさとばりばりとぐじゅぐじゅと気持ち悪い音。
「戒兄、戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄戒兄! 何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁっ」
私の叫び声が終わっても蟲が喰らう音は響き続けた。
「ははっ、あはははっ、西原の倅か。あははっ食われてやがる。あはははははっ! いい気味だ。西原如きが家の事情にしゃしゃるからだ。くははははっ! まさかあの使命馬鹿までおっ死んでくれるとはね。ここまで上手く行くとは! これで次は私が
お館様かね。あはははっ」
「お母さん? 何を――言ってるの?」
「黙れ売女ぁっっ! お前は本当に父親似だよ。どうせその膨れたケツと胸で西原を抱き込んだんだろう! お前あの時なん歳だよ。ははっ、やり過ぎだ。あの歳で男に媚びるなんてなぁ」
「違うっ戒兄はそんなことない!」
「”は”だろうがっ?! ははは、いいじゃないか。西原は用済み、小木坂田から、今度は辰巳まで咥えこんでんだからよっ。けどな、私は吾妻だ。お前より上だ! 私のお陰で空いた席なんだからよぉっ」
「じゃあ――穢土を――」
「何だ今更そこか? 前からだよ。知らなかったのか? 前から使ってる。ずっと前から使ってる。里から人が消えた時、外に出て行ったなんて本気で信じてるのか? まさか、綺麗に消してくれる可愛い子がいるだろう、家には?」
「そ、そんな――消すって――」
「なんだ本当に気付いてなかったのか? タエさんもそうだよ? 余所者の嫁風情が”お館様”などと吹きあがりやがって。そりゃ――消すだろ?」
「――タエ様まで」
「元々、何の力もない吾妻が”お館様”なんて可笑しいだろ? 可笑しいよな!! だからテストしてやった」
「テスト?」
「そうだ。今回渡したのはただの穢土じゃない。まったく祓ってない。むしろ怨念を込めまくってやった。ぶっちゃけ力があろうがなかろうが。ちょっと勘が鋭けりゃ、普通はびびって使わないレベルまでな。だが結果はあいつらは全滅。ついでに西原も死んでくれるなんてな。後は辰巳たち――はっタイマンなら負ける気しないねぇ」
この前の女が何を言っているのか私には良く分からなかった。
ただ一つ分かるのは、戒兄は絶望的な音の向こうにいる。
それは全部目の前の婆のせいだと言うこと。
腹から湧き上がる物があった。
胃を駆け上がる熱気――怒りだ。
「糞婆ぁぁっ!」
「あ? 何言った母親に向かって売女ぁぁぁっっ!」
「親のつもりかカスがぁっっ! お前のせいで戒兄が死んだ!」
「そうだ。馬鹿が。今更気付いたか。お前に関わるとみんな死ぬんだよ」
「じゃあ次はお前の番だっ! 土公様っ!」
私は右手を門へと伸ばす。
この時期、土公様はそこにいる。
門の近くの石が持ち上がり飛んでくる。
次々と、土ごと捲れるように連なって。
まるで一本の長い腕のように。
しなりながら飛んできて、婆の首を掴んだ。
「お前に手を出さなかったのはなぁ。戒兄が嫌がるからだ。お前すら里の人間だからと守ろうとしたあのの人のためだ」
「糞糞糞糞がぁぁぁぁっ! 何でお前が! 何でお前がこんな力を! これはあの子のために。なんでだっ! その健康な身体も、この土の力も栄太のためのものっ !なんでお前が!なんで奪った! お前が全部奪ったんだ」
私はお兄ちゃんの役に立ちたかった。
お兄ちゃんが必死で頑張る姿を見て、何かしたかった。
だからお兄ちゃんみたいにやってみた。
力を込めて、何か動かないか試してみた。
そしたら土が石が動く。土公様が応えてくれた。
だから私はそれをお兄ちゃんに見せた。
得意げに「私が手伝うよ」と付け加えて。
『そうか。凄いな。なぁ公子。お母さんを呼んできてくれないか』
きっと褒めて貰えるのかもしれない。
お母さんにすら褒めて貰えるのかも。
そう思ってお母さんを呼んで、一緒に戻って来ると――
『私ではありませんでした』
という文が一つと、血だらけの部屋と、血のないお兄ちゃんが居た。
「戒兄が言ってた。お前が重圧だった。お前の期待が重荷だった。お前の重いに応えようと無理をしていた。静養させるべきだった。無理しなくていい。当主にならなくてもいいって言ってあげるべきだった。お前が殺したんだ。それを分かりたくなくて私だけじゃなく、お父さんにまで当たり散らして――」
何時だっただろう。お父さんが居なくなったのは。
覚えていない。けど、こいつの言うことが確かなら。
「消したな?」
「それが――どうしたっ! あんな男要らない。まともな種も残せない。その癖女癖だけは悪い。私を惨めにさせるためだけの男っ! いや、お前も――」
「黙れっ。全部婆ぁの嫉妬と見栄だろ。だから、お前は全部無くしたんだっ」
「すっかり主気取りか売女ぁぁっ!」
「婆ぁ、吾妻になりかわりたいんだよね?」
「そうだ。そうだよ。だからお前は”ひがしの”になるんだよ」
「幾ちゃんが言ってたよ。”血で血を洗うのが吾妻の習い”だって」
「だから――どうしたっ!」
「お兄ちゃんの血が染み込んだこの部屋を婆ぁの血で洗ってやるってんだよっ!」
ネックハンギングツリーで縁側から庭に出るための踏み台の石――沓脱石の四角く尖った縁の上と頭から落とす。
ぐちゃりと――とてもいい感触が手に残った。




