Act.65 mist <2>
椿がハンニバルと遭遇した時刻から、遡ることおよそ二時間。
休憩所の仮眠室にて仮眠をとっていた襲は、突如として、研ぎ澄まされた『感覚』の中に異常を『視』咎め、紫苑の双眸を暗がりの中で見開いていた。
跳ね上がるようにベットから飛び起き、天井の一角を――何も見えるはずもない一点を凝視する。
やがて確信を得た襲は十分に視界が効かない中、迷うことなき確かな足取りで仮眠室の隅に設けられたドレッシングルームへと向かい、予め用意しておいたHNS(ハーモナイザースーツ)へと手早く着替えた。フルフェイスヘルメットは被らずに脇へと抱え、ドレッシングルームを後にする。
「どうかしましたか?」
襲が動く気配を察知したのか、隣接した仮眠用の個室から顔を出したシェリルが不安そうに口を開く。
「来た」
「………ッ!?」
襲がドレッシングルームから飛び出し仮眠室の扉を開けた時、既にシェリルは襲の言葉が意味しているものを理解していた。
しかし、襲のセリフから推察して理解したわけではない。大気を震わせる禍々しい『気配』の現出を、彼女の『聴覚』が捉えていたのだ。
走り抜ける悪寒に、シェリルの全身が粟立つ。
「まさか……」
脳髄を揺らし、温く粘り付くような不協和音。
シェリルはこの『音』に『聴き』覚えがあった。瞬時に記憶の中から明確な情報が呼び覚まされる。十年近く前、両親を失った夜にも聴こえたあの『音』だと。
慌てて飛び出したシェリルが休憩所のモニターの前で立ち止まっている襲に追いついたのとほぼ同じタイミングで、隣の仮眠室から飛び出して来たミルハレーナが携帯端末を片手に駆け寄ってきた。
「重力波を確認したわ!OLC-NW(ネットワーク)にも反応があったっ!」
「やはり、おいでなすったか……」
二人の会話を聞きながら、要領を得ないシェリルは質問を口にする。
「あの、OLC-NWって何でしょうか?」
「Optical Lattice Clocks Net-Workの略称よ」
「え、えっと…?」
「簡単に言ってしまえば、光格子時計を利用した質量変移検出ネットワークのことです」
答えたのはミルハレーナだったが、その回答に補足してきたのは襲であった。
「光格子時計ですか?……確か時間の指標にもなっている、とても精度の高い時計のことでしたよね」
「ええ、その通りです」
時計が「時間を計る装置」であることは当然周知のことと思うが、「時間」の正体について詳しく理解している者は意外と少ないのかもしれない。
それを重々承知した上で、襲はシェリルへと解説を続けた。
「時空という言葉がある通り、時間と空間は非常に密接なものです。
例えば観測地点における時間の“遅れ”は、時間の遅れが生じた周辺の空間が何らかの原因で歪んだことをも意味しています」
「何らかの要因……と言うと、質量の増加でしょうか?」
シェリルの回答に頷きながら、ここまで理解できているならば話が早そうだと内心安堵していた。
ダリウスにも説明した通り、質量は空間を歪ませることで重力を生み出している。
また光は直進性を有し、真空中では一定の速度を保つ。これは普遍であり、光が通過するのは空間における最短距離に他ならない。
光の諸性質(回折・干渉・屈折・反射など)以外で光が曲がって見えるようなことがあれば、それは光が曲がっているのではなく、光の経路たる空間が歪んでいることを示唆している。
空間の歪みを引き起こすもの、つまりは質量体の存在を。
「光格子時計は時計の中でもとても精度が高く、時間をより正確に計れます。
これを各地に設置してそれぞれの時間の遅れを検出することで、観測地点における時空を歪ませている要因──つまり質量の存在とその変移を検出することができる。これがOLC-NWの大雑把な原理です」
有名どころを上げるならばブラックホールの周囲では時間の流れが遅くなり、光も曲がる…などという現象も、重力を引き起こしている質量体の存在及び生じた空間の歪みが、光と時間とに密接に関わっている強い証拠であろう。
「観測されたのはどこですか?」
どうやら納得してくれた様子のシェリルから視線を外し、襲は携帯端末を忙しなく操作しているミルハレーナへと声を掛けた。
「座標からして……余波を観測した場所から少し離れているみたいね。予定より少し早く通過することになるかも」
「飛行機は今どの辺りの空域を飛行していますか?」
「『霧』が濃くてレーダーじゃ無理ね。
