Act.45 罪科 <1>
微睡みにも似た生温い闇の底から、首から下をなくした少年がこちらを凝視している。その少年の頭部を抱えた少女は逆に、首から上がない。
声など出せるはずがないというのに――自身の足と足との間に腰を落としたまま、彼女は語り掛けてくるのだ。
『どうして?』
少女の問い掛けは、何故か背後から聞こえた。
言い様もない寒気に駆られ後方を振り返ると、見慣れた修道服に身を包んだジアーナが無表情で立っている。ほっと、シェリルが安堵したのも束の間。ジアーナの左手に提げられているバスケットの中から、再び少女の声が響く。
『ねぇ、どうして?』
無くした少女の頭部は、血みどろのまま、色とりどりのサンドイッチが並べられたバスケットの中に異物宜しく納まっていた。
「ごっ――あうぅッ…!」
答えようとしたシェリルの首筋に、今度はほっそりとした指が絡みついた。
締め付け絡み付くのは骨張っていない少年の指。だがその力は強く、食い込んだ爪の先がシェリルの肌に食い込み、じわりと血が滲み出してくるのを己が視界の隅に収めている。
『どうして見殺しにしたの?』
首を絞めてくる少年の手は、シェリルが抱えていたパン袋の中から伸びていた。痛みに誘われるように視線を下げると、パン袋の中には金髪の少年が“あった”。
血まみれの腕の間には、虚ろな眼を死んだ魚のように泳がせるイヴァンの生首が据えられている。
「――さいっ」
シェリルの喉から絞り出された声は、首が締め付けられている所為か掠れるほど小さい。対して、彼女を取り巻く少年と少女たちの問い掛けはその声量を増していく。
吐き出し、咎め、恨み、呪う。
払拭し難い不の感情の音階が彼女の鼓膜を刺し貫き、悔い蝕む。
『痛いよぉ』と買い物かごから零れ落ちた、熟れたトマトのような成りの少女が足元から呻き声を上げ、『何で見捨てたの?』と空洞と化した両目から血の涙を流した少年がその様を見てかシェリルの肩越しに問うてくる。
首から下をなくしたはずの少女の頭部が腹の底から搾り出したような声音で『寂しいよぉ』と訴え、『信じてたのに』そう言って少女の頭部を拾い、左脇に抱えた少年がシェリルへと空いた右手を伸ばす。
その隣で『本当に見捨てたの?』と、熊の縫いぐるみを抱えた少女が昏い眼差しを彼女へと向けた。違うと必死に伝えようとしても、『苦しいッ…』と呻く少女の指先が自身の喉を掻き毟り始め、返答する間をシェリルに与えぬまま、ぶちぶちと肉を裂き血の嗚咽を吐きながらに絶命した。
絶句しているシェリルの脇で『何で僕たちがこンな目に』そう片腕をなくした少年が俯き、『おネエちゃン…どうシて?』と嗤う。訴える声が低く不気味にダブり、どうしてこうなってしまったのかと自問し、自責する自身の声に視界が滲むのを自覚する。
そうして。怨念にも似た感情の唱和が、底なしの怨嗟を奏でる。
不意に、シェリルの抱えるパン袋がかさりと音を立てて蠢いた。
彼女の鼻腔を突いたのは香ばしい麦の匂いではなく。咽せるほど濃い血の臭いが、鋭敏な嗅覚を撫ぜるのだ。
袋の中の少年の口元に赤い雫が伝い、
『蝕ッテヤル』
血飛沫を上げてイヴァンの額が裂けたかと思うと、次の瞬間、割れた少年の頭蓋から昏く井戸の底のような「深遠」が覗いていた。彼岸の彼方、闇の坩堝からは次々と、何者かもわからぬ蝕手が伸びる。
「ごめん、ごめんなさいッ…」
絡みつく指は少女の首を絞め、全身に絡みつき、奈落の底へと引きずり込もうとする。空気を求めて顔を上げるも、彼女の口元を塞ぐように誰かの手がしがみ付いてきて呼吸すらままならない。
それは闇だ。容もなく、色もない。ただの昏がり。
――これが罰ならば、甘んじて受け入れよう。
頬を伝う涙と共に彼女の意識が闇に“堕ち”ようとした、刹那。
声が、聞こえた。
――世話の焼ける、と思惟が囁く。
