Act.22 フォノンアーツ <3>
ダリウスは試合が始まる直前まで、全身の細胞一つ一つまで詞素を行き渡らせていた。
それは、構成術士が戦闘態勢に入る前に行う準備運動のようなもの。
瞬時に構成術を発動できるように、そして己の肉体を強化する為に行う、謂わばルーティーン。
実技成績学年第五位の実力者たるダリウスの「それ」は、高校二年目の春を目前として、既に学生のものとは思えないほど洗練されている。
見る者に身体の末端まで神経が行き届いていることを窺わせる構えは、揺ぎ無い自信の表れか。
しかし己の才能に彼は自惚れたことはない。ましてや過信したこともない。
彼には実戦で何度も死にかけた経験があった。
その度に皆に助けられ、己の未熟さを痛感した。
何より“部長に命を救われた”。それも一度ではなく、何度も。
だから彼は自惚れない。己の実力を過信できない。
(だから……余計に腹が立つんだよッ!)
あの新入りは、酷く醒めた表情でダリウスを見ていた。
実戦も知らない若輩が、尊敬に値する先輩を、部長を軽んじているように彼は感じていた。
それは、それだけは絶対に許せない。
何より弱い奴をむざむざ死に行かせるような真似は彼にはできない。
だから彼は一撃で、一瞬で勝負を決めるつもりでいた。
常人ならば一撃で確実に昏倒できる自身が彼にはある。むしろ問題は殺さないように手加減してやることだ。
先程挑発を受けたときはついカッとなってしまったが、ダリウスも馬鹿ではない。
一撃で無力化すること。それに下手な構成術は必要ない。
AIUを使わないというならば、こちらも使わないで倒してやるつもりだった。
目的を遂行する為に、彼は自身の肉体に詞素を満たしていく。
実行する術式は、「HETマジック」――。
身体能力を向上させることを目的として使用される構成術で、人間強化技術(human enhancement technologies)を構成術の一部として組み込んだ武闘術の一種でもある。
AIUがなくとも簡単に発動できる構成術の一つとして最もポピュラーな技術でもあり、その具体的な効力は、肉体の「強度」及び「筋力」の底上げを行うこと。
詞素の吸蔵特性を利用したHETマジックの発動は非常に単純で、これは何の変哲もない単純な方法で実行できる。肉体に詞素を充填させる、ただそれだけでHETマジックは効力を発揮する。
これは構成術の基礎中の基礎の技術であり、これができなければまず近接格闘においては話にもならない。
だと言うのに――。
十四メートル先で床に膝を付いたまま沈黙を続ける少年は、明らかにHETマジックを使用している形跡はない。
微動だにせず、祈るように、ただ火蓋が切られる瞬間を粛々とした面持ちで待っている。
(AIUも使えない上にHETマジックも使えねぇのか…?舐めやがって)
戦いにおいて、制御されていない怒りはその妨げにしかならないと彼は知っている。
酷い苛立ちを覚えつつも、感情的になってはならない。
ダリウスは自分自身にそう言い聞かせた後、燻った感情を吐き出すように深く深呼吸した。
呼気と共に、詞素がダリウスの全身を白いオーラのよう包み込んでゆく。
(HETマジックッ――!)
右足を半歩引き、左手拳を前に、右拳を腰の辺りで浅く握る。
全身に詞素が行き渡ったことを鋭敏な神経の端で自覚しながら、ダリウスはその時を待った。
静寂と沈黙がコートに浸透してゆく。
「始めッ!!」
ベリルの声が、選手の耳に届いたか否か。
恐らくは一秒も経っていないであろう薄く細い時間の中で、ダリウスの間合いは襲を捉えていた。
襲は、まだ目を開けてすらいない。
確かにベリルの声を聞いてから一秒も過ぎていない僅かな猶予では、普通の人間は反応できないだろう。
完全な一般人か。ダリウスは加速してゆく思考の中で舌打ちした。
だが彼は、既に左拳を突き出している。
襲の顔面を狙った一撃は鋭く最短距離を進み、襲の頬を捉えた。
――はずだった。
肉を打つ感触はもちろんのこと、掠めたような感触すらない。
突き出された拳は空を切り、彼の視界から襲の姿が消えていた。そのことをようやく脳が理解した、瞬間。
横殴りの一撃が、ダリウスの意識を揺さぶった。
「がぁッ――!?」
横方向へと激しく弾き飛ばされたダリウスの身体が、幾度となく床へと叩き付けられる。
最中、彼は混乱していた。
それでもなんとか受身を取れたのはやはり修練の賜物と言うべきなのだろう。流れていく視界の端に床を捉えたダリウスは掌で衝突の衝撃を受け止めながら空中で身を捻り、ハンドスプリングの要領で体制を立て直してみせる。
(な、何をされたッ…?)
