Act.50 顛末と <1>
楠那宅に迎え入れられた襲たちは、一階にあるリビングに通され木製の長テーブルの前に座らされた後、夕食の準備をすると言ってキッチンに引っ込んでしまった楠那を大人しく待っていた。
途中からやけにそわそわと落ち着きがなかったシェリルだったが、やがてただ席に着いて待つことに耐えられなくなったのだろう。「私も手伝います」と言ってキッチンへと足早に向かって行った。
釣られて槙人までキッチンへ向かおうとしたことには流石に意外性を覚えたが、冷や汗を浮かべて微動だにしないカレンにもある意味驚かされていた。
なぜ自分も手伝うという旨を申し出さないのか問い質そうかとは思ったものの、流石にそこまで無神経ではないので敢えて口を出すようなことはしなかった。決して、命が惜しかったわけではない。
「それにしても、楠那さんは料理自分で作るんですね。少し意外です」
同様に席に着いている槙人に向けて放った言葉だったのだが、当人も耳聡く聴いていたらしく。キッチンの向こう側から楠那のハキハキとした口調の声が飛んできた。
「そうかー?まぁ、淑女の嗜みってやつだな。遭難したときとかに役立つぞ」
「それは本当に淑女の嗜みなんですか…?」
声量を殺した返答には流石の楠那も聞こえなかったようだが、至近距離に身を置いていた槙人には聞こえていたようで。「それは、むしろサバイバル技術か何かの間違でしょう」と小声で呻いていた襲の言葉に、苦笑いにも似た愛想笑いを浮かべていた。
そもそも機械化が進んだこの世の中で、AGAなどの機械に頼らずに人の手で料理を作るという行為自体が珍しいと言えるだろう。
AGAの値段が発売開始当初に比べ大変安価になってきたということもあって、大抵の家には一機は必ず置いてあると言ってもいいほどAGAが普及している時代なのだ。調理や掃除、洗濯などのある程度の主婦業ならば、AGA一台あれば大抵こなせてしまう。
これは一人暮らしの人間には大変有難いことだが、夫婦間にはちょっとした軋轢を生み易いという開発側もあまり意識していなかったであろう意外な一面もある。
それは、専業主婦という職業(?)の廃絶だ。
AGA一台で必要最低限の家事をこなせるとなれば、否が応にもそういった一面が出てきてしまうもの。必然的に共働きが増えたり、挙句の果てには若年離婚の件数が年々増えている傾向にある。
当人たちはともかく、それに振り回される親御さんたちの心象が非常に危ぶまれる時代の到来だ。ただでさえ通信技術の発達で生のコミュニケーションの場の減少が謳われているというのに、全く、どうしようもない。
…まぁそれ以前に、鼻つまみ者の自分にはコミュニケーションを取る機会そのものが皆無だったわけなのだが。
便利になったはずなのに何とも生き辛い世の中だと、テーブルに置かれた麦茶で喉を潤しながら襲は胸中で苦笑する。
特に無駄話を交わすこともなくそうしてただコップを傾けていると、キッチンの方から何やら良い匂いが漂ってきた。すると、向かいの席に腰掛けていた槙人が「今日はカレーかな」などと笑いながら話しかけてきたので、仕方なく襲も取り敢えず楽しみだと臭わせる言葉を並べておいた。
まぁ、本当はハヤシライス派なのだが……カレーも好きなので、わざわざ言う必要もないだろうと判断した次第である。
それに、カレーの話をしていた所に急に個人的な好みの話を持ち込まれても、恐らく場の空気を悪くするだけだ。一応それくらいの気は効かせられる。我ながらどうでもいい話だな、コレ。
「なぁ、そういやお前って……ん、カレン?」
襲の横の席に座っているカレンがやけに静かなので、不思議に思いちらと視線を投げてみると、どうやら遅い来る睡魔と必死に戦っていたらしく、コクコクと船を漕ぎ始めているところであった。