気怠げで、気力も気概も感じない、怠惰な声。
だが、綺麗な『音』をしていた。
軽やかで、それでいて軽々しくはない。静謐でいて、無音ではない。尖っていても、決して刺さらない。
そんな不明瞭な『音』。
それでも、奈落の底にいた筈の少女の耳に確かに届いた。
『音』はやがて形を成して少女の目に映り込む。それは色をなくした世界で、たったひとつ虹のような七色をしていた。
輝きは『手』と成って。
闇を掻き分け、少女の手首を掴んだ。弛緩したシェリルの身体が、その力強い『手』に手繰られるように闇から引き揚げられてゆく。
温かい――…。
冷え切った全身を暖かく震わせる熱に、シェリルの喉が共鳴するように震える。
そして、光りの中へとシェリルの意識は引き込まれた。
光の先に引き込まれた直後。シェリルを襲ったのは、何者かに上から押さえつけられているような妙な倦怠感だった。それが重力によって齎される自重の負荷だと気づくと同時、見ていた光景が夢であったことをようやく彼女の脳は理解した。
(ここ…は…?)
朦朧とした意識の中でシェリルが目にしたのは、紫。やや黒みがかった雅な輝きが、彼女の瞳を覗き込んでいる。
まだ意識がはっきりとしない。
瞼を擦り視界の明瞭化を図るも、寝呆けた意識がそれを容認しない。仕方なく、彼女は現状の理解から始めることにした。再び瞼を開いて、目の前の存在を見据える。
視界に飛び込んできたのは、紫の……瞳だった。
正確には紫苑の瞳を携えた一人の少年の顔が、やや離れた位置からこちらの顔を上から覗き込んでいた。こちらが起きたと見るや、少年は顔を離しながら無表情に言い放つ。
「Доброе утро(おはようございます)」
「……はい?」
現状が上手く飲み込めず、思わず彼女は疑問形で返してしまった。
明らかに北欧系の顔立ちではない少年がロシア語で目覚めの挨拶をしてきたことに動揺してしまい、結果返事が返せなかったのだが、もしかして「おはようございます」と返事を返した方が良かったのだろうか?
纏まらない思考の中で少女が混乱の極みを来していると、ふと、あることに気がついた。
(まさかっ、さっきの…!?)
一瞬で先の戦闘の記憶が呼び覚まされ、シェリルは瞬時に戦闘状態へと移った。
『HETマジック』を発動させつつ、AIUに思念波を送り込む――だが、念じた術式は発動しなかった。
致命的なミス。彼女がそう思ったのは軍人としての直感と言うより反射に近いものがあったが、事実、戦闘において一瞬のタイムロスは生死に直結する。
「ほらっ」
ベッドから飛び退こうとしたシェリルを襲ったのは、少年から放られた銀の物体だった。
回避は困難。素早く判断した少女はそれが何であるかを確認するよりも先に、自身の防御を優先させた。
両手を頭の前で交差させ、急所を守る――が。
こちらから見てやや手前、シーツの上に落ちた物体は彼女のよく知る銀のブレスレットだった。
「あれ…?これは、私の」
AIU――。
そう呟くよりも早くに、シェリルはAIUを右手に掴み思念波を送り込んだ。
寸分の狂いもなく発動した術式は、『ガンクラフト』。やや薄暗い病室の中で淡い緑光を放ち、空いた左手に一丁の拳銃が虚空から顕現される。
「落ち着いて下さい、別に俺は貴女に危害を加えるつもりはありません」
銃口を向けられた少年は焦る様子もなく両手を開いて頭上に上げ、敵対心がない旨を口走った。
銃口は下げず相手の表情を伺うも、感情らしい感情が一切伺えない。
警戒心は薄めず、何者かを問い掛けようとして――…、
「あっ――…」
不意に足元がふらついたシェリルがその場に転倒しそうになった瞬間、少女の両手から構成術で造られた拳銃が離れ、床に落ちる直前で光の粒子となって霧散した。
