Act.76 尊ぶ
柊善治は藻掻いていた。
何も見えない。前が真っ暗だ。何が起きたんだ?
思い出した。青のAMに妙な装置を突き立てられたと思ったら、コックピットの中に黒い霧が流れ込んできたんだ。
黒い霧……?そうだ、思い当たるものが一つだけある。
あれは……シャドウか?でも、なんで――なんで人間がシャドウを?
わからない。あの装置は何だ?
そもそもあの連中は何だったんだ?何故俺は――…、
オレは……誰だった?
自分が自分でなくなってゆくような、そんな『感覚』。
足元から黒く深い沼に呑まれてゆくような。
あるいは、末端の神経から徐々に蟲に喰われて無くなってゆくような。
「自我の喪失」。
それは人にとって「死」と同義だ。「自我」こそ人を人足らしめる「中身」であり、肉体はその「器」に過ぎない。
襲い来る緩慢な「自我の喪失」に怯えながら、彼は声にならない、されど明瞭な意志を『声』に代えて叫んだ。
蝕まれ、汚染されてゆく意識の端に縋り付き、何度も、何度も、何度も。
今は亡き両親との思い出。友人とのくだらない談話。恋人との語らい。
人を救えるような強い構成術士になると、第七学園の入試に張り切って出掛けていった弟の姿。
全て失われてしまう。なかったことになってしまう。
嫌だ……いやだッ!そんなのはゴメンだ!
失くすくらいなら、無かったことになってしまうくらいなら、いっそのこと――…。
「誰か……俺を――シてくれ…」
全てを壊して欲しいと、善治は懇願した。
禍々しい赤黒い燐光を発しながら襲い掛かってくる白の機体は、その内部から這いずり出す毛細血管のような触手に四足を絡め取られており、既に先程まで有していた人間的なフォルムからはやや逸脱した造形を晒している。
《マーナガルマ》の操縦桿を捌くことで異形の巨人の突進をやり過ごしながら、襲の「眼」はコックピットの更に奥へと向けられていた。
『善治ぃ!!一体どうしたんだ!?止めろっ止めるんだ!!』
同型と思しき機体のパイロットが必死に呼び掛けるも、呼び掛けは虚しく虚空に響くばかり。
襲は異形と化した《センチネル》から幾度となく振り下ろされるフォノンセイバーを蒼の刀身で受け流しながら、強く、奥歯を噛んだ。
聞こえる。
彼の「叫び」が聞こえる。
刃を交える度、刃に込められた思念波を傍受する度。襲の意識は善治の過去へと飛び、その全てを識ってゆく。
「イア、どうだ……?」
心無しか、問いは嘆願にも似た震えを帯びていた。
自身では気づかないほど、僅かに。
他者が聞いても気づかないほど、囁かに。
『フリークスセンサーを参照。結果、対象は完全に“堕ちた”ものと思われます』
「……そうか」
『どうなさいますか?』
イアノートが訪ねたのは、オペレーターとしては愚問とも言うべき問い掛けだった。
任務の遂行を第一とするなら選択肢は撃墜しかない。それはわかっている。
それでも――と、イアノートは言い淀む。
襲の横顔を見て。無表情のまま変わらないその表情を見て。
大丈夫ですか――と、彼女は暗に問い訊ねるのだ。
それが、何故か酷く温かなものに襲は感じた。
「撃墜する」
僅かに生じていた指の震えは、既に収まっていた。
再び刃が交錯した瞬間、蒼の光刃は相手の光刃をへし折るように振り切られていた。
荷電粒子の束が白の装甲の上を滑る。
コックピットの奥から響く、彼の者の「叫び」を止めんが為に。
暗がりに堕ちた善治に、一条の光が差し込んだ。
頬を照らす温もり。言い様もない感慨に浸ると同時に、善治は光の向こうに紫苑の輝きを見た気がした。
言葉にもならない感情が、喉に詰まった泥のような恐怖を押し上げ、確かに、震えた。
震えは、言葉となって。
「―――――とう」
振り抜かれた光刃の先に、善治は無表情の仮面を貼り付けた小さな少年の姿を見た。
光刃は躊躇い無く振り抜かれ、袈裟斬りにされた《センチネル》はやがて一つの光球と化した。
『フリークス反応消失』
イアノートの報告が虚しくコックピットを満たし、襲の醒めた表情をより酷薄としたものへと変貌させたようにも思える。
フォノンセイバーを右腕の装甲に収めた、直後、《マーナガルマ》の機体を火線が掠めていった。
無表情のまま視線だけを向けると、その先には予想通り先程まで制止の声を飛ばしていた同型の機体の姿があった。
『この人殺しがぁぁあ!!』
ガトリングガンから吐き出される鉛玉の雨を避けつつ、《マーナガルマ》はメインスラスターの輝きを強めた。
続けて放たれたミサイルをものともせず、黒の機体は青の燐光だけを残して澄んだ大空の彼方へと姿を消してゆく。
一連の状況を見ていた複数の生徒の間で、事態の終息という結果に対する歓喜と、その経緯に関する動揺の言葉が洪水のように溢れ出した。
ただ一人、目尻に涙の雫を浮かべ左胸を押さえた、雨宮唯を除いて。
(お兄さん……まだ、気づいていないんですか?)
