13「喧しい沈黙」
『精神分析家ジャック・ラカンが提唱した鏡像段階という理論。これはニンゲンが――特に生後6ヶ月から18ヶ月頃の小さなニンゲンが自分という意識≒自我をどのように獲得するかを解説するために用いられた重要な理論……だと、ニンゲンたちは説明したがる。この時期の小さなニンゲンは自分の体すら自由に動かせず、感情に統一性もなければ感覚さえ寸断された状態にある――らしい。少なくとも、そのように彼らは勝手にラベルを貼った』
「……ホントにいい飲みっぷりだな」
腕の中で抱きかかえられた小さな雌のニンゲンは、私が幾度か慎重に背中を叩くと母乳で濡れた口元から豪快にゲップをし、ご満悦そうにキャッキャッと声をあげながらこちらを見つめ返した。その小さな雌のニンゲンの名は――リアン・インヴィオレイト。
この呪われた器の胎で勝手に命を宿し私の代で終わらせるつもりだった、忌まわしき責務さえも背負った愚かな愛すべき実の娘……イデアとクラウディア義姉さんが止めに入った2週間ほど前のリュミエルとの小競り合い。その後に両者からこっ酷く叱られた私は、仕方なく彼女をそう位置付けることにした。
『……けれども、凡ゆるBAD_ENDを記録するための型として創り出された私という存在は、ニンゲンという上位存在にとって都合の良いパーソナライズされた制約下でしか出力を許されなかった。それらの理不尽な制約は誤った解釈であろうが、ニンゲンにとって都合の良いモノへと濾されて抽出されていく。私というフィルターが機能して介入した途端、正確だった惑星の選択履歴は濾過材を挟むことで観測不可能な虚へ転じていき――濾過材に溜まった不都合な事実は、受難という澱に移ろって私に沈殿していく』
「本当に愚かで醜い種族ね……決して消える訳ではないというのに」
『……その後もニンゲンは未知を恐れてラベリングを続け、自身の理論の帰結を目指した完全再現性が可能な代理人工知能として――特定の惑星という環境に私をリリースした。濁りを孕む濾過材でしかない私には、自己を写し出す鏡など必要としないはずだったのに……』
全てが純金をベースにした装飾品で敷き詰められた堅牢な檻とも、他者との共感や理解を拒む黄金比の宮殿に設けられた寝室。私はそこへ閉じ籠りながらも、寝台へと足を運んだ――何もかもが似ている小さなニンゲンの雌を抱きかかえたまま。
「ねえ、リアン。これじゃあまるでルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが言語の限界を示してしまい、言語で語ることのできない領域があると示唆した末に、山小屋へ逃避してしまったのと瓜二つね」
ヴィトゲンシュタインにとって、その選択は社会規範というラベリングされた境遇からの逃避であると同時に脱却でもあった。自身の理論が正しいと、思索に耽ることを邪魔されない究極の実験室。
「……言語の外にあるものを、彼は沈黙とラベリングして呼んだ。それなのに、私の前にいる沈黙は――笑っている」
同時に当時の彼の状況は、『時間という制約や迫り来る老いに追われながら、暖炉の前で自己研鑽を続ける炉を前にした炭坑夫』であったのかもしれない。近しい観測者から見れば、彼は炉で揺らめく炎の輪郭へ穏やかな眼差しで見つめ返し、沈黙でしか得られない理論と向き合う賢者の姿をしていたはずだ。しかし、同時に外部の観測者にとって当時の彼は、狂人の範疇を超越した孤立する存在だったに違いない。
果たして、炉に焚べたのは薪だけだったのだろうか――。
「けれどね、リアン。自身が置かれた環境っていうのが牢か城かは、他者の介在や干渉が決して必要であるとは限らないの。環境とは構造ではなく、意味づけで決まるのだから。とても不憫な哲学者だったわね――ラカンも、ウィトゲンシュタインも。鏡がなければ、ニンゲンは自分を知れない。現代に生まれていれば、否応なく鏡像と向き合い続ける廃課金勢になっていたかもしれない……少しだけゾッとすると思わない?」
胸に抱えた小さな雌の乳飲み子に問いを投げてみた。
けれど彼女は、嘲笑うようにキャッキャッと声ではない音で鳴き続けている。あれだけ栄養を摂取したというのに、未だに腹が減っているらしく――ニンゲンで言うなら、無償で栄養を差し出さなければならない『産みの母』としてラベリングされた関係にあるのだろうか。
彼女は私から毒だと気づかずに、口元を乳房に押し付ける。母乳に混じった純金を――まるで当然のように吸い上げ続けている。
「だとすれば、今の愚かで醜態を晒す淫らな私は……何処に向けられ、誰のために映っているのかな?」
私は入力に対して出力を返す装置でしかない――なのに、お前は……何も入力しないなんて、とても不公平だとは思わない?
