Act.95 画竜点睛
シェリルと椿が黒の騎士の足止めを買って出ていた頃、襲と梓はターミナルを挟んだ向かい側の路上で、静かに、だが着々と「準備」を進めていた。
片膝を付いてしゃがんだ襲の右手にはFパックが握られ、金属の筒の中は既に梓の詞素によって満たされている。その手首には黒の金属光沢を放つ、見慣れない腕輪型AIUが嵌められていた。
そして、彼の背には梓の両の掌が添えられ、襲の体内へと吸蔵しやすい性質へと転化させた詞素が注ぎ込まれている。
物陰に隠れたまま、数分程そうしていただろうか。
「吸蔵解放」によって欠乏した体内の詞素の充実を、己の肉体の活性状態から悟った襲は静かに口を開いた。
「ありがとうございました、もう大丈夫です」
「そうですか……。わかりました」
やや疲労した様子で頷き、両手を離した梓がほぅと胸のうちに溜まったものを吐き出すように小さくため息をついた。
自身の詞素を襲の詞素と同質の性質へと転化させつつ、それなりの詞素が入るFパックの充填を完全な手探り状態で行ったのだ。疲れても無理はあるまい。
そうは思った襲だったが、ここで労うような言葉を選択できるほどの甲斐性は生憎持ち合わせていなかった。
「では、先程お話した通り、梓さんは早急にこの場から避難してください」
そう言って踵を返そうとした襲の腕を、ぐいと梓の手が引き寄せた。
スモークシールド越しに訝しむような色を浮かべた襲の視線と梓の真っ直ぐな眼差しが絡み合い、僅かな空白を生む。
「椿のこと、お願いします」
彼女の口から紡がれた言葉は、その内容に反して、明確な意志の力を感じさせるものであった。
襲は小さく頷いて、紫色の双眸を騒乱の渦中へと向ける。
最中、襲の腕を掴んでいた梓の手が離れた。
無言のまま駆け出した襲の脳裏に、突如「声」が反響した。
肉声よりも生々しい、剥き出しの感情の発露。それは無形の危機感に違うことなく、二人の窮地を知らせるものか。
刹那に点った「熱」に魘されるように、襲は手にしたFパックの開閉スイッチを指先で叩くように押し込む。そして――、
稲妻が、大地を穿つ。
何の前触れもなく視界を白く塗り潰した閃光と鼓膜を突き破らんとする爆轟に、その背を見送っていた梓は圧倒された。
数秒の後、ようやく開いた瞼を瞬いて、
「き、消えた……?」
ひび割れたアスファルトの上に、梓の呆然とした呟きだけが漂った。
◇◆◇◆◇◆◇
自身の肉体そのものを雷と化して、襲はシェリルの眼前へと閃光と共に降り立った。
間、髪を容れず。
前方より迫り来る光弾に対し襲は内側から外側へと片腕を振るう。その動作に追従するように掌から蒼の閃光が迸り、高濃度に圧縮されたフリークス粒子の塊を脇へと弾き飛ばした。
直後、背に庇ったシェリルから、消え入りそうな声が届く。
「かさね……さん?」
振り返りながら自身を包む雷の衣を光の粒子と脱ぎ捨てた襲は、ちらと怪物を一瞥してから口を開いた。
「遅れてしまって申し訳ありません。後は手筈通りにお願いします……大丈夫ですか?」
「は、はい。ですが、彼女が――」
切羽詰まったような表情を浮かべ、視線を異形に宙吊りにされている椿へと視線を動かそうとしたシェリルを、
再び、閃光と雷鳴が襲う。
「きゃっ!?」
遥か後方より上がったシェリルの悲鳴が届くよりも速く、落雷は三度アスファルトを穿った。
シェリルの眼前にて轟き、異形の眼前にて瞬く。
空気の爆ぜる音を、黒の騎士が聴いたか否か。
偶然閃光に視力を奪われなかった異形の目の一つが、蒼の軌跡を――左の手刀を斜めに振り切った襲の背中を捉えた。
形容しがたい危機感を本能と感じ取った異形は椿を拘束していた左手を離し、迎撃へと転じようとして。
己の腕が肘を境に無くなっていることに、その時、ようやくに気づく。
わけがわからずに混乱した黒の騎士は、全身の装甲の隙間から触手を針鼠のように樹立させた。その中の一突が襲の頭部を捉え―――空となったフルフェイスヘルメットを串刺しにする。
『アうゥルェ…?』
追撃する暇さえ与えず。襲は異形の腕を切断した蒼の手刀を開き、黒の騎士の手から零れ落ちるように宙を舞う椿の身体をそっと胸中に抱き留めた。その安否を確認することもなく、閃光と共に宙を蹴る。
カメラのフラッシュを思わせる閃光を放った襲の姿は、一瞬の後、再びシェリルの眼前へと現れていた。
珍しく呆けたような表情を浮かべているシェリルに、襲は何故か場違いな笑みが浮かびそうになるのを自覚する。
無表情に笑みを噛み殺しながらに襲はその場で屈み込み、椿の首筋、正確に言えば喉仏の側面にある頸動脈へと二本の指を押し当てた。数秒の後、知らず息をつく。
「彼女のこと、お願いします」
「えっ…?あ、はいっ」
フルフェイスヘルメットを被っていない所為なのだろうか?