詞核を通じて伝わってくる兄の思念。それは押し隠された感情の発露であった。
思念波は「共感」として互いの間を伝わる。
ならば、この『痛み』は?
危機が去ったことを喜ぶ人混みの中で、唯は一人、零れそうになる嗚咽を噛み殺した。
◇◆◇◆◇◆◇
空中での戦闘が一応の終息へと傾いていた頃、羽田空港のみならずウィスタリアの各地でハンニバルの発生が確認されていた。
逗まることを知らぬ災厄の対応に追われる軍人の一人に、赤いポニーテールを紅蓮の炎の中で揺らす一人の少女の姿があった。
「Alea jacta est――」
紅蓮の構成術士たるカレン・ルーフェ・グラスティンバーが右腕を振り翳す度に、紅蓮の業火が空間を圧倒してゆく。
荷電粒子が織り成す光学現象。それは人の目と意識を介して見れば「炎」と呼ぶ他ない。
業火の先、住宅街の一角から、鰐に似たシルエットの十メートルはあろう巨大なハンニバルがその堅牢な肢体を覗かせた。
大きな口を開けて吐き出したのは、純白の光球。
恐らくは体内のフリークス粒子を圧縮し、高励起状態へとシフトさせながら光弾の如く吐き出しているのだろう。
着弾したコンクリートがぶすぶすと焼け熔けてゆく中、逃げ遅れた住民に命中しそうになった光弾がカレンが纏う「高熱装甲」によって飛散した。
「行くよっ!」
尚も攻撃を続けようと口を開いた鰐の側方に、金髪の少年が拳を構えて潜り込んでいた。
両腕を突き出し、詞素を込めた掌底を鰐の胴体へ放つ。
発動させた構成術は、「気功掌」と呼ばれる、打突時の衝撃を増幅させる術式である。
HETマジックによって強化された掌底はそれ単体でも凄まじい威力を誇るが、「気功掌」と呼ばれる術式は打突時の衝撃、即ち運動ベクトルを増幅・操作することで破壊力を飛躍的に高めることができる。
運動ベクトルを増幅、とは言っても物理現象の根源たる電磁気力を、そしてそれらを伝播する光子を操作する、というような難儀な術式ではない。
掌底を打ち込むと同時に、その運動ベクトルに上乗せする形で物理的な性質へと転化させた詞素を対象へと流し込み内部から破壊する。それが「気功掌」の原理である。
細身としか言い様がない少年が鰐の牙を巧みに躱し、分厚い鱗の鎧に掌を押し当てた、瞬間。打突地点を中心として「波紋」が広がった。
それはまるで水面に落とされた水滴の如く。
掌から放出された空色の詞素が周囲に水飛沫さながらに飛び散り、巨大な鰐の身体を数メートル上空へと打ち上げた。重力に引かれ鰐が落下した衝撃で、砕けたアスファルト片が視界を埋め尽くす。
視界を奪う粉塵を意に介すこともなく、金髪の少年、クロヴァレンス・アールヴヘイムは追い討ちを掛けるように裏返った鰐の白い胴体へと拳を振り下ろした。
轟音と淡い燐光が人気の捌けた街中に漂い、吐血した鰐の身体がゆっくりと弛緩してゆく。
敵の無力化を確かめた上で、クロヴァレンスはカレンの下へと駆け寄った。
「副隊長っ!」
住民の避難誘導に勤しんでいたカレンはクロヴァレンスの姿を見、カトラスに似た片刃の刀身を有する剣型のAIUを腰の鞘に収めながら首を僅かに傾げる。
「どうしたのクロ?」
「……クロ?えっ、それって僕のことですかぁ!?」
明確な動揺を見せたクロヴァレンスを見て、カレンはようやく己の失言に気がついた。
「えっあっゴメン!こっちの方が愛着があるかと思って……気に障った?」
紅の双眸を潤ませ哀しそうに眉を下げた動作は、本人から言わせれば全くの無意識でのことであったが、クロヴァレンスは普段は凛々しい表情を浮かべている女性が急にしおらしい所作を見せたことに必要以上の衝撃を受けていた。
