Act.55 度し難いのは人の常 <2>
リビングで襲たちが事件について話し合っていた頃、浴室に物理的にも精神的にも追放されていたカレンだったのだが。
「澪ちゃんは中学校楽しみ?」
「うんっ!小学校の頃の友達と別れるのは少し寂しいけど、新しい友達ができるかもしれないからっ」
「ふふっ、そっか」
他愛ない雑談を互いの身体を洗いながら交わしているうちに、既にカレンの脳内からは先程の一件が抜け落ちてしまっていた。
ささくれ立っていた心が溶けてゆくような、そんな温かな感覚。
浴槽に浸かりながら、家族とはこんなものなのかもしれないと、湯けむりの向こうに見える天井を見上げつつ柄でもない感傷に浸っていたカレンに、同じく湯船に入っていた澪から声が掛かった。
「カレンさんは学校楽しみですか?」
「うん?……ああっそうね、もちろん楽しみよ?
知ってる?第七学園も相当大きな学園だけど、第一学園はもっーと広いんだから」
「そうなのっ!?どれくらい!?」
詞素大学付属第一学園の大きさは百十五万平方メートルであり、その広大さも然ることながら、建てられている施設の規模も壮観である。第七学園ももちろん他学園に比べれば大きな学園と言えるが、第一学園や第二学園と比較すると、敷地面積も含め設けられている各施設もやや遅れをとっていると言えるだろう。
簡潔に第一学園について説明してみると、やけに目の前にいる少女の喰い付きが良いから不思議なものだ。
まったく可愛らしいものだと、思わず笑みが浮かぶ。
そうして時間を潰しているうちに少し逆上せてしまったらしい。
ほんのりと上気してきた肌を見遣りながら、カレンは先にお風呂から上がらせてもらおうと浴槽の縁に手を掛けた。
「あっ!そう言えばカレンさん!」
「う、うん?ど、どうしたの澪ちゃん」
何故か満面の笑みを浮かべている澪を見て、何やら不穏な気配を感じ取ったカレンは思わず縁に掛けていた手を滑らせ、浴槽の底に腰を打ち付けてしまった。
誤魔化すように素早い切り返しを行ったカレンだったが、どうやら澪はそれには気づいていなかったらしい。お湯を掻き分けて、ずいっとこちらへと身体を寄せてきた。
「ずっと前から訊きたいと思ってたんですが、カレンさんの好きな人って誰ですかっ!?」
「………はっ?」
どうやら先程感じた予感は気のせいではなかったようだと、胸中で自分の『味覚』を現実逃避気味に誉めそやしながら、カレンは素っ頓狂な声を上げていた。
対する澪は照れ笑いを浮かべつつも、実に楽しそうに続けてくる。
「いえ、実は今日友達に聞いた話なのですが、中学生ともなると恋バナ…?が段々と増えてくるそうで。
自分には良くわからないので、経験豊富そうなカレンさんに一つ経験談でもお聞きしようかとっ」
「はぁ……?」
どうやら彼女は、思春期特有の――と言うより女性特有の、と言った方が正確かもしれない――世界へと遂に足を踏み入れようとしているらしい。
出会ったばかりの時はあんなに小さかったのになぁ…などと、保護者じみた思考を巡らせていたカレンだったが、澪のセリフの中に含まれていた一つのワードに引っ掛かりを覚えていた。
(経験豊富そうって……一体、私のことをどんな風に見ているのかしら)
同時に、カレンはもう一つの言葉を思い出していた。
それは襲と第七学園で再開した時のことである。カレンの詰問に対する、無礼にも程がある一言だ。
『そうか…。年頃の少女は異性の目を気にすると言うし、てっきり然りげなくスカートを捲り上げサンプリングすることで、幼馴染の俺に一般男子高校生の意見第一号として率直な感想を求めたのかと――』
己の保身の為に言い放ったであろう言葉が、逆上せたカレンの脳裏を過ぎる。
(何なのっ?もしかして私って、ち…痴っ……みたいに見えるってことなのっ!?)