取り敢えずレーダーが最後に捉えた位置と速度から予測してみるけど……そうね、大体後一時間と経たないうちに余波が観測されたポイントへと差し掛かると思んじゃない?」
少女が言い終わらないうちに、襲は休憩所の扉を押し開けていた。
開いた扉の先に待っていたイアノートに目配せし、薄暗い夜道へと身を投じる。
「ちょっと、どこ行くのよっ!?」
後ろから追い掛けて来たミルハレーナとシェリルに対し、襲は前を向いたまま意識だけを二人に向けた。
「今すぐ出撃ます。ミルさん、AMの発進準備をお願いできますか?」
「今すぐは無理よっ!武器の積み込みは大方済んでるから良いとしても、飛行術式と座標固定術式のチェックがまだ――」
「大丈夫、今終わったとこ」
襲が機体が収容されている重厚な扉に手を伸ばしたと同時に、入れ違うように扉の向こうから出てきたのは夜宵であった。
常に眠そうだった表情には更なる拍車が掛かっているようであり、今にも眠りに落ちてしまいそうな様子を見ると、どうやら寝ずに機体の調整を続けていたらしい。
「夜宵っ、アンタまた寝てないの!?」
「うん。眠れなかったから、少しだけ」
二人の遣り取りを余所に、襲は直立したまま不動を貫いているAM、《マーナガルマ》の肩へと跳び移っていた。
助走していたとは言え十メートル以上の高さを垂直に跳ぶ姿は重力の存在を疑わせるものであったが、その背中を追い掛けていたイアノートも黒い箱を手にしたまま襲と同じように肩へと跳び移ってゆく。
「開けてください」
襲の言葉に、夜宵は無言でコンソールに手を翳した。送信された思念波によって機体のセイフティが解除され、続けて襲が《マーナガルマ》に向けて思念波を送信すると、小さな稼働音を立てて胸部の装甲が上へと開き始める。
「ご一緒致します」
「ああ、頼む」
イアノートから手渡された黒の箱を受け取りつつ、襲は静かに頷いた。一度ヘルメットと黒い箱を下に置き、イアノートへと向き直る。
対するイアノートはサファイアブルーの瞳を閉じ、上着を開けさせた。服の合間から覗く肌は人間のものと遜色なく、明かりの下で見え隠れする鎖骨が艶かしい。
突然の出来事に部外者三名は目を瞬かせていたが、襲の行動は迅速かつ大胆であった。
外気に晒された鎖骨のやや下へと指を這わせ、思念波を送り込む。
「オペレーティングシステム、起動」
襲の囁きと共にイアノートの瞳が赤みを帯びる。
だがそれは一瞬だけの現象であり、大きな変化が生じたのはその後であった。
襲が指を滑らせた部分の肌に亀裂が走るや、微かなモーター音と共にイアノートの皮膚がパズルのピースのように隆起してゆく。
やがて扉のように開閉した皮膚――というより装甲の下には、青い水晶のような結晶物が嵌め込まれていた。
「こちらもお持ち下さい」
襲は丁寧な手付きで石を取り出した後、イアノートから手渡されたチェーンを石の上端にあった金具へと通し、ネックレスのように首へと下げる。
もう一つイアノートから手渡されたのは、小型の差し込み式のレシーバーの類。外見的には、以前まで入力端末の主流だったマウスのレシーバーと類似している。
それを受け取った襲は下に置いた荷物を抱え直し、肩から胸部の乗り込み口へと音もなく飛び降りた。着地するや否や、《マーナガルマ》の下にいるメンバーへと声を飛ばす。
「ミルさんと夜宵さんは出撃準備をお願いします。シェリルさんは手筈通り、直接空港に向かって下さい」
「ちょっ、ちょっと!術式がちゃんと起動するかもまだ確認してないのに、いきなり出撃るつもり!?てか、ミルって呼ぶな!」
動揺を露わにしつつも、ミルハレーナの手は夜宵が操作しているコンソールと同型の装置へと向けられていた。
一人手持ち無沙汰になったシェリルが二人の作業を見守っていると、《マーナガルマ》の肩から飛び降りてきたイアノートが小走りに声を掛けてくる。
「シェリルさん、これを」
言葉と共に差し出されてきた大きな黒い箱の中身に、シェリルは覚えがあった。
僅かに頷きつつ無言で荷物を受け取り、出口へと踵を返す。
「空港までご案内致します」
「すみません、宜しくお願いします」
携帯端末を片手に足となる自動車の手配を歩きながら始めたイアノートの後ろで、シェリルは箱の中身を確かめるように強く抱え直しながら、薄ぼんやりと白み始めた空を見上げる。
朱鷺色に輝き始めた空は、どこか憂いを帯びているような色味を少女の双眸へと映し込む。
その情景は、宛ながら、これから長い一日が始まることをその鮮やかな色彩を以て暗に示唆しているかのようであった。