その様子が余りにも阿呆らしかったので槙人と共に必死に笑みを噛み殺していると、周囲の気配の変化に敏く気づいたカレンが瞬時に姿勢を正し、視線で「何よ」と問い掛けてきたので、襲は取り敢えず「何でもない」とこれまた頭を振って意思表示をしてから素早く視線を正面へと戻した。
そんな中、襲はある重大なことを思い出していた。
思わず周囲を見渡し安全を確認してから、襲はスーツを脱ぎ私服へと着替えた槙人へと小さな声量で語りかけた。
「あの、娘さんは今日はどちらへ?」
突然の詰問に目を丸くしていた槙人だったが、何を納得したのか、一度だけ大きく頷いて真摯な笑顔を浮かべた。
だが質問自体にはすぐに答えてくれるらしく、玄関口へと視線を這わせてから口を開く。
「鳴神澪さんでしたら、確か今年から寮生活を始めるご友人の引越しのお手伝いに出ていらっしゃるかと。夕食は自宅で食べると仰っていましたし、頂いたメールの通りでしたら、恐らくそろそろ帰ってくる時間なのでは――…」
「ただいま!」
槙人が言葉を切り終わる直前、元気の良い言葉と共にガチャりと玄関の扉が開かれた音がした。
束の間の空白の後。
ガタン、という音を立てて椅子を蹴飛ばすように席を立った襲が慌てて部屋の奥へ走り、キッチンからの脱出を試みていた。あまりにも突然な動作に槙人はお茶を零しそうになっていたが、ようやく眠気が覚めたといった様子のカレンは逆に納得したような表情を浮かべている。
音もなく凄まじい手際で二階へと消えていった襲の背中を見送って、暫し。僅かな沈黙を挟んでからリビングに入ってきたのは一人の少女だった。
七高の制服に少し似たデザインの制服は、恐らく第七中学校のものであろう。そんな少女はカレンの姿を見つけた瞬間、驚いたような表情を浮かべる。
「お、お久しぶりです!カレンさん」
「ええ、久しぶり。突然お邪魔してごめんね、澪ちゃん」
「いえいえ、ウィスタリアに来てからはもう当分お会いできないと思っていましたので、とても嬉しいです!」
カレンに澪と呼ばれた少女は挙動不審に頭を下げ、にこやかな笑みを浮かべていた。
肩まで伸ばした茶髪に、大きな茶色の瞳。笑ったときにできる笑窪がなんとも可愛らしい少女である。
「そう言ってもらえると有り難いわね。私も澪ちゃんに会えてとても嬉しいわ」
「はいっ。浅野さんもこんにちはです」
極自然な動作で槙人にも頭を下げ、礼儀正しい態度を見せる澪。確か彼女は今年から第七学園の中等部に進学する新一年生だったはずだが、幼いながら、しっかりと礼節を弁えている少女である。
「こんにちは、澪さん。僕まで突然お邪魔してしまって申し訳ありません」
「そんなこと仰らないでください!昨年までは同じ家に暮らしてたんですから、気にせずいつでも帰ってきてください」
槙人の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、澪と呼ばれる少女は心無し程度に眉を吊り上げ不機嫌そうな表情を見せた。ここまで言われては流石の槙人も喜びの感情を押し隠せなかったようで、澪の頭を撫でながら「ありがとう」と微笑んでいる。
そうして来客と一通りの挨拶が終えた澪が着替えてくるとの旨を口にし、リビングを後にしようとした――その時だった。不意に立ち止まったかと思うと、澪はスンスンと鼻を鳴らし、ほうっとした表情でポツリと呟いた。
「いい“匂い”…」
「ん?ああ、今日はカレーみたいですよ」
何気ない呟きを拾って丁寧に返す辺り槙人という少年のマメさが垣間見えたような気がしたが、カレンはそうは思わなかったようで。苦笑いを浮かべながら、一瞬だけ襲のいた座席へと目を遣った。
カレンの動作に違和感を覚えた槙人だったが、すぐにその理由を理解することとなった。
否が応にも、だが。
