第三十八話 無色透明の笑顔
ストーカー事件から一週間経つが、シャーロットはまだ金蚊にいた。異人喫茶で龍王に襲われたこともあり、護衛を延長しているからだ。しかし、延長期間中、特に何も起こらなかった。
(SNSは更新してないし、歌ってないし……でも、そろそろスイッチ入れないと)
シャーロットはベッドに寝転がり、窓に目をやった。今日もよく晴れている。暑くなりそうだった。静かに目を閉じる。エアコンの涼しい風が頬を優しく撫でた。
その時、白石の言葉が思い出された。
――知っていますか? DMDを摂取するとマナが黒色に変化するらしい。私はもう真っ黒でしょうね――
シャーロットが右手の<擬態>を解くと、漆黒のマナが陽炎のように立ち上る。ダークマナは人体に有害だが、稀に耐性を持つ者が現れるのだ。
(ずっと闇を歩いてきた私には、ダークマナがお似合い……かもしれません。でも……)
シャーロットは目を開けた。
(シュウさんは私を受け入れてくれるかもしれません。無価値な私は……変われるのでしょうか)
彼女は昔を思い出した。
◆
――カリスことシャーロットは半年ほど音楽活動を休止したことがある。
自分の成功が異能によるものだと自覚した時、心を病んだのだ。それまで脇目も振らず音楽にのめり込んだ反動もあり、何もできないほど無気力になったシャーロットは、夜の街を歩いた。
それまで飲んだことのなかったワインやウイスキーを年齢をごまかして飲んだ。考えてみると極端に閉鎖的な環境にいたシャーロットは食べ歩きや飲み歩きをしたことがなかったのだ。ホストクラブにも通い散財したが、莫大な資産は一向に減らない。金銭感覚が麻痺したシャーロットの生活は荒れていった。
ある日、シャーロットは資産家が集まる仮装パーティーに参加した。一般人の参加が多いが、会場の管理は反社組織がしており、明らかにカタギではない人間の姿も見える。パーティーの会場はタワーマンションの最上階だ。
広い会場から外に出ると、空中庭園を散策できる。木々の中に噴水が見え、明るすぎないライトが幻想的な雰囲気を演出していた。足下に大都会のネオンを拝める庭園には、酔いを覚まそうとする人や、カップルの姿が目立つ。
シャーロットはシャンパンを片手に持ち、噴水の前のベンチに腰掛けた。飲酒で火照った身体を冷ます。殿上人しか参加できない魅惑的なパーティー。そこにいる自分がまるで他人のように感じる。心の中に重たい石がのしかかっているような息苦しさを感じていた。
(もう……どうでもいい。無価値な世界に無価値な自分がいるだけ)
シャーロットは目を閉じた。このまま死んでも良いと本気で思っていた。鞄の中には毒を入れた小瓶がある。手に持っているシャンパンにそれを入れれば、この人生は終わる。シャーロットの耳元で悪魔が囁いた。
(……そうね。もういいです。終わりにしましょう)
シャーロットが鞄に手を入れた時、声を掛けられた。
「良い月が出ていますね。シャーロット=シンクレアさん」
突然の言葉に身体が強張った。慌てて手を元の位置に戻す。相手に悟られないように短く深呼吸をする。
「そ、そうですね。本当に奇麗」
シャーロットは声の方に顔を向けた。黒いフード付きのロングマントを着込んだ少年がそこに立っていた。いや、少女かもしれない。そう思わせるほど、中性的な容姿である。
「隣に座ってもいいでしょうか」
とても美しい少年だ。年齢は分からないが十代前半だろうか。肌は雪のように白い。さらっとした抜け感のある灰色の髪色で、赤い色をした鮮やかな瞳が目を引いた。
「あ、はい……。どうぞ」
シャーロットが少し横へずれると、少年は透明感のある笑顔を浮かべながらシャーロットの隣に座った。
(どうして私の名前を? 名簿でも見たのかしら)
シャーロットの視線に気が付いた少年はにこりと笑う。天使のような笑顔に思わず緊張する。さらさらした髪がそよ風に揺れた。
「僕はセツカと言います。あなたのことは知っています。最近、頻繁にお見かけしていました」
「そ、そうですか」
最近のシャーロットは目立っていた。年齢を詐称してはいたが、派手に散財した姿は、とある界隈では話題になっていた。知られていても不思議ではない。
「シャーロットさん。死にたいのですか?」
「え?」
セツカと名乗る少年の唐突の問いかけにシャーロットは焦った。確かに今の自分の姿は荒れている。そう思われても仕方のないことだ。
「な、何故……ですか?」