言い様もない気恥ずかしさに襲われ、カレンの赤の瞳を直視できなくなった少年は、頬を僅かに紅潮させながらやや挙動不審ともいうべき動作で精一杯の敬礼を返す。
「い、いえっ!ただ愛称というものに不慣れだったもので!」
一連の経緯を見ていたカレンからすれば、何故そこまでかしこまったような動作を実行に移したのか理解しかねる、と言うが本音であった。
取り敢えず頬の赤みと合わせて考察するに、あだ名(彼女的には略称)で呼ばれたことが余程恥ずかしかったのだろうと思い至って。
深く、申し訳なさそうに目を伏せる。
「そっか……嫌だったよね。その、変な気を使わせちゃってごめんなさい」
カレンの反応に驚いたのは、何故か嫌がっていた(ように見えた)クロヴァレンスの方であった。
「い、いえっ!そんなことはないです!」
答えの内容はともかく、声量は完全に間違えているなぁとカレンは微笑する。
浮かべた表情も少々硬いものとなってしまったのも、ある意味仕方がないことではあったのだが。
「えっ、そ、そう?」
「はい、むしろ隊長のようなお方に愛称で呼んで頂けるなんて光栄です!」
両の拳を胸の前で硬く握り締めにじり寄ってくる部下に対し、今度はカレンが動揺を示す番であった。
「そっか、なら有り難く呼ばせてもらおうかな?」
「は、はいっ!」
元気よく返された言葉に対し、カレンは淑女の微笑みで対応する。
暫しの間をおいて、カレンは表情と声音を軍人のそれへと変えた。
「それで、何か報告があったのでは?」
そのことを肌身で悟ったクロヴァレンスは、改めるように一礼してから義務報告的な口調で語り始めた。
「報告します。GHQ(作戦本部)の一報によれば、羽田空港にて大規模なフリークス反応を確認。シャドウが出現した可能性が高いとのことです」
カレンは思考する間も無く、左耳に取り付けられた小型の無線機へと手を遣った。
「梓、今どこに居ますか?」
『はっ、現在は首都高速湾岸線にて避難誘導の任に当たっております』
返答は、大した待ち時間もなく無線の向こうの梓からもたらされた。カレンはクロヴァレンスに一瞬視線を遣ってから、質問を続ける。
「そこから羽田空港は近いですか?」
『はい、目と鼻の先ですが…?』
「今すぐ羽田空港に向かって下さい。現地入りしている構成術士と協力、住民の避難誘導を順守するようにお願いします」
カレンの切羽詰まったような語り口に違和感を覚えたのだろう。恐る恐ると言った様子で、梓から詰問が届いた。
『あの、何かあったのですか?』
「羽田空港付近にて急激なフリークス濃度の上昇が確認されました。数値から推測するに、シャドウが発生した可能性が高いと思われます」
無線の向こうで梓の息を呑む音が聞こえる。
理由こそ不明だが梓に生じた動揺は決して小さなものではなく、生まれた空白の合間にカレンはその精神状態を憂慮した。
それでも、彼女が最も現場に近い。住宅街での護衛任務を放棄できない以上、移動に長時間を要するであろう自分たちが羽田に向かうのは得策ではない。
再び、カレンは問うた。
「行ってもらえますか?」
『……了解しました!』
無線から返って来た返答に、カレン安堵の笑みを浮かべる。
そして羽田空港のある方角へと視線を移しつつ、カレンは先程から締め付けられるように『痛む』左胸へと手を添える。
(襲……)
胸中にて、カレンは無意識のうちに幼馴染の名前を呟いていた。