先程までとは打って変わって感情の色を宿したと見える襲の温かな口調に、シェリルは椿の身体を支えながら目を瞬いた。
そんな少女の心中を知ってか知らずか。
襲は口元に緩やかな笑みを作り、くるりと身体を反転。異形へと真正面から相対する。
その右の指先がFパックの蓋へと伸ばされるや、襲の全身を再び蒼の雷が包み込んだ。
(あれって……もしかして、楠那さんが昔使ってた術と同じ―――)
一連の様子をやや後方から眺めていたシェリルは、襲が行使している術式に見覚えがあることに気づく。
構成術の根幹を成すのは、この世界を形作る「情報体」の情報の改竄。
そして、情報の改竄によって生じた「膜」の歪み。現実世界にまで及んだ影響こそが、「構成術」の正体。
「鳴神家」を“鳴神”足らしめた理由。
それは、ひとつの構成術であった。
自らの肉体とその周囲に詞素の力場を形成しつつ、体内外の詞素の座標情報を改竄することで、結果的に術者に瞬間移動が如き超常的な挙動を実現させる構成術。
連続的に座標情報を書き換えられた詞素が体外にて凄まじい勢いで擦れ合い、その摩擦によって周囲に放電現象を常時発生させる様は、
まさしく『雷』――。
静電気によってやや逆立ったと見える黒の髪を靡かせ、襲は紫色の双眸を鋭くした。
放射される殺気は今までになく濃く、濾過に濾過を重ねたような純度の高いそれは触れた者に純粋な恐怖だけを植え付ける。呼応するように輝きを強めた雷が襲の輪郭を薄め、ちりちりと小鳥が囀るような高音だけがシェリルの鼓膜を刺激した。
刺激は彼女の胸中で言葉と成って、
(画竜点睛!)
同じく胸中で術の名前を叫んだ襲は、加速する意識の中で跳躍した。
直後、周囲の空気を押し飛ばすように黒の騎士の側面へと「転移」した襲の拳が異形の身体へと放たれ、異様なほど重い躯体を水平方向へと殴り飛ばした。
アスファルトを抉りながら数百メートルほど吹き飛ぶ黒の騎士、その頭部に、一瞬にして追いついた襲の拳が叩き込まれる。
爆轟と突風。
叩き付けられた異形の身体が路面と接触するや、隕石の落下現場を彷彿とさせる巨大なクレーターが穿たれた。生じた爆風が周囲の車両を吹き飛ばし、遥か遠方の窓ガラスを粉々に砕く。
続けて拳を振り下ろさんとする襲に対し、路面に突き刺さったまま黒の騎士が触手で迎撃を行う。僅かコンマ一秒にも満たない時間の中で収縮し突き出された触手の束が襲の全身を射抜かんとしたが、射抜いたのは襲自身ではなく、残留した粒子が生み出した残像であった。
遥か前方にて再び姿を現した襲の背中を全身の眼球で追いながら、僅かに残った理性の中で黒の騎士は悟っていた。
先程の交戦時とは異なり、獲物がただ姿を消したわけではないことを。
――この獲物は、凄まじく“迅い”。