「僕は何でも知っています。あなたの悩みも、そして正体も」
男性とも女性ともとれる奇麗な声だった。シャーロットの心拍数が上がっていく。背中に冷たい汗が噴き出す。
「人はいつか死にます。それが早いか遅いかだけです。あなたの死に場はここではありません」
セツカの言葉に苛ついたシャーロットは大きな声を出した。
「どうしてあなたにそんなことが言えるのですか? 私の何を知ってるって言うの! 私、無価値な女なんです。放っておいてくださいよ」
シャーロットは涙ぐんでいた。自分より年下の男の子に、自分の苦しみなど分かるわけがない。ましてや赤の他人に――。
「価値のある人間なんていません。この世界にも価値はありません。ただ、そこに存在しているだけです。……物事に価値があるなんて、傲慢な考え方だと思いませんか?」
シャーロットはセツカの顔を睨んだ。セツカの深紅の瞳に魅入られそうになりながら、懸命にその感覚に抗う。
「野生動物が自分の存在意義を考えますか? いいえ。彼等にあるのは本能だけです。皆、平等に生きて、そして死んでいきます。明日が見えない闇の中で生きていくだけ……」
「……」
「生意気を言いました。でも僕は思うのです。この世界が闇に覆われれば人間は苦悩から解放されるのではないか……と。希望がなければ絶望もないのですから」
人は他人と比べて悩みを持つ。自分が落ち込んでいる時には特に思う。幸せな人が絶望に打ちひしがれればいいのに、それこそが平等な世界だと――。
シャーロットはそのように考えていたことがある。男の自室に監禁されていた時、マンションの一室で母親の帰りを待っていた時、彼女はこの世の中を恨んでいた。パンデミックでも起こって世界が壊れてしまえばいいと何度も思った。そして感じていた。胸の奥で蠢いているどす黒いマナを……。
「あなたにはダークマナがお似合いです」
「……ダークマナが?」
「失礼、褒めたつもりです。だって……闇こそ人の真理ですから」
セツカはくすりと笑うとベンチを立つ。シャーロットはセツカのマナを視るために、目を懲らした。
「……!」
セツカのマナを視て驚いた。色が無いのである。正に無色透明であった。
(うそ……こんなことって……!)
セツカはシャーロットの感情を見透かしたように言った。
「<擬態>はあなたの専売特許ではありませんよ。僕のマナは視えません」
「あ……」
「あなたにこれをお渡しします」
セツカはシャーロットに切手を三枚渡した。シャーロットは怪訝な顔をする。
「これは……? あっ!」
シャーロットは切手から滲み出るダークマナに気が付いた。思わず眉をひそめる。
「切手型のDMDです。口に含むと効果があります」
「……」
「自殺する前に、擬似的な死を経験しませんか? あなたの精神障害に効くかもしれませんよ」
「でも……」
「今日のパーティーの裏では、DMDの販売会があったのです。富裕層は物好きですよね。死に興味があるらしい。全てを手に入れた後に辿り着く境地なのかもしれません」
セツカはシャーロットに背を向けて歩き始めた。シャーロットは思わずベンチを立って呼び止める。
「あ、あの! またどこかで……」
セツカは立ち止まり、振り返った。無色透明な笑顔である。
「僕はDMDがこの世界を平等にするために必要だと思っています。もしあなたがその考えに共感してくれるなら……シャーロットさん、いや……カリスさん」
「……はい?」
「『協力』してください」
セツカはそう言い残して、会場へ戻っていった。彼の姿は人混みに紛れてすぐに見えなくなった。
――その後、カリスは活動を再開した。次々と新曲を配信し、ランキング上位を独占することになる。人気曲を収録したアルバム「無色透明」は各ランキングで一位を獲得したのである。
シャーロットは静かに目を開けた。まだ荷造りの途中である。ベッドから起きると部屋を見渡した。狭い部屋だったが、不思議と居心地が良かった。十日ほど暮らしたが、出て行くのが名残惜しく感じる。
(私は……シュウさんとどうなりたいんだろう)
シャーロットは時計を見た。そろそろリンと昼食を買いに行く時間である。シャーロットはシュウとの関係に悩みながら溜息をつくと、自室を後にしたのだった。
【参照】
異人喫茶で襲われた→第二十九話 龍王の襲来
子供時代の誘拐事件→第三十一話 無価値な世界
子供時代の虐待→第三十二話 二度目の死
白石の言葉→第三十四話 闇へ誘う女