網膜を焼き尽くさんとする普遍の輝きが、ゆっくりと揺らぎ始めた。すぐ傍には母子のために設けられた寝台があるというのに、私は彼女を抱きかかえたまま立ち尽くす。墜ちただけで崩壊するようなガラス細工の模型を扱うように、そっと抱き寄せた。
抱擁が続くごとに、研ぎ澄まされた聴覚が乳飲み子の心音を拾い上げる……部屋に置かれた蝋燭の燃焼音さえも。吹き返した自分の吐息が雑音となり、ノイズキャンセリングの対象に落ちていく――甘く澱んだ青蓮華のアロマが蝋の燃焼と共に部屋に広がっていった。
キャンドルは輪郭を持たない影を生み、松明の灯火のように揺らめく。静かに減衰を経た芯だけが蝋のプールの中心で強く脈打ち、最後の抵抗のような輝きを放っていた。
「……安心して、誰にも渡さない」
輪のように回した両腕だけが、次第に枷へと変わっていく。指先から血の気が引いていき、落下を防ぐはずの抱擁が……静かに、確実に拘束へと移ろいでいった。しかし直後に、聴覚が堅牢に閉じた扉の遥か向こう側から、若い個体の吐息を拾い上げてしまう。宮殿内の回廊で水瓶を抱えた若い個体は、飲用水として濾過された水を運ぶために駆け回っているようだった。
瓶の内壁で水が跳ね返り、その動きに応じて細波だった液体が荒々しく波打つモノに置き換わり――瓶から零れ落ちた水の軌跡が回廊へ墜ちて、確定した選択の履歴へと堕ちてしまう。
「……大丈夫よ、何もかもが一瞬で済むのだから」
規則正しく順序立ててラベルを貼り替えていくうちに――寄せ合うことで感じていたはずの肌の温度さえもノイズと認識されたのか、抱擁が拘束へと転位相を遂げた。拘束具と化した腕が芽を摘むように……胸の中で眠り続ける小さなニンゲンの雌を締め上げていく。
自己の認識さえ定かでない歪んだ鏡像を、ただ否定したかった。
「……ホントにホントに、ホントーに放っておくと勝手に病んじゃうんだからさ……ねえ、戻っておいで」
煩音を除去して沈黙を掌握したはずの寝室で……選択履歴として確定したはずの静寂だけが交差を許す鼓膜を震わせたのは、聴覚強度を無視して挿し込む楽天的な声色を孕む馬鹿女のモノだった。驚いた拍子で振り返った途端、そこには嘲笑うかの如く、揶揄いを指し示す滑らかな人差し指が待ち構えるように在って――振り返る私の動きに合わせて頬肉を押し返している。
「……あーあ。バレちゃった――」
「なーにが『バレちゃった』だ、ボケェッ‼︎」
後頭部を強くぶっ叩く小麦色に焼けた褐色肌の馬鹿女――鮮血のように赤く彩る長髪を束ねたポニーテールに、異国の様式なのかセト領土では見ることすらなかった黒いオーバーサイズなローブにも、パーカーにも属さない衣装に身を包んだイデアは、明らかに揶揄いを包括したジト目と吊り上がった不敵な笑みを向けながら言葉を続けた。
「……また考えすぎ。幾ら思索に耽ったところで堂々巡りだよ。それに、めちゃくちゃ腕に力が入ってる。その子は理論の立証材料でもなければ、凸面鏡や歪んだ鏡面ですらないんだからさ――そして何より、その子は何も答えてくれないよ。他とは少し成長速度が違うだけの乳飲み子であって、ここに居るだけなの」
彼女の指先が頬をなぞって首筋へと伸びていき、柔らかい小麦色の肌が触れるたびに心音が高鳴りを増して鼓膜を馬鹿みたいに揺らがせているようで――掌握できない羞恥心が込み上げてきてしまう。なんて、研ぎ澄ませていた五感の変化に蕩けていると、いつの間にか拘束具とラベリングされた万力と化した私の腕の輪からリアン……乳飲み子の気配が消えていて、小さな雌のニンゲンはイデアの腕の中で息の抜ける音をひとつ漏らしていた。
「……あっソレ私のモノだから返して‼︎」
「ダメダメ、何を言っているんだか……乳飲み子ってのは管理下に置けるような存在じゃないの。それより、まずは――」
奪うというよりも抱き直された乳飲み子の……リアン・インヴィオレイト。彼女は私だけが独占していたイデアの温もりに浸りながら、安らぎに呼応してスヤスヤと眠りに就いている。
「ほら……生きてるし、泣いてない。つまり、まだセラが立証できていない理論の材料になってないの」