だが混乱した思考まで纏まったわけではなかった。摩擦で火傷した掌から意識を外し、衝撃を受けた箇所を探す。
どうやら左頬を殴られたらしいと、頬に走る鈍い痛みを文字通り痛感しながらダリウスは理解した。
殴られた際に口の中が切れたのか。口元を伝う血を拭い、彼は吹き飛ばされた方向を見遣る。
―――いた。
ダリウスから見て約五メートルほど前方に、背筋よく立つ襲の姿があった。
無機質な表情のまま、彼は自らの開始線の上に変わらず立っている。ダリウスに打ち込まれた位置から一歩も動かず、悠然と。
瞬間、ダリウスは聞いた。
自身の感情を塞き止めていた「何か」が崩壊したその音を、鼓膜ではなく、意識の中に聞く。
「うおぉぉおあっ!」
雄叫びを上げ、再度跳躍したのはダリウスだった。
その俊敏さは、先程の突進と比較しても遜色ない、むしろ優っていたと言えるだろう。その一方で、激情から生じたと思しき雑味がその小さな挙動の狭間に生じていた。
それを、襲は見逃さなかった。
突き出されたダリウスの拳に対し、襲は片足を引きながら身体を反転。まるで一回転するような動作でダリウスの一撃を回避したところで、隙だらけの腹部目掛けて跳び膝蹴りを放つ。
水平方向から、無理やりに、垂直方向への上昇を強いる一撃。
肉を打つ不快感が足の骨から襲の全身へと伝わるや、ダリウスの肢体が宙を舞った。苦痛に歪められた唇からは、唾液とも胃液とも取れぬ体液が滴っている。
襲は無表情のまま、観察するような色を紫苑の双眸に浮かべて。
丁度自身の目線ほどの高さまでダリウスの身体が浮いたところで、襲はダリウスのこめかみへと拳を振り下ろした。
衝突と同時、床に叩き付けられたダリウスの口内から苦悶の声が零れる。
「がぁっ!?」
跳ね上がったダリウスの身体が乱回転気味の軌跡を描く。その軌道上に足裏を合わせた襲が追い打ちを掛けるように蹴りを放ち、ダリウスの身体を斜め上方へとかち上げた。
脇腹への蹴りを受けたダリウスの身体が緩やかな弧を描き、数秒後に激しい落下音を競技場全体に響かせる。
同刻、襲の爪先が何事もなかったかのように開始線へと揃えられた。
嘆息を一つ。
無意識のうちに止めていた肺の空気を吐き出した襲が、緩慢な動作で顔を上げた――その先で、
「なるほどな……」
引き摺るように身体を起こしたダリウスが、呟きと共に左腕に巻かれたAIUへと思念波を送信していた。
ミーム細胞から抽出した詞素を思念波と共にAIUへと注ぎ込み、構成術の発動を促してゆく。
構成術の発動を補助する為に開発されたAIUは、“対象の情報”を人間の視覚情報。即ちヒトの活動電位(体内の生体電流)から解析し、座標情報として詞法陣の図案へと変換している。つまり注ぎ込まれた思念波に対して詞法陣を偏向機として干渉させる形で、明確な座標情報を術式へと書き込んでいく装置だ。
そもそも「詞核(ミーム細胞)」を構成するミーム粒子は、異なる次元間(虚数空間)を移動できる存在だとされており、ミーム粒子はこの特異性の下、詞素の次元空間移動と構成式演算領域を司る。
言い換えるならば、「詞核」は術者の要求に応じた構成式の提供と詞素の供給を担っていると言えるだろう。
これはアインシュタイン方程式による「世界線」と類似した特徴を示しており、その関連性はわかっていないのだが―――。
答えの出ない問いなど、この際、ダリウスにはどうでもよかった。
(こいつは強い!AIUを使わなきゃ相手にならねえッ!)
術を行使するプロセスなど知らなくてもいい。
術さえ発動できれば“コイツ”と戦える。
この時既に、ダリウスの中で生意気な新入生に対する憤りは消えていた。
代わりに芽生えた感情は、勝利への渇望。あるいは純粋な闘争本能そのもの。
強い奴に勝ちたい。それだけに意識が絞られ、入部試験という単語が彼の思考から溢れ落ちていった。
強い想いに応えるように活性化した詞素の輝きが、ダリウスの全身を淡く包み込んでゆく。
出来上がった術式は、近接構成術において上級技術に分類される構成術。
詞素の鎧を肉体に纏う術式、「詞素装甲(フォノンアーマー)」。
全身を高濃度の詞素で覆いつつ荷電させ、詞素同士を立体格子状に結合させることで強力な力場をその身に纏わせる構成術である。
纏った詞素は外部からのベクトルを相殺する形でエネルギーを放出し続け、また、粒子間で生じる余剰エネルギーが中波長程度の可視光線となって放出されるのが特徴な術式だ。
緑色の輝きが全身を覆い、後光のように強く猛々しい奔流となる。
嵐のように逆巻く輝きの中で、ダリウスは身を屈めた。
「行くぞッ!」