産まれて来てこの方一度も掛けられたことのない不名誉な疑いに対して、無言のうちに彼女が憤慨していると、怒りで紅潮していたカレンの姿に何を勘違いしたのか、妙にわくわくした表情を浮かべた澪がこちらの肩を掴んで上体を揺さぶってきた。
「照れてるっ!照れてるっ!」
「照れてないわよッ!」
「焦ってるところがアヤシイーです」
「その言い方の方が怪しいわよっ。ちょっ!肩を離しなさいっ」
暫くバシャバシャと浴槽の中で揉めあった後、今日一日の倦怠感と襲に対する苛立ちが胸の中でぶり返し始め、カレンはちょっとした復讐心に駆られていた。
副次的に芽生えた嗜虐心を満たすべく、澪にある問い掛けを投げることにする。
「澪ちゃんこそどうなの?襲のこと随分と慕ってるみたいじゃない」
これはかなり突拍子もない詰問だったのだが、脳内にピンク色の霧が掛かり始めていた少女にはすんなりと受け入れられたらしく。乱れた髪を直しながら、澪は不思議そうな顔で答えてきた。
「どうって……もちろん、大好きですよ」
「えっ……?」
恥じらいも含みもないその返答に、意表を突かれたカレンの喉から引きっ攣ったような声が溢れた。
カレンの動揺を余所に、澪は両頬に手を添え惚けたような表情を浮かべてみせる。
「だって――…良い『匂い』じゃないですかっ。正直、一家に一つは欲しいですっ」
(……良くわからないけど。取り敢えず澪ちゃんが、アイツのことを人間扱いしていないってことだけは理解できたわ)
もしかして澪は、襲のことを芳香剤の類だと勘違いしているのではないのだろうか?
そんな憐れみにも似た感情を巡らせているうちに、己が胸中に抱いていた襲に対する怒りが一気に鎮火してゆくのをカレンは自覚していた。
いっそのこと、そのまま事態も沈静化してくれれば幸いだったのだろうが…。そこまで現実は甘くなかったらしく、
「そう言うカレンさんはどうなんですか?」
「えっ?ど、どうって…?」
澪の問い掛けを上手く飲み込めなかったカレンが聞き返すと、澪は少しじれったそうな表情を浮かべた。
「襲さんのことですよっ。昔っから仲良いんですよね?」
この詰問は澪にとってはただの社交辞令のようなものでしかなく、言うならば、訊かれたことを訊き返す、そういった極単純な反復思考が働いただけであった。
そこに他意はない。
ましてや、悪意を孕んだ邪な意図はない。
だが、詰問を口にすると同時に。澪は――、
「カレン……さん?」
カレンの表情を見た、瞬間。
自分が訊いてはならないことを訊いたのだと、悟った。
彼女が浮かべていたのは恥じらいでも、憤りでもなかった。
強いて例えるならば、そう――慈しみや哀しみと呼ばれるものにこそ、最も近しい。
目線を下に切り、緋色の瞳に僅かな動揺を浮かべて。カレンは吐き捨てるように答えた。
「別に……アイツのことは、」
言いかかった言葉を呑み込むかの如く口を閉ざし湯船から上がったカレンの背中を見送って、澪は酷い焦燥に駆られていた。無意識のうちに手を伸ばし、カレンの肩に触れる。
「あ、あの……」
振り返ったカレンの表情に、先程の色は残っていない。肩に置かれた澪の手を握って、カレンは疲れを滲ませたような表情で笑った。
「ごめん、少し逆上せたみたい。先に上がらせてもらうね?」
そう言って手を離し、扉の先に消えてゆく。
澪は所在なさげに伸ばした手を自身の元へと引き戻しながら、吐く暇すら忘れていた息を、嘆息するよりも深く震えるように吐き出した。
構成術士に強いられる犠牲は、何も、青春を謳歌する為の時間や、耐え難い苦痛ばかりではない。
だが、別段特別なものではない。
人として、当然の如く繰り返すもの。
それは繋がりを持つことでしか生きられない人間にとって必然であり、理りにも等しい。
誰かと出会い、そして別れる。
四季と同じく。人は巡り合い、共に時間を共有し、そしていつかは別れる時が来るものである。
それは輪廻転生だと、とある東洋の思想家は語る。
それは神による救いだと、とある西洋の思想家は語る。
それはエントロピーの増大だと、とある物理学者は語る。
それは人だけではなく、この世に存在するもの全てに訪れるもの。
「かたち」あるものはやがて壊れる、それは道理だ。
強い化学結合によって結ばれた原子にも、別れは来たる。
それこそ、物理的な力が働いていないものであれば尚の事。
繋がりを欲し依存を求める人間も、また同じ。
家族や友人、そして愛しあう者の間にも、また――…、
浴室に満ちていた楽しげな喧騒はいつしか湯けむりの中に紛れ、今は聞こえなくなっていた。
在るのは静謐な、水を打つ、その音だけ。