リビングを飛び出してバタバタと階段を駆け上って行った澪を見送って、これまた暫し。
「やっぱりいたっ!」と言う少女の声が天井越しに響き、何やらガタゴトと物が倒れたり散乱するような騒音が数秒ほど続いた。
そして、再び訪れた空白の後、
「カサネお兄ちゃん確保ぉー!」
満面の笑顔と共に、澪は逃げようとする襲を制服の後ろ裾を掴む形でズルズルと引き摺ってきた。
非常に面倒臭そうな表情を浮かべている襲だが、幼い少女の手を振り切って強引に逃げることができないでいるのだろう。狩人に捕獲された野兎を思わせる惨めさで、リビングまで連れ戻されてくる。
「コラ離しなさいっ。制服が伸びちゃうだろ」
「嫌です!離したらぜったい逃げちゃうもん」
「…いや、もう逃げないって。今日は特に疲れてるし」
リビングに入ってからは澪に片腕を強引に引かれる形で連行されてきた襲だが、既に抵抗する気力すら失っているようだった。
「やっぱり、カサネお兄ちゃんが一番良い匂いがするー」
「はーなーれーろー。これだから『鼻』の良い奴はッ」
襲の胸に顔を埋めて惚けたような表情を浮かべていた澪だったが、当の本人は嫌そうな表情でグイグイと強引に引き離しにかかっている。
「ああ、なるほど……それで、ですか」
途中まで完全に理解不能といった面持ちで二人の様子を傍観していた槙人だったが、襲の発言でなんとか状況を飲み込めたのか、ようやく納得したような表情を見せた。
この場における「鼻の良い奴」という言葉自体に一般的な意味などなく、澪の言う『匂い』が、構成学におけるところの『臭い』なのだろう、と。
「すみません、騒がしくしてしまって。……アイツ、黙らせましょうか?」
「い、いえ、大丈夫ですよ、むしろ賑やかでいいじゃないですか」
赤の瞳に若干の殺気を混ぜたカレンの言葉に、槙人は冷や汗ながらに首を振った。
座席へと移動しつつも、道中妙な絡みを続ける二人の姿を視界に収めながら、槙人はお茶を口元へと運ぶ。
そもそも構成術士は「構成を読む」際に、基本的に五感で判断を下す場合が多い。「五感」とはつまり、「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」の以上五つの感覚のことだ。
例えば襲だったら「視覚」である。思念波を色や形で捉え、詞素の存在を視覚的に認識している。そして澪の場合は「嗅覚」だろう。思念波を様々な臭いとして捉えている。
なぜこのように「五感」で思念波や詞素を認識するのかという疑問点についてだが、それはミーム細胞が脳細胞の一種であることが大きな要因として考えられる。
現在の構成学会では、五感を司る各神経系にミーム細胞が癒着するような形で影響を与えている、というのが専らの見解として挙げられており、「構成を読む能力」とミーム細胞の癒着状況には大きな因果関係が存在していることが統計学的なデータで認められていることからも、襲もこれは概ね正しいと思っている。
ともかく、多くの構成術士たちはこうした感覚に従って構成を読んでいる。こうした構成の中には詞素の無意識下での循環操作、つまり詞素呼吸も含まれるわけであって、澪のような「嗅覚」に長けた者は構成術士個人を「臭い」で識別できるらしい。
それにしても、ほぼ完全に詞素呼吸をしていない襲の「臭い」を捉えるとは、全く、末恐ろしい索敵(?)の才能である。
そもそも、構成術士としては「無臭」なはずの襲の匂い(なぜか彼の脳内では“臭い”ではなくこちらの漢字が言語変換された)を好くとは、どういう見解、もとい性癖なのだろう?
少々気掛かりではあるが、「嗅覚」が鋭敏ではない襲には判断の下しようもないことなのは確かだ。
しがみ付いてくる澪を何とか引き剥がし、ようやく襲が席に腰を落ち着けた時には。
既に、キッチンからカレーの良い匂いが漂ってきていた。