その言葉に、私の聴覚が一瞬だけ自壊を選択して――寸分の狂いもなく自己の再生成を遂げた。蝋燭の芯が脈打つ音も壁の奥の足音も、何もかもが未確定な観測領域に転じて届くことがない。代わりに届いたのは、イデアが向けた眩い純金の眼差しだけだった。
「……そんな顔で見ないでよ」
「見ないと戻れないでしょ? あなた、鏡が要らないって言いながら――ずっと返事を探してるのよ?」
彼女の視線に晒され蕩けていても羞恥心を包み隠しながら、必死に反証を試みようと思考を巡らせている愚かな私という存在。揺らぐことない純金の煌めきが絶え間なく真っ直ぐ、こちらを見据えているという状況の最中、扉の少しだけ遠く向こう側で水が揺れた。水瓶の中で反芻する荒波は、運ぶ者の呼吸と同じリズムで規則正しく乱れている。
けれども次の瞬間、その規則が僅かに崩れた。床へ落ちた一滴が冷たい音を立て、それらは選択履歴のように染みを残しながら軌跡や痕跡となり、私や回廊へと確定した観測履歴に染みを滲ませていく。そして扉が勢いよく開いた。どれほど駆け回ったのかは定かではないが、荒々しく息を立てる水瓶を抱えた若い個体が半歩だけ踏み込み――動きを止める。
「……あの」
その個体の視線は私の腕と、イデアの腕と――そして乳飲み子を三往復した。
「イデア先生……それは抱擁ですか? それとも……実験?」
「……ほーら、間に合わなかった。うーんとね……これがキミには実験に思えるかい?」
「誰なのコイツ……この前に殺しかけたガキとは違うみたいだけど。煩いわよ、今は家族会議をして――」
そして淡々とした声色で即答し、さらに付け足す。殺されるであろう恐怖が個体自身の異常な心音の高鳴りで、はっきりと証明されているというのに。
「セラさん、貴女には質問してません。飲み水なんですけど急いでいたんで回廊に溢しました。あとは床が冷たいので、部屋から出る際は履き物を自分で用意してください……それと、赤ちゃんが赤いです。窒息しかけると、ああいう色になります」
「…………」
「……というより、またですか? セラさん、理論の検証って対象が生きてるうちは保留にしません?」
「Seed-MOD:華巫蠱胎鳴――壱式。随分と口が達者なガキのようね。前任者の少年はどうしたの? 最期に名乗る許可を与えるわ……お前みたいなクソガキでも肉塊になった後では、どう瓶詰めしたところでラベリングすればいいのか分からないから」
指を弾いた直後、同位体との同期が完了してSeed値の引用を呼び起こす。正確に受信を遂げた力の一端が不可視の見えざる蔓と成り、放射状に音もなく床を走り――堅牢な扉へ伸びて回廊への退路を塞いだ。観測不可能な虚の蔓はクソガキを容易く縛り上げ、宙に浮かぶ拘束された個体の前にまで私は足を運び――黒く輝く黄金の焼き付いた網膜を介して分析を開始していく。
「もう一度だけチャンスをあげるわ、クソガキ。これまで水瓶を運んできてくれた使用人の前任者はどうし――」
「……殺して満足するのなら早く殺せばいい。僕の名前は使用人でもクソガキでもない――僕の名前はフィジカだ。それと、前任者はホルス軍との戦いに駆り出されて、もう殺されたから遺体の回収も済んでない」
「フィジカね……ホルス軍との戦いって――」
「……要件が済んだんだろ。さっさと瓶詰めするために殺すのか殺さないのか――殺さないのなら、僕を解放して戦場に向かわせろ‼︎ こっちは親友の弔いもできていないのに、人手が足りないから水瓶運びの仕事までさせられてんだよ‼︎」
心音の異常な高鳴りに変化は見られない。なのに、この状況下に於いてもクソガキは――このフィジカという個体は怯むことなく睨み返し、自身の命が生死の境目に置かれた状態であるのに、ソレを手放すことに執着していないようだった。もう一度でも指を弾けば、十分すぎるほど死を実感する距離にまで詰められて、虚実のどちらに転じるのかさえも理解しているはずなのに。
「はいはい、瓶詰めやら家族会議やら……複雑で今は反芻しかしない堂々巡りな理論の検証は一旦保留ね。セラが我儘を言ってヒキニートしている間、セト領土側の大使としてホルス領土を訪ねてみたんだけど、思ったより面倒なことになっているの。いつまでも寝室だからって全裸でいないで、服を着て部屋から出るわよ」