その間に少年は音もなく一瞬で距離を詰め、彼女の上体をそっと支える。しかしどこぞのラブコメのように胸を触るなどといった醜態は晒さず、両肩に手を添えて転倒を未然に防ぐ。
当然抱きかかえるような格好にはなってしまったが、当の少年は大して気に掛ける様子もなく、観察するような視線だけを胸の内の少女に向けていた。
「まだあまり無理はしないで下さい、身体に障ります」
こちらの声がきちんと届いているのか怪しいところだが、取り敢えずはシェリルが抵抗を止めたことにほっと襲は胸を撫で下ろした。こんな密室で暴れられたら、学校の備品を壊すこと必須。更に言えば、楠那との契約にも反することになってしまう。
それに、まだ顔色が良くない。顔を覗き込んで休養が必要との判断を下した少年は、ポツリと独りごちた。
「やっぱり、少し“堕ち”かかったからな。仕方ないか…」
「何が仕方ない、ですって?」
不意に、背後から声が掛かった。
問い質すような声音。刺すような殺気。
その全てが、背後に立つ人物が何者であるのかを銘々と物語っていた。冷や汗が滝のように頬を伝い落ちていくのを自覚しながら、襲は油差しを忘れた機械のようなぎこちない動作でギリギリと後方を振り返る。
そんな彼を待ち受けていたのは、晴れやかな微笑みを湛えたカレンの姿だった。腰に手を当て、不穏な空気をゆらゆらと蒸気のように立ち昇らせている。
確かシュリーレン現象とか言ったな、などと完全なる現実逃避を実行しつつ、襲は残った精神力を総動員してポーカーフェイスを維持しておいた。
「何か言い分はある?」
死刑宣告にも似たその言葉に、襲は静かな戦慄を覚えた。
動揺を押し隠しつつ、取り敢えずシェリルの身体をベットに横たえて。カレンへと振り返りながら右手を顎に当て、人差し指と親指を伸ばしながら得意気な表情を作った。
「 Дети есть дети(男の子は男の子)?」
僅かな沈黙。
ロシア語がわからない幼馴染ではないはずなのだが、なにやら、言い様もない沈黙が漂う。
そうして無表情の硬直を見せていたカレンだったが、突然制服の内ポケットからTIGを取り出して操作を始めたかと思うと、何を満足したのか、大きく頷きながら満面の笑みを浮かべた。
襲が眉を顰めて疑問を呈していたところ、カレンは素早く手首を返しTIGの画面をこちらにも見せてきた。その画面には聞いたこと見たこともないロシア語翻訳アプリが開かれており、先の襲の発言がロシア語欄に、翻訳先の日本語欄には、こう表示されていた。
『男の子が女の子にエッチなことをしてしまうのは仕方がないこと(なので、俺は悪くない)』
(……何故だろう。このアプリからは、製作者側の悪意が感じられるんだが)
途中まではそれっぽい翻訳がなされていたのに、括弧の中の訳が秀逸過ぎて正直泣けてくる。
胸中で滝のような涙を流しながら画面の文字列に一通り目を走らせていた襲は、ふと、自身の発言を思い返していた。
Дети есть дети(男の子は男の子)…。
……あれ、よく考えたらこれ言い訳になってなくね?
――といった感じに、ようやくそのことに気がついた襲。
誤解を解こうと顔を上げると、目の前に立つ少女の前髪がさらりと流れ、全身からゆらりと陽炎が立ち上る光景を目撃した。
赤の一房に炎のような燐光を灯り、ジリジリと保健室の室温を上昇させてゆく。室温の上昇に対抗心を燃やしたかの如く保健室の壁面に設置された空調が唸りを上げて冷風を送り始めていたが、正に焼け石に水。温い風が悪戯に襲の黒髪を吹き乱してゆくだけである。
「遺言は……それだけ?」
「いや、待てやっぱり今のなし――」
静かな激情を孕んだ炎は収まる所を知らず。
気を失っている少女が目を覚まさないほど、静かに。保健室の備品が壊れないほど、手際良く。
悲鳴を上げる暇も与えぬまま、断罪の炎は罰すべき処断対象へと燃え移った。