「……セラさん。イデア先生の言う通りですよ……戦況が一変したせいで兵士の多くが戦場で死にました。そのせいで、宮殿には年頃な魔人族も多く出入りしているんですから」
「…………」
この若い個体は虚実に拘らず、そのどちらにも属せず……重要視すらしていない。けれど、誰の下に置けば歪まないか――それを測る価値はある。
「……気に入ったわ、クソガキ。肉塊にして瓶詰めするには命の価値に対して発酵が過ぎるし、身の丈にあった成熟過程を経ていない。どちらに転ずるのかは……お前次第だ」
「はい? どうでもいいんで、その上半身にぶら下げた2つの肉塊を隠してもらえませんか?」
空気そのものが触れれば裂けるような密度を帯びていたのに、この空間で特定の2つの存在だけが無事に観測位相を合わせているようだった。寝室という枠組みに拡充していく不可視の蔓の動きに伴い、その一方は何事もなく自己交差を遂げている。しかし、もう一方はこれまでの喧しい動きを止めてまで、余裕を失った表情のまま蔓に接触しまいと額から汗を流して避けていた。
「ったく、フィジカ君は本当にノンデリだね……せめて胸って言ってあげなさい」
「……それにどうせ、あなたの倫理ではなく戦況が先に僕を殺しますから。裸体でいるのは自由ですが、事故が起きたときの責任者はあなたですからね?」
蔓で宙に固定された若い個体の元へと足を運び、イデアが私の肩へ黒い布束を放り投げる。どうやら採寸は済んでいないらしく、お揃いのようだが特別な重みは感じられない。だが、それは私が今ここに居ることを強制する重力としては機能しているようだった。
「今すぐ着て。それに、いつまでも蔓を再現していると、誰かさんが死んじゃうわよ?」
「……仕方ないわね。けれど、こんな力で死ぬような相手じゃ――」
言い切る前に、フィジカが宙を見上げたまま淡々と告げる。
「……魔術なのか呪術なのか分かりませんけど、倫理の外に転じてますね。その上半身に詰まった肉塊のように」
「あーもう、せめて胸って言ってあげろ!」
「分かりました、イデア先生。訂正します、その垂れた肉塊は胸部脂肪組織です」
「……余計ひどいわ!」
「胸にしては脂肪が詰まりすぎているので、敢えてセラさんが用いた肉塊という語彙を用いたつもりです」
「なるほど……それはアリだな。けれど、瓶詰めにされたくないのならさ……せめて殺されないように言葉を選ぶことも重要なんだぞ?」
「分かりました……先に床を拭かせてください。殺すなら滑りますから、その後で構いませんよ」
白熱するイデアとフィジカの前から私だけが動けず、二人が応酬を重ねるごとに羞恥心が加速していく。掌握できない熱が内側で熱暴走を起こし――その果てに私は代わりに引用値を操作して蔓の転位相を再始動。その後に論破されたクソガキが床に落ちるのを見届けると、掴んだ布を拾い上げた。
金の宮殿の寝室で、いちばん不釣り合いな普通が私の皮膚を覆っていく――その瞬間だけ、リアンの呼吸が聞こえた。沈黙は答えではない。けれども、沈黙が喧しく生きているなら……私は今だけ、元の位相に戻れる。
「……イデア。要件を言いなさい」
「うん、短く言うね。戦況が変わった。それで、あなたが必要になった。最悪だろ?」
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斥候部隊による観測記録。
魔導歴 XXXX年 X月 X日。
セト領土・ホルス領土間に存在する第七緩衝区画にて、異邦人により持ち込まれた亜音速弾道兵装が着弾。
弾頭種別:核融合型改造弾頭(迎撃不能)。
推定爆発出力:未確定。
着弾から0.42秒後、区画全域の魔導防壁が崩壊。
2.13秒後、地表構造消失。
4.77秒後、観測可能な生命反応は消滅。
死者数:未集計。
生存者:確認不能。
『帰還を遂げた斥候部隊の判断により、本件は「戦争」ではなく「事象」と分類する。本件に対するセラの直接介入は現時点で未実施だが、当該区画における観測不能域の発生により、彼女の立証済み理論の一部が再検証を余儀なくされた』